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漫画 クラウゼヴィッツと『戦争論』
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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で42回目です。
大正とは何か?をきちんと今だに総括・評価できて
いない朝野問わない国史への無関心が、昭和以降今に至る
わが国の「すり減り」と密接にかかわっていることは間違
いない、と私は見ています。
大正時代は明治時代と何が違うか?
との問いに答えようとする宗像さんが出会ったのは
福田和也、石原莞爾という意外な人物でした。
大正とはいったいどういう時代だったのか?
との、やらなきゃいけないのに誰もやらない取り組みに、
宗像さんが挑みます。
大正とはどんな時代だったのでしょう?
あなたも思い浮かべてください。
シーメンス事件、桂園時代、軍部大臣現役武官制、
1次大戦、、見れば見るほど平成から今に至る時代と
雰囲気と匂いが似てます。思い浮かべてみてください。
あの時の護憲運動は大東亜戦争につながり、わが国を
亡国の淵に追いやったことも、、
さっそくご覧ください。
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(42)
「激動の昭和」に至る“道筋”を決めた「大正時代」
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
「大正時代」を振り返りながら、長い間、「明治時代」と
「大正時代」は何が違うのだろうかと考えていました。そうした
なか、先日、『地ひらく』(福田和也著)という石原莞爾の伝記
を読み直していた時、「石原莞爾自身も明治と大正の時代の違い
を真剣に考え、やがてそれが石原の高邁な戦略論に発展する」旨
のくだりを読み、何か“胸の痞え(つかえ)”がおりたような気
分になりました。
その概要は次の通りです。「明治維新から日露戦争までは、西
欧列国に伍して対等な独立国を建国するために、国民からすれば、
国それ自体が至高な価値だった。だからこそ、国は、それだけで
人々の生命を要請でき、国民(兵士たち)は進んで自らの心身を
国のために投げ出した(この献身の象徴こそが乃木希典であった
とも)。しかし、日露戦争が終わり建国のドラマが幕を閉じた後
は、国が至高な価値ではありえなくなり、時代全体が国よりも大
きな価値を求め始めた」というのです。
石原自身は建国の時代が終わった自失と虚脱から田中智学の日
蓮主義に走ったといわれますが、「大正時代」に入り、“国より
も大きな価値”を求めた結果が「大正デモクラシー」の興隆と政
党政治の実現に繋がりました。
そして大正末期、「大正デモクラシー」の総決算として(国民
の政治参加を拡大した)「普通選挙法」と(共産主義者などを取
り締まるための)「治安維持法」が制定されました。やがて昭和
に入り、「大正時代」の反動のように国家社会主義的な思想が跋
扈(ばっこ)し、複雑さを増す周辺情勢に対する国の舵取りが混
乱するなか「激動の昭和」に至ります。そのような“国民精神の
変遷”の走りとなったのがまさに「大正デモクラシー」でした。
▼「大正デモクラシー」―第1次護憲運動の原因と結果
その「大正デモクラシー」の定義自体は諸説あって、その実態
を把握するのは意外に難しいのです。まず、「大正時代」冒頭に
発生した「第1次護憲運動」を振り返ってみましょう。そのため
には再び“明治時代の政治体制”をレビューする必要があります。
「明治時代」は、明治維新を遂行した薩摩と長州出身者を中心に
政権をたらい回しに独占してきました。「藩閥政府」と呼ばれて
います。特に、明治後期には、憲政の中心には伊藤博文、軍事の
中心には山県有朋が存在していました。どちらも長州出身で吉田
松陰の門下生でもあります。
他方、自由民権運動などの影響を受け、イギリス流の議員内閣制
を目指す学士官僚や日清・日露2度の戦争の膨大な戦費をまかな
うための重い税負担に苦しむ国民の不満が高まり、政治参加を求
める動きに成長していきます。
この動きにいち早く対応した伊藤は、1900(明治33)年、
立憲政友会を創設しますが、政党政治を嫌う山県と対立すること
になります。その結果、1901(明治34)年から13(大正
2)年までの13年間、伊藤の後継で立憲政友会第2代総裁・西
園寺公望(きんもち)と山県派閥の軍人・桂太郎が交互に政権を
担当します(「桂園時代」と呼ばれます)が、次第に政党政治に
向けた基盤が整備されつつありました。
このようななか、「日比谷焼き討ち事件」(1905〔明治38〕
年)の流れで政治運動化したのが、1913(大正2)年の「憲
政擁護運動」(第1次護憲運動)でした。
きっかけは、前年の12(大正元)年、陸軍の2コ師団増設要求
に対して西園寺内閣が日露戦争後の急迫した財政では無理と判断
して否決した結果、上原勇作陸軍大臣が辞表を提出したことにあ
りました。
西園寺は山県に後任を依頼しますが、山県は自ら作った「軍部大
臣現役武官制」を利用して取引しようとしました。しかし西園寺
は応ぜず、さっさと総辞職してしまい、後継はまたしても桂とな
ります。今度は、陸軍の2コ師団増設に反対する海軍が海軍大臣
を出さないという事態になりましたが、桂は即位したばかりの天
皇を利用し、勅書を使って組閣してようやく第3次桂内閣を発足
させます。
これに対して、「藩閥打倒」「憲政擁護」をスローガンにした抗
議運動が激しさを増して全国に広がり、最終的には群衆が議会を
取り囲んだ結果、桂内閣は失意のうちにわずか2か月で倒れ、つ
いに「桂園時代」が終焉しました(「大正政変」と呼ばれます)。
そして山本権兵衛を首班とする薩摩・政友会内閣が生まれます。
山本内閣は、さっそく、「軍部大臣現役武官制」の改正に取り組
み、軍部大臣の補任資格を「現役に限る」としたものから予備役
まで拡大し、藩閥の影響力を排除しようとします。しかし、陸軍
系の反発は強く、山本は「シーメンス事件」(海軍部内の収賄事
件。陰謀説もあります)で総辞職してしまいます。
ちなみに、改正後の「軍部大臣武官制」の実際の運用は、予備
役・後備役・退役の将官から軍部大臣を任命した例はなく、一旦、
現役に復帰してから大臣に任命しました。また、山本内閣の後を
受けて大命降下した清浦奎吾(けいご)は、海軍拡張について海
軍と合意できず、海軍大臣候補が得られなかったために組閣を断
念します。このように、本改正は必ずしも徹底されないまま時が
過ぎ、昭和に入り、再び「軍部大臣現役武官制」が復活します。
我が国が「全方位外交」を強いられるような情勢下、「大正デモ
クラシー」の第1章はこのような混乱の中の幕開けとなり、その
混乱はまだまだ続くことになります。
▼「第1次世界大戦」の勃発・拡大
我が国が内向きの“争い”に明け暮れていた時、欧州ではとんで
もない事件が発生しました。1914(大正3)年6月、ボスニ
アの首都サラエボでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されたのです
(「サラエボ事件」)。本事件はやがて「第1次世界大戦」に発
展しますが、本シリーズにおいては、欧州で発生した大戦の細部
を振り返る余裕はないので、戦争の勃発から拡大の概要のみを紹
介しましょう。
クラウゼヴィッツは名著『戦争論』の中で「戦争は偶然の世界で
ある。人間活動のどんな領域でも不可知の物事がこんなに大きな
地位をしめるところはない。・・そのことがあらゆる状況の不確
実性を増加させ、事件の進行を攪乱させる」とまさに「第1次世
界大戦」の展開を知っていたかのように語っています。
現在でも“きな臭さ”が残るバルカン半島は、欧州の“火薬庫”
といわれ、地政学的にも欧州列国の“利害”が集中する地域です。
そのバルカン半島で、当時は、ボスニアの領有をめぐってオース
トリア(ゲルマン人国家)とセルビア(スラブ人国家)が対立し
ていました。
そして、日露戦争で敗れたロシアが「汎スラブ主義」を利用して、
再びバルカン半島経由で“南下”を企てれば、「汎ゲルマン主義」
のドイツやオーストリア・ハンガリーなどの中央同盟国と対立す
るのは必定でした。
「サラエボ事件」が起こるや、オーストリア・ハンガリーがセル
ビアに最後通牒を発すると、ロシアが総動員を命じました。ドイ
ツはロシアに最後通牒を突きつけて動員を解除するよう要求しま
すが、それを断られるとロシアに宣戦布告します。
ロシアは、連合国の母体である「三国協商」を通じてフランスに
西部戦線を開くよう要請したところ、「普仏戦争」(1870年)
の復讐に燃えていたフランスは総動員を開始、それを見たドイツ
がフランスに宣戦布告します。
仏独国境は両側とも要塞化していましたので、ドイツは有名な
「シュリーフェン・プラン」に基づき、ベルギーとルクセンブル
クに侵攻して南フランスに進軍しました。ドイツがベルギーの中
立を侵害したため、イギリスがドイツに宣戦布告し、日本も同盟
国イギリスの要請によりドイツに宣戦布告します。東部戦線はロ
シアがオーストリア・ハンガリーに勝利しましたが、ドイツは何
とか東プロシアへの侵攻は食い止めていました。一方、西部戦線
は消耗戦の様相を呈し、1917(大正6)年まで塹壕戦が続き
ます。
1914年11月になるとオスマン帝国が中央同盟軍に加入、戦
線はメソポタミアやシナイ半島などに拡大しました。翌15年に
イタリア、16年にブルガリア、17年にはついにアメリカがそ
れぞれ連合国側に加入します。こうして、総計7千万人以上の軍
人が動員され、戦いは1918年まで続きます。
クラウゼヴィッツではありませんが、このように、「第1次世界
大戦」の展開は、だれもが予測していなかった“不可知の偶然”
の積み重ねの結果だったとしか言えようがありません。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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(代表・エンリケ航海王子)
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