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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で48回目です。
20世紀のわが国と世界の歴史
は余りに近いためか、あまりに生々しすぎるせいか
古代に負けず劣らぬ最大の謎であります。
さまざまな出来事の「背景・意図」が確定していないケースが多
いからでしょう。
そのためにも、自らの中にある「特定のイデオロギー」を捨て、
作戦用兵、リーダーシップ、外交、情報史をはじめとする様々な
視座から、興味をもって歴史を俯瞰的に眺める姿勢が不可欠と感
じます。ただ、もしかしたらそれが一番むつかしいのかもしれま
せんね。
この連載が素晴らしいのは、
まさにこの点をクリアできているからかもしれません。
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(48)
“歴史的岐路”となった「ワシントン会議」
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
今回の話題は「ワシントン会議」ですが、会議がまさにその後
の歴史を変えた、つまり“歴史的岐路”となったことを強調して
上記のような表題にしてみました。しかし、後々に歴史を振り返
ってみて初めて“歴史的岐路”だったことがわかるわけで、本会
議に参加した全権代表や当時の為政者たちは、“その後の歴史が
どう動くか”について暗中模索の中で難しい判断を強いられたの
だと思います。
さて自衛隊の各指揮官は、任務遂行のための「状況判断」が必
要とされ、その判断に基づいて「計画」や「命令」を具体化して
各種任務を遂行します。そのため、指揮官として、直面している
“あらゆる状況”を的確に分析し、正しい決心(決断)ができる
能力を向上するため常に鍛錬します。
幹部自衛官はまた、指揮官を補佐する幕僚(スタッフ)としての
効果的な補佐要領について幾度となく教育・訓練を受けます。各
指揮官には“個性”がありますので、決心も“個性”に左右され
る場合がありますが、幕僚は、個性を廃して“(軍事的)合理性
を最大限に追求”した結論(判断)を導き、指揮官と相対(あい
たい)します。
政治や外交も正しい決心を導くプロセスは同じと思うのですが、
戦前の我が国の政治や外交を振り返る時、このような“手順”を
しっかり踏まず、いわゆる“指揮官の個性”が優先されたような
結論で対処したと考えられる「事象」にしばしば出くわします。
前回の「パリ会議」同様、「ワシントン会議」においても、
“経験豊富な欧米列国”との差異なのかも知れませんが、結果と
してその“未熟さ”が仇(あだ)となって、我が国にとっての
“歴史的岐路”となってしまったものと考えます。それらを少し
詳しく振り返ってみましょう。
▼「日英同盟」の破棄
ハーディング大統領は、大統領に就任するや早速、パリ会議で議
題にならなかった太平洋・極東問題、そして軍縮交渉のための
「ワシントン会議」を日・英・仏・伊・中の5か国に呼びかけま
した。「国際連盟」未加入の米国が、国際社会の“実質的な舵取
り”を始めたのでした。
大統領は、中国における日本や欧州列国の既得権を排して「機会
均等」を得ようとする思惑から、“軍縮”を求める国際世論の後
押しを利用したといわれますが、特に、第1次世界大戦に勝利し
たとは言え、経済の痛手から窮乏のドン底にあえいでいたイギリ
スが強く働きかけたようです。
イギリスは、7つの海を支配した海軍の“世界一”の座をアメリ
カに奪われることを覚悟しつつ、「大規模な軍備を行なうことは、
必ずやあらゆる国々を貧困と破局へ導くことになろう」(ロイ
ド・ジョージ首相)と大戦後の平和待望論を利用して軍縮機運を
盛り上げたのでした。
我が国は立憲政友会の原敬内閣時代であり、海軍念願の「八八艦
隊」の建設予算が認められた直後でありましたが、大戦後の不況
が我が国も直撃して株や商品の相場が大暴落したこともあって
“渡りに船”とばかり会議参加を回答、全権主席の加藤友三郎海
軍大臣ほか、駐米大使の幣原喜重郎や貴族院議長の徳川家達らを
全権大使として派遣しました。
そのイギリスがアメリカを動かした“最後の切り札”こそが、間
もなく満期を迎える「日英同盟」だったのです。「日英同盟」は、
1902(明治35)年に結ばれて以来、日本外交の基軸となり、
日露戦争の勝利も第1次世界大戦の連合国側参戦もその恩恵を受
けた結果でした。前に、“「日英同盟」が破棄に至った責任は日
本にもある”と解説しましたが、破棄の要因は次の4つに集約さ
れるといわれます。
第1に、「連盟規約」第20条「本規約の条項と両立せざる連盟
加盟国相互間の義務や了解が各自国の関する限り総て本条約によ
り廃棄せられるべきもの」とする規約への抵触です。この結果、
「日英同盟」は、両国にとって政治問題化していたのでした。
第2に、アメリカが覇権を獲得するため、対日警戒感の延長とし
て、目ざわりだった「日英同盟」の破棄を狙っていたことです。
イギリスに(破棄に向けて)圧力をかけたともいわれます。
第3に、(前に取り上げましたように)イギリス内部の「日英同
盟」更新への反対論です。背景に、日本が中国に勢力を伸ばし、
日英の利害対立が生じる可能性があったことと、アメリカに莫大
な借款を負っているなど米英関係の重要性が増してきたことがあ
りました。
しかしてその実情は、大英帝国内では、豪州・ニュージーランド
は同盟存続、カナダは同盟継続反対、南アフリカは同盟に寄らな
いウィルソン主義を主張した中にあって、英国の主要閣僚、陸海
軍大臣や参謀総長まですべて同盟継続派で、日本が同盟堅持を言
えば、英国は自分から廃棄を言い出せる状況ではなかったといわ
れます。
第4に、日本の外交姿勢の変化です。当時の立憲政友会の原敬お
よび高橋是清内閣は、イギリスの国際的地位の低下に伴い、対英
協調よりも“対米協調路線”をとっていました。積極的に「日英
同盟」を破棄しようとの意思ではなかったようですが、同盟継続
の強い意志を欠いていたのです。
これらの背景にはまた、「日英同盟」締結する直接の原因となっ
たロシア帝国が滅亡して、同盟の存在意義そのものが消滅したこ
ともあります。この時点ではまだ、ロシア帝国に勝る共産主義国
家・ソビエトの“強大な脅威”を見抜けなかったのでした。
そして、会議の冒頭から、“第1次世界大戦とロシア革命によっ
て、アジア・太平洋地域に変化が生じた”として、大戦の戦勝国
である米・英・仏・日によって、各国が持つ太平洋方面の属地や
領土権益の相互尊重、それに起因する国際問題の平和的処理の仕
方が協議され、1921(大正10)年12月、「4か国条約」
として調印され、「日英同盟」は破棄されました。
同盟破棄は、最終的には弊原喜重郎の決断だったといわれます。
英国側の“迷い”を断ち切ったのでした。幣原は、その剛毅不屈
な精神をもって、その後の我が国の外交史の中で“協調外交”を
貫くことで有名になりますが、旧来の同盟による“勢力均衡”と
いう習慣と決別し、駐米大使の地位にありながら“異質な米国”
の本質を見抜けないまま、信念を持って当時の米国の理想主義的
な原則に同調したのでした。
まさに幣原の“個性”が優先された結果だったのですが、幣原の
みに責任を負わせるのは酷でしょう。当時の新聞なども「4カ国
条約」締結を大歓迎したのでした。
▼海軍軍縮―主力艦米国の6割に―
「ワシントン会議」のもう一つのテーマは、海軍軍縮でした。
会議に臨むに際して、海軍は「対米7割」を基本方針としていま
したが、全権主席の加藤友三郎は、当初からその必要性に疑問を
呈するとともに、「八八艦隊」の整備と維持に膨大な経費を必要
とすることから、「対米7割」には柔軟性を保持していたようで
す。
加藤を信頼して送り出した原敬は、その20日後の11月4日、
東京駅で19歳の少年に暗殺されてしまったことはすでに述べま
したが、本事件は、現職の首相がテロリストの手にかかって非業
の死を遂げるという憲政史上初めての出来事でした。しかし、後
継首相の高橋是清が「外交方針は不変」としたため、加藤は、当初
の方針どおり対応しました。
しかし、実際に「米:英:日が5:5:3」と発表されると、多く
の国民の「1等国、5大国の自負心を傷つけられた」との批判の
前に腰砕けそうなった高橋内閣に対して、加藤は職を辞する覚悟
で説き伏せ、最終的に、米英:日:仏伊を5:3:1.75、つ
まり対米英6割に相当する主力艦(戦艦と航空母艦)の保有量3
1万6千トンで決着し、1922(大正11)年2月6日、海軍軍
縮条約に調印しました。
加藤友三郎の主席随員として、のちに“艦隊派”の総帥になる加
藤寛治中将も参加しており、加藤友三郎と激しく対立していまし
たが、この段階では海軍の統制がとれていたことは付記しておき
ましょう。
▼「ワシントン体制」の成立・遵守
1922(大正11)年2月6日当日、前記4カ国に加え、オラ
ンダ、イタリア、ベルギー、ポルトガルを加えた9カ国により、
中国の門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括した「9カ国
条約」も調印され、その結果、“中国大陸における日本の特殊権
益を認めた”「石井・ランシング協定」も解消されました。我が
国は中国と「山東還付条約」も締結し(同年2月4日)、山東省
の権益の多くを返還しました。これについても幣原が途中から本
件交渉に参加し、条約締結に導いたとして米国や中国から大賛辞
が贈られます。
「ワシントン会議」で締結された「4カ国条約」「9カ国条約」
そして「ワシントン軍縮条約」を基礎とする体制は、アジア・太
平洋地域の国際秩序維持のための「ワシントン体制」と呼称され、
1934(昭和9)年ごろまで続きます。
この間の我が国の外交は、上記の弊原喜重郎による「協調外交」
を貫きましたが、その後の歴史から見ればそれは失敗に終わりま
した。同様に、フランスもまたドイツの報復を恐れて、米国や英
国と同盟を希望しましたが、英・仏・独・伊による「ロカルノ条
約」の締結を余儀なくされました。これも何の役にも立ちません
でした。
アメリカの対日警戒感はこれにとどまらず、やがて「排日移民
法」(1924〔大正13〕年)につながっていくばかりか、中
国の“国権回復運動”に同情的になっていきます。こうして、
“アメリカの覇権意識と我が国の大陸政策が真っ向から対立”し
始め、「激動の昭和」の“芽”が出始めたのでした。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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(代表・エンリケ航海王子)
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