配信日時 2019/06/27 08:00

【我が国の歴史を振り返る ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(43)】第1次世界大戦と日本 宗像久男(元陸将)

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
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WEB http://wos.cool.coocan.jp
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こんにちは、エンリケです。

「我が国の歴史を振り返る
 ―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で43回目です。

戦後日本でやたら持ち上げられてきた
犬養毅や尾崎行雄、大隈重信について、
私の敬愛する先輩は、ひとこと
「あのボンクラども」
と吐き捨てるように言ってました。

同時代を生きた人から見ればそんな印象だった
ようです。

さて、
専門家が専門家として生きるには
その基盤に「健全な常識」がないと、存在が
いびつなものになります。

とくに各分野の専門性が高まり、
専門家の世界が極端に狭く深くなる傾向にある今、
よりよい専門家足りうる唯一の土壌
「健全で幅広い常識」を意識して培うことは
極めて重要です。

それがないと、
今と将来を生きる人に対する、
人間としての説得力がなくなるからです。

とくにエリートとして生きる人々に
この姿勢は不可欠です。

その常識を培ってくれるこの連載は、
だから「極めて」稀少で重要なのですよ。

さっそくご覧ください。
大切な人にも薦めてくださいね。


エンリケ


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我が国の歴史を振り返る
 ─日本史と世界史に“横串”を入れる─(43)

 第1次世界大戦と日本


 宗像久男(元陸将)

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□はじめに
 最近、ホルムズ海峡をめぐって、“きな臭い動き”が活発化し
ています。前回取り上げた「サラエボ事件」が「第1次世界大戦」
に発展したように、小さな事件がその対応を誤ると、熾烈な戦争
に拡大する例は枚挙にいとまがないと歴史は教えてくれます。
 我が国へ運ばれる原油の8割はホルムズ海峡を通ってきますの
で、我が国としても決して他人事ですまされないのですが、独自
の対応には限界があります。2千年来の宗教観や価値観の違いは
ぬぐえないとしても、最小限、相互に“異質なものを受け入れる
度量”は保持しつつ、相手に責任を押しつけて無為な行動に走る
ことは“自制”して欲しいと願っております。

 6月22日現在では、トランプ大統領の“自制心”が働いたよ
うですが、先行きが懸念されます。
 
 さて、日露戦争の勝利を支えた「日英同盟」よって、我が国も
地球の反対側の出来事である「第1次世界大戦」に巻き込まれる
ことになります。しかし、当時の為政者たちの決断は安直で自制
心を欠いていなかったでしょうか。先人の行動を真似る傾向にあ
る我が国の為政者たちの性癖を考えると、大陸政策の当初段階の
“自制心の欠如”が「命取り」になったと思えてならないのです。

▼日本の参戦経緯―4日間で参戦決定―

第1次世界大戦の日本の参戦経緯を振り返るためには、どうして
も当時の我が国の政権の実態を知る必要があると考えます。

1914(大正3)年4月、山本権兵衛内閣が総辞職するや、山
県有朋は相変わらず政権への執着を見せ、前回取り上げたように
清浦奎吾の組閣断念の“すったもんだ”のあげく、立憲同志会の
大隈重信内閣が誕生します。山県と大隈は犬猿の仲だったようで
すが、陸軍の師団増強に反対する多数党の政友会第3代総裁・原
敬の組閣を防止するとの思惑から大隈を推挙したといわれていま
す。“毒をもって毒を制する”という山県の本領(執念)が見え
る組閣だったようです。

佐賀藩出身の大隈重信は、明治維新当初から政府のさまざまな要
職で大活躍し、1898(明治31)年には、薩長藩閥以外から
はじめて内閣総理大臣を拝命し、日本初の政党内閣を組閣しまし
た。だが、アメリカのハワイ併合に強硬に反対したせいで、わず
か4か月で総辞職しました。その後、政界を引退し、早稲田大学の
総長に就任しますが、第1次護憲運動が起こるや政界に復帰し、
76歳で2度目の内閣を組閣したのでした。

大隈は山県の期待に応えて、1914(大正3)年の総選挙で原
敬率いる政友会を230名の絶対多数党から一気に108名にた
たき落とし、2コ師団増設を実現しました。

そのようななか、第1次世界大戦が勃発し、同年8月4日、イギ
リスはドイツに宣戦布告しました。「日英同盟」には“自動参戦
条項”がなく、同盟の適用範囲もインドを西端とするアジア地域
に限定していたため、当初、イギリスは「日英同盟は適用されな
い」としていました。

その後、日本参戦をめぐるイギリスの態度は、日本の中国大陸の
権益拡大や南太平洋におけるドイツ領占領に対するオーストラリ
アなどの懸念、そして中国や米国が「日本の参戦反対」をイギリ
スに伝えていたことなどが背景にあって、二転三転します。

日本は、当初「中立」を宣言していましたが、山県や井上馨ら元
老が「我が国の世界的発展の好機であり、この機会に一大外交方
針を樹立すべき」との要請書を伝達したこともあって、8月8日、
ドイツに宣戦布告した上で、“参戦範囲を限定しない”との条件
で参戦を正式に閣議決定しました。我が国は、イギリスの参戦か
ら遅れることわずか4日、当初の「中立」を翻し、元老一致の賛
同を得て、第1次世界大戦の参戦を決めたのでした。 

なお、この決定には、加藤高明外相が強く主張したとの解説はあ
りますが、(調べる限りにおいては)陸海軍が積極的に関与した
との記録はありません。特に、シーメンス事件で失脚した山本権
兵衛前首相や齋藤実前海相が辞職していた海軍は、この政治的決
定に消極的だったようです。

イギリスは“戦域限定”を要求しましたが、日本側はこれを拒否
し、大隈首相が「日本の領土的野心はない」と述べ、ようやくイ
ギリスも参戦を了解しました。よく言われる「日英同盟に基づく
英国の要請」にはこのような“駆け引き”があったのです。

▼青島要塞の攻略

日本政府は、1914(大正3)年8月15日、ドイツに最後通
牒し、8月23日宣戦布告しました。

日本軍は、9月上旬、山東半島の青島や膠州湾を攻撃、約5千人
の守備隊で要塞化されていた青島を占領し、さらに済南から膠州
湾に至る山東鉄道を奪取しました。こうして約2か月にわたる攻
防で、第1次世界大戦間、陸軍唯一の戦闘を終えます。青島攻略
は、日露戦争時の旅順の教訓を活かし、要塞の詳細を解明するた
めに飛行機を初めて使用するなどして模範的な攻撃を実施し、死
傷者も300人弱に留まりました。

海軍は、ドイツ艦隊を追ってドイツ領の南洋諸島を占領しました。
また、陸海軍とも国際法を遵守し、青島で捕獲したドイツ人捕虜
(4700人)に対する丁寧な取扱いも話題になりました。これ
ら一連の戦いは「日独戦争」と呼称されることもあります。

▼「対華二十一カ条要求」と米国の批判

青島攻略後の日本は、山東半島を戦時国際法上の軍事占領として
軍政を施行し、駐留態勢に入りました。中国は日本軍の撤兵を要
求しましたが、我が国は、欧州列国は中国を顧みるいとまがない
ことと中国内の内紛状態を好機とみて、1915(大正4)年1月
18日、“悪名高い”「対華二十一カ条」を袁世凱に提出し、回
答を迫りました。

その背景を少し振り返ってみましょう。「辛亥革命」(1911
年)後、新政・中華民国としては中国南部の14省が独立を宣言
したに過ぎず、清朝の実権は残したまま皇帝を廃止し、袁世凱が
大総統に就任していました(孫文との間に密約があったといわれ
ます)。袁は新憲法を発布して自ら皇帝につくことを宣言したの
が、「二十一カ条の要求」と同じ年の1915(大正4)年でし
た。

当時、日本政府は、まだ中華民国政府と正式な外交条約を締結し
ておらず、日本と清国との間で結んだ諸条約の継承が明確でない
ままになっていました。なかでも、日本の大陸経営の根拠地とな
っている遼東半島の租借期限が25年、つまり1923年に切れ
ることが外交上の懸案になっていたのです。

「二十一カ条要求」は、第1号が「山東省のドイツ権益の割譲」
(全4カ条)、第2号が「関東州の租借期限や南満洲鉄道の権益
期限の延長、南満洲や東部蒙古における日本の独占的地位の承認」
(全7カ条)、第3号が「湖北・湖南両省にまたがる中国最大の
鉄鋼コンビナートの合弁事業に関すること(全2カ条)、第4号
が「中国沿岸の港湾や島嶼部を他国に譲渡または貸与しないこと」
(1カ条)などから成り立っていました。

評判が悪かったのが、秘密条項とされた第5号の「懸案解決その
他に関する件」に含まれていた(1)中央政府の政治、財政、軍事
顧問に有力な日本人を就任させ、警察官に多数の日本人を採用する
ことなどの“保護国扱い”、そして(2)南満洲から中国の主要都
市を結ぶ鉄道敷設権を日本に与えるとの“外国利権”に抵触する
ことでした。

欧州列国はヨーロッパの戦局に忙殺されて(不満を表明しても)
日本へ干渉できなかったのですが、袁世凱が秘密条項をリークし
て不成立させようとしたこともあって中国民衆の抗議運動が拡大
する結果になりました。最終的には、第5号を外して袁世凱に受
諾させ、公文書を交換します(5月9日)。袁世凱の帝政承認と
引き換えとの意味合いもあったようですが、袁世凱は日本の横暴
を非難するため、受諾日を「国恥記念日」と定めたのです。

また、日本のこのような勢力拡大を“目に余る行為”として批判
したのは、まだ参戦していなかった米国でした。米国は、第1か
ら第3号までは抗議する意図はなく、第4号と第5号については
明確に反対、とりわけ、ウイルソン大統領の関心は第5号に集中
していたといわれます。

日本政府は、前外相の石井菊次郎を渡米させ、ランシング国務長
官と交渉させ、米国は日本の特殊権益を認める一方、中国に関す
る領土保全、門戸開放、機会均等の原則をうたった「石井・ラン
シング協定」(1917〔大正6〕年9月)が結ばれました。し
かし、米国が認めた日本の特殊権益は経済的利益のみを指し、政
治的利益を含むと解釈した我が国と大きく食い違っていたようで
す。

米国の批判の背景に、中国政府の要請に加え、日露戦争以来の日
本に対する不信感、そして何よりも自国の“利権獲得”を目論ん
でいたことはまちがいなく、第1次世界大戦後のワシントン会議
で、米国は日本の対華要求を放棄させることになります。

なお、秘密条項については、山県ら元老にも隠していたことがそ
の疳にさわることになり、じご、“大隈落とし”に拍車がかかり
ます。山県は、後継に推挙された加藤高明をさえぎり、軍の直系
の寺内正毅(まさたけ)を後継内閣に押し立てます。

第1次世界大戦への参戦といい、「対華二十一カ条要求」といい、
この時代の我が国の為政者の“自制心を欠いた”稚拙な決断が、
日中関係を不可逆的な衝突路線に陥らせ、やがて満洲事変や支那
事変につながるばかりか、アメリカをも本気にさせて大東亜戦争
へ拡大する“導火線”になったと言わざるを得ないのです。

しかし、その時点ではまだ、その後の国際社会の歴史を大きく変
えることになる、巨大な時限爆弾の“信管”がすでに作動してい
ることをだれも知りませんでした。「ロシア革命」です。次回、
振り返ってみましょう。


(以下次号)


(むなかた・ひさお)


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【著者紹介】

宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。


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