配信日時 2019/06/19 09:00

【陸軍小火器史(32)番外編】陸上自衛隊駐屯地資料館の展示物(4)─靴や装具など─ 荒木肇

こんにちは。エンリケです。

「陸軍小火器史」の三十二回目は、
番外編の4回目です。

細かい話と思われがちな軍人の靴の話ですが、
「細かいから誰もが看過しがち」
という点がポイントです。

興味を持つ人が少ないから、
<「敵とぶつかる前に、すでに戦力の3割は消耗していた」>
などの正確な知識を持つだけで、

ウソやデマ、ねつ造を、
クッキリした論拠を通じて
見抜けるようになれるわけです。

それも、このメルマガ記事を読むだけでです。

まもなく目にする
当時の「当時のことばで書かれた規定」が併記された
軍靴・装具の解説読みものを思い浮かべてください。


ではさっそくどうぞ。


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 陸軍小火器史・番外編(32)

 陸上自衛隊駐屯地資料館の展示物(4)
 ─靴や装具など─


 荒木 肇
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□ご挨拶

 まず入梅です。よく降ります。うっとうしいなと思いながら、
それなりに降雨がなければ、夏には水不足がいわれるでしょう。
紫陽花がきれいです。

 7月には参議院選挙が行なわれ、またまた賑やかな季節になり
そうです。いずれであれ、わが日本の将来を託せる政治家の方々
に出ていただきたいと願います。


▼陸軍将校の長靴や短靴の色

 資料館にうかがうと、さまざまな靴や装具が置かれている。陸
軍では日露戦争以後、下士兵卒用には編上靴(へんじょうか)を
支給し、巻脚絆(まききゃはん)でその上部から膝の下まで巻き
上げるようにしていた。乗馬しないことを原則とする下級兵科将
校(乗馬本分ではない)も編上靴をはき、巻脚絆や革脚絆で足元
を固めていたことが多い。

 色はどうだったかというと、将校や相当官の靴の色は規定があ
った。映画やテレビドラマでは黒色が主流のようだが、あれは間
違い。黒でも茶色でもどちらでもよかった。だから、保管されて
いる物の中には茶色があってもおかしくはない。祖父の遺品も茶
褐色だった。

 ただし、制限があった。正装、礼装の場合は黒のみである。通
常礼装のときは黒でもよいが、茶褐色が正式だった。軍装でも正
式には茶褐色で、黒であってもよいという規定があった。『ナニ
ナニすることを得(う)』という但し書きがついている。

 正装、礼装は服が黒だったから黒が合う。通常礼装、軍装は服
が茶褐色(カーキ色)だから、なんとなく茶褐色の靴が合うとい
うところだ。しかし、黒の靴でもおかしくはないという規定だっ
た。

 ここで昭和の時代の軍人の服装のことをもう一度まとめよう。
正装とは鶏の羽の前立てをつけた正帽(金色日章)をかぶり、正
肩章、サッシュ(飾帯)を着けた服。礼装とは、正服を着るが羽
の前立てを使わず、飾帯もつけない。ただし正肩章はつけた。通
常礼装とは、カーキ色の軍衣袴に正肩章をつけ、帽子も軍帽にす
る。ただし、刀は正刀帯を上着の上につける。軍装とは、戦時の
姿である。略房、軍帽をかぶり、重い軍刀は略刀帯(俗称ズベラ・
バンド)といった頑丈で幅広な機械編みの綿製のベルトに吊った。
これは上着の下につけて、上着の脇の切れ目から軍刀をのぞかせ
た。

▼短靴とはアンクル・ブーツのことをいう

 短靴(たんか)という用語があった。長靴(ちょうか)はすぐ
に分かる。乗馬長靴という言葉があるように膝下までおおう革製
の長靴(ながぐつ)である。短靴は「陸軍服装令」に決まってい
る。『(正装のときは)短靴は深ゴム式とし編上式(半靴式ヲ除
ク)を用ふることを得』、これが規定である。

 短靴とは「深ゴム式」というように、アンクルブーツ、わたし
たちの世代では「デザート・ブーツ」といった足首までおおうも
のをいう。内側サイドがゴムになっていて、戦前社会では「村長
靴(そんちょうぐつ)」などといったらしい。田舎の村では、名
士しか洋式の礼服などもたなかったし、それが村長さんくらいし
かいなかったということだろう。様式は紐で結ぶ編上式でもよい。
礼装も同じ。通常礼装の場合も同じ。軍装のときは、次のような
規定がある。『短靴、長靴及び革脚絆は茶褐色とす。ただし、黒
色のものを用ひることを得』となっていた。

 なお、将校とその相当官の革脚絆が制定されたのは1921
(大正10)年8月のことである。もちろん、色は茶褐色だっ
た。文化史の研究者によると、この頃から一般人も茶色革の靴を
はくようになったとか。

▼半靴式が許されたのは船舶部隊だけ

 正装でも、礼装でも、軍装でも許されなかった「半靴(はんか)」
とは何だろうか。これがいま、わたしたちが履いている靴、つま
り足首に届かない長さのものである。日露戦争の途中でカーキ式
の戦時服が制定されるまで、黒服に黒色の半靴で戦った。膝から
下は、いまも海上自衛隊が行進するときに使う「甲がけ脚絆」、
スパッツでおおっていた。これはスパッツがなければ、隙間がで
きて、そこに雪や泥が入ってしまう。また、半靴は深い泥などに
足を踏み入れると、脱げてしまうことがあった。
 
 例外規定があった。船舶部隊である。そこでは長袴(ちょうこ)、
わたしたちがふだん穿いている長ズボンのことをいう。長袴と半
靴が許されていた。たしかに上陸用舟艇(大型発動機艇や小型発
動機艇)や交通艇などの運行にあたる船舶工兵や、商船に乗り組
む船舶高射砲兵などは半靴式が便利だっただろう。万一のときに
も、短靴では水中で脱ぎにくかったはずだ。

▼日露戦争の軍靴

 日露開戦前から陸軍は、英国軍などの実績を考え、カーキ色の
軍服採用と巻脚絆(ゲートル)、短靴の採用に意欲的だった。開
戦直後の1904(明治37)年2月11日には勅令第29号で、
これまで白色だった夏服をカーキ色にすることができるとした。
編上靴と羊毛製のゲートルの採用も決定し、その標準耐用期間も
決めた。原則、軍靴(編上靴)は6ヶ月に一組、巻脚絆は1年で
一組、靴下は1か月一組である。もっともこれは「三八式軍靴」
に関わる平時における規定にしかすぎない。

 軍靴や背嚢(はいのう)、帯革(たいかく)、弾盒など、軍隊
が必要とする牛革は膨大な数になった。肉食中心で、屠殺(とさ
つ)、皮革処理にも慣れた欧米社会と違って、わが国は牛の飼育
頭数もひどく少なかった。

 開戦の1か月後には、当時の韓国から牛皮(塩皮、乾皮)の輸
入を始めた。それだけではとても足りないので、食べるために殺
した牛の皮を内地に還送するお達しが各部隊に届いた。ところが、
この処理の仕方が難しい。なにぶん、そうした技術自体がふつう
の兵隊にはろくに知られていなかったのである。

 「角、耳、四蹄(してい・ひづめのこと)と尾を切り取れ」とし、
革に刃傷(にんじょう)するな、肉片、血液などをしっかり除去
し・・・と兵站の糧輸部に送るまでの注意も出た。塩漬けにする
ときは、塩二升(約3.6リットル)ないし六升(約10.8リ
ットル)を使って、皮の表裏にわたって注意深く撒布(さっぷ)
することなどという。塩の調達もたいへんだった。
 
 こうして内地に送られた牛皮も、大きさによって違いもあるが、
1頭あたりおよそ編上靴4足をまかなうのがやっと、長靴だと2
足分しか取れない。奉天会戦(1905年3月)から1か月後に
内地に戻された牛皮は約2万7000にもなったが、それでも編
上靴10万足分にしかあたらない。海を越えた野戦軍は100万
人にものぼっていたのである。

 革不足のために、内地では背嚢が「帆布製」、靴もズック靴に
なり、炊事場の兵などには靴の代わりに下駄(げた)が支給され
た。

▼泣き所は縫い糸と形

 1909(明治42)年には手縫い式の42式、続いて明治4
5年にはミシン縫いの45式、さらに満洲事変(1931年)の
直前には「改45式編上靴」が制定された。45式は編糸にも補
強のために瀝青(れきせい・ピッチ)を塗った。ピッチとはター
ルを蒸留したものをいう。「改45式」は靴の底の縁を外側に出
してミシン縫いする改良を行った。

 この靴底と甲部をつなぐのはミシン糸しかなかったわけだが、
一番の破損はそこから起きた。濡れても、乾かす暇も十分になく、
過酷は環境下ではすぐに糸は腐り、底が抜けた。第一次世界大戦
で湿気と疫病に苦しんだ欧米軍は、ゴム製の化学接着剤を開発し
たが、わが陸軍にはそのゆとりがなかった。大東亜戦争でも各地
で悲劇は起きた。倒れた敵から、その装備を奪うとき、すぐに靴
に目がいったと体験者はいう。米英軍の靴は頑丈で、破損も少な
く、防湿性にも優れていた。

 装備品はその国の工業レベルを残酷なまでに反映する。たかが
軍靴の接着剤の優劣が、戦場の兵士達の戦闘力を左右する。たか
がで済まなかったのが軍靴だった。

 サイズは昔の単位で「十文~十三文」だった。一文は約2.4
センチだから、用意されたのは24センチから31.2センチ。
まずまずのラインナップだった。しかし、西洋直輸入の木型(き
がた)を元に製作した軍靴である。

 その木型が十分な研究をされて作られたかというとそうではな
かった。なにぶん、「靴を足に合わせるのではなく、足を靴に合
わせる」のが軍隊だった。入営するまで、下駄や藁ぞうり、長距
離では草鞋(わらじ)などで暮らしてきたわが軍の新兵さんであ
る。硬い皮の軍靴はマメの温床になった。

 当初の軍靴が西欧人の足型に合った靴だったことに疑いはない。
いわゆる「百姓足」、つま先は広がり、足指の間は十分広い。甲
が高い。登山する人は重い装備品や携行品を背負う。そのために
厚底の靴を履くが、同じように重い荷物を背負っても軍靴の底は
薄くて硬かった。ある戦場体験者は「敵とぶつかる前に、すで
に戦力の3割は消耗していた」と語った。
 


(以下次号)


(あらき・はじめ)

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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
 
 
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