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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
は、今回で41回目です。
日露戦争が終わってから大東亜戦争開戦までのあいだの
正鵠を射た歴史を、今の国民多数は持っていません。
なかでも大正時代については、
極めて偏ったものしかもっていない気がします。
どうすればいいのでしょう?
とりあえずは今日の記事を読んでください。
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(41)
揺れ動く内外情勢の中の「明治時代」の終焉
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
メルマガ「軍事情報」の読者であれば、『戦争にチャンスを与えよ』
(文春新書)という本を知っている方も多いと思います。本書は、
独特の戦略論を展開している、アメリカの著名な戦略家、エドワ
ード・ルトワックの近著で、2年ほど前に日本語にも翻訳されま
した。
ルトワックは、「戦争は巨悪であるが、政治的な紛争を解決し、
平和をもたらす大きな役割を果たしている」として、「このよう
な事態は、すべての参戦者が戦いに疲れたり、誰かが決定的に勝
利した時に発生する」と(だから、紛争に介入するな!とも)解
説しています。確かに大東亜戦争後の我が国の“平和”や日米同
盟は、ルトワックの言う“戦争がもたらした結果”であることは
疑いようがありません。
ルトワックはまた「平和は戦争につながる」とも唱えています。
つまり、「平和は、脅威に対して不注意で緩んだ態度を人々にも
たらし、脅威が増大してもそれを無視する方向に関心を向けさせ
る」として「『まだ大丈夫だろう』が戦争を招く」と警鐘してい
ます。この言葉は、我が国の現在の“平和”の「あやうさ」を暗
示しているようにも受け取れます。
この後半の部分については、「歴史から何を学ぶか」、つまり本
メルマガの総括として詳しく分析しようと考えていますが、今回
は、前段の部分、つまり“戦争が平和をもたらした”歴史上の事
例として、日露戦争後の日本とロシア帝国の関係を取り上げます。
▼“蜜月関係”にあった日本とロシア帝国
現下の情勢からは信じられないような話ですが、日露戦争後のわ
ずか10年余り、日露関係は、まさに大東亜戦争後の日米同盟の
ような“蜜月関係”にありました。歴史教育ではなぜかこの事実
を詳しく教えないので、この事実を知っている方はかなりの“歴
史通”と言えるでしょう。
元を辿れば、伊藤博文が日露戦争前に「日露協商」実現に動いた
ものの、ロシアを仮想敵国とする「日英同盟」の成立により挫折
し、開戦に向かったという経緯があります。その伊藤は、190
9(明治42)年、ロシアの蔵相ココツェフと満洲・朝鮮問題に
ついて非公式に話し合うためにハルピンを訪れた際に暗殺された
のでした。
伊藤が望んだように、「ポーツマス条約」締結後の1907(明
治40)年から1916(大正5)年まで、日露両国は、4次に
わたり「日露協約」を結び、朝鮮、満洲、内蒙古、極東などにお
ける両国の権益を相互に確認することになります。
第1次協約(1907年)では、公開協定として、日露両国が清
国との間に結んだ条約を尊重するとともに、清国の独立、門戸開
放、機会均等を掲げます。一方、秘密協定(清国には内緒)で
「満洲については、長春から南を日本、北はロシアの勢力圏」と
決めました。
「ポーツマス条約」では、関東州の租借権と東清鉄道南満洲支線・
付帯地の権益だけだったものが、この「日露協約」の秘密協定に
より我が国は南満洲の大陸経営まで行なうことになりました。し
かし、前回、紹介しましたように、「満洲問題に関する協議会」
において陸軍の満洲統治の願望に伊藤博文が「待った」をかけた
ことに加え、我が国は戦争で予算が底をつき、借金も膨らんでい
たこともあって、しばらくの間、半民反官の「満鉄」が担当する
ことになります。
やがて、ロシア帝国が革命によって倒れ、ソビエト政権が成立す
ると、中国の共産化を画策する手段として反日を宣伝するために、
この秘密協定を暴くという手段に出ます。他方、満洲統治の陸軍
の願望は脈々と受け継がれ、昭和に入り、ロシア革命後の共産主
義の脅威に対処するとの目的で関東軍が独立し、「満洲事変」に
よりその願望を実現します。これらの細部については昭和時代に
触れることにしましょう。
話を元に戻します。日露による分割支配の動きに対して、190
9(明治42)年、今度は米国国務長官のノックスが「全満洲鉄
道の中立化」を提案してきました。表向きは「日露が支配する鉄
道を清朝に譲渡し、列強の権益争いから中立化させる」ことでし
たが、その狙いは「国際管理の体制を敷き、米国資本の参入」を
狙ったものでした。
日露は、1910(明治43)年、第2次協約を結び、米国の中
立化提案を拒否して満洲権益の確保のための防衛協定を結びまし
た。“日露両国が協力”して米国の進出に待ったをかけたのでし
た。
その頃、欧州では、第1次世界大戦の対立軸となった独・墺・伊
の「三国同盟」に対して、英・仏・露の「三国協商」の体制が出
来上がっていました。英・仏両国は、「日英同盟」に加えて「日
仏協商」(1907(明治40)年)を結び、日本にロシアへの
接近を促したこともあって、米国のノックス案には否定的で、結
局は葬り去られました。新参者・米国に対する欧州列国の“意地”
もあったのかも知れません。
▼清の滅亡のその影響
1911(明治44)年、中国では「辛亥革命」が発生し、清が
300年の歴史を閉じて滅亡しました。清朝時代、満洲は清王朝
発祥の地ということで“特別の地位”が与えられていましたが、
その清王朝が倒れたのです。清の滅亡により、日露両国は思わぬ
余波を受けることになります。
この「辛亥革命」に対応するため、1912(明治45)年、日
露は第3次協約を結び、内蒙古の西部をロシアが、東部を日本が
それぞれ利益を分割します。こうした一連の「動き」が、その後
の日中関係が不可逆的な対立に陥るきっかけとなった「対華二十
一箇条の要求」(1915〔大正4〕年)につながっていきます。
これについても詳しくは後述しましょう。
明治時代の末期以降、我が国は上記のような“全方位外交”の舵
取りを求められます。ロシア帝国とは“昨日の敵は今日の友”と
なって、実質的に「三国協商」の枠組に参加することになります
が、一方、米国との摩擦や中国との対立がますます増大すること
になります。ロシアにもやがてロシア革命が起き、“蜜月関係”
は終焉しますが、その後の歴史の中でも、“全方位外交”の成否
が我が国の命運を握ることになります。事実、予期せぬ事態が数
多く発生するという“不運”もあるのですが、激動に至る“道筋”
の「出発点」はこの頃だったような気がします。
▼“理想の立憲君主”明治天皇の崩御
1912(明治45年)年7月30日、国民の祈りも届かず、明
治天皇が59才の若さで崩御されます。持病の糖尿病が悪化し、
尿毒症を併発したのでした。明治天皇は、欧州列国が我が国に迫
り来るなかで“世界史の奇跡”といわれた「明治維新」を成し遂
げられたことに始まり、以来45年間、臣下に「天皇親政」の動
きもあったなかで「立憲君主」を貫き通しました。
そして、西南戦争や日清・日露戦争と数多くの人が命懸けで戦っ
て困難を乗り越え、時の政権担当者も移り変わったなかで、明治
天皇だけは“不動の存在”として、まさに“自らの意志で権力の
行使を抑制する”「立憲君主制」の基礎を確立されたのでした。
皇子昭宮が薨去(こうきょ)されたとの報を受けたその時でさえ、
「憲法会議」の中止を指示されず、自らの務めとして最後まで出
席しておられた旨の逸話も残っております。
ちなみに、19世紀当時、世界には6人の“皇帝”がおりました
が、第1次世界大戦終了までに日・英2国以外は滅びてしまいま
す。その主要因は、皇帝たちが「親政」を行なったことです。我
が国の終戦時においても、天皇は「立憲君主」だったか「親政」
だったかが議論になりますが、「立憲君主」だった(と認められ
た)が故に廃帝を免れます。そう考えますと、明治天皇のご聖断
は「万世一系」を継続させ、我が国の未来を救ったと言えるので
はないでしょうか。その“理想の立憲君主”明治天皇が崩御され、
明治時代は終焉します。
▼「大正時代」の歴史書がない!
このように揺れ動く内外情勢のなか、時代は、「明治」から
「大正」へ変わります。私的なことで申し訳ないですが、私の父
は、明治45年4月8日の生まれです。そして、北部方面総監部
幕僚副長として札幌で勤務していた平成14年に92才で亡くな
りました。ちょうど、私が「歴史」に興味を持ち始めた頃でした。
本メルマガを執筆しながら、明治の終わりから大正時代は、まさ
に父や母が生まれ育った時代ということに思いが至り、にわかに
身近に感じています。
「大正時代」は、「大正デモクラシー」に代表されるように、
“国民の政治参加も可能となり、意欲に溢れるリーダーたちがさ
わやかに我が国の舵取りを行った時代”とのイメージがあります
が、不思議なことに「大正時代」と冠した書籍は本当に数えるほ
どしかありません。
確かに15年という短い期間であり、歴史家の研究の対象にな
らなかったのかも知れませんが、「大正時代」が「明治」から
「激動の昭和」に至る“道筋”を決めたことは間違いなく、個人
的には注目してこの時代を振り返る必要があると認識しています。
次回から数回に分けて「大正時代」を振り返ります。国内のみな
らず世界に目を転じれば、第1次世界大戦やロシア革命のように、
その後の国際社会に大きな影響を及ぼす事象も起こります。どう
ぞご期待下さい。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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(代表・エンリケ航海王子)
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