配信日時 2019/06/12 09:00

【陸軍小火器史(31)番外編】陸上自衛隊駐屯地資料館の展示物(3) ─軍刀、指揮刀─ 荒木肇

こんにちは。エンリケです。

「陸軍小火器史」の三十一回目は、
番外編の3回目です。

こんかいは、
軍刀をめぐるはなしです。

知らないことばかりで、
目だけではなく脳も醒めました。

いやあ、本当に面白いです。

さっそくどうぞ。


エンリケ


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 陸軍小火器史・番外編(31)

 陸上自衛隊駐屯地資料館の展示物(3)
  ─軍刀、指揮刀─

 荒木 肇
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□はじめに

 いよいよ入梅、梅雨になりました。先日までの猛暑日や、真夏
日とはうってかわって、肌寒い空気にいささか戸惑います。体温
調節が難しいです。皆様も体調を崩されませんように。わたしは、
5月の各地の陸上自衛隊駐屯地や部隊の創立記念式典にお邪魔さ
せていただき、大忙しでした。

 陸軍将校といえば、残された写真のその手には必ず刀が握られ
ています。しかも、支那事変(昭和12=1937年)以来の記
録が多く残されていることから、「陣太刀」タイプの軍刀が有名
です。日本刀伝統の柄巻(つかまき・サメの皮を張り紐で巻き締
める)や刀緒(とうちょ)や全体のデザインは中世以来の陣太刀
のようです。

 しかしながら、よく考えれば、もともと帝国陸軍は西洋式軍装
(軍衣袴や装具一式)であったはず。実は、陸軍が用いた指揮刀・
軍刀がああした古来からの姿を再現したのは、陸軍史の中ではご
く短い時代のことでしかありません。

 1934(昭和9)年2月14日に勅令第26号によって「軍
刀の改正」が行なわれたおかげでした。ついでにしばしば出てく
るので、「勅令(ちょくれい)」という言葉も説明しておきまし
ょう。天皇の「国務大権(たいけん)」による命令が「勅令」で
した。いわゆる議会が制定した法律に対して独立に発する独立命
令、法律を執行するための執行命令、それに法律の委任に基づく
委任命令の3種がありました(『昭和戦前期の日本-制度と実態』
百瀬孝、1990年、吉川弘文館)。

 独立命令である勅令は公式令、官制・官吏令・軍制令・栄典令・
恩赦令の5種類がありました。陸海軍人の服制は軍制令の中に含
まれます。よく知られているように、軍隊は天皇自らが統帥され
るので、それに関する事項は国会の審議や協賛などが必ずしも必
要ではありません。それこそ、現在のように自衛官が「箸の上げ
下ろし(笑)」まで国会議員の監視を受ける時代ではなかったの
です。

 勅令には上諭(じょうゆ・天皇が臣下にさとされるお言葉)が
つき、天皇が親署され、御璽(ぎょじ・天皇の印鑑)を鈐(けん)
し(捺印すること)、内閣総理大臣が年月日を記入して副署しま
した。あるいは内容によって他の国務大臣、もしくは主任の国務
大臣が副署します。

 「軍令」という言葉も、近代史のお好きな方は目にされるでしょ
う。これは統帥大権に基づいて「帷幄上奏(いあくじょうそう)」
によって出された勅令です。帷幄というのは天皇の居場所をいい、
陸軍参謀総長、海軍軍令部総長によって天皇に奏上されて勅裁を
得たものでした。つまり閣議に出されることではありませんでし
た。1907(明治40)年に「軍令第一号」によって始められ
た法令の形式です。

 この年、「公式令」が出され、勅令はすべて内閣総理大臣の副
署を必要とするように改められました。そのため従来のように、
帷幄上奏によって決定され、陸・海軍大臣の副署のみによって発
令されていた軍の統帥上の勅令も同じ扱いになってしまう。それ
は法令形式の不統一になる、ということから「軍令」と切り離す
ことになりました。

 このことを誤解して、「軍部の力が増大した」とか「日露戦争
の勝利におごった軍部の横暴」などと解釈する人が過去にはいま
したが、それは誤りです。これまでの勅令では、形式的には軍内
部への強制力ばかりか、国民一般への拘束力もあったのです。そ
れが切り離されることになりました。単に法令の形式上の整理だ
ったことにすぎませんでした。


▼陸軍で刀は誰がもったか

 明治の初めの「廃刀令」は有名である。その内容は、文武官、
定められた官吏など以外は、平常、帯刀してはならないというこ
とだった。興味深いのは、いまだに俗説として、江戸時代の庶民
は刀を持ち歩いていなかったという間違いが通用していることだ。
最近の研究では、庶民でも非公式な場面での帯刀は慣例になって
いたとのこと。その代わり、儀式や行事、公的な場所への出頭時
などに公然と帯刀する権利だけがあったらしい。もちろん、多く
の人はそういう身分に憧れたという。

 明治になって、公然と帯刀ができなくなり、それまでどこに行
くにも刀を帯びていた士族だけが戸惑ったことだろう。廃刀を訴
えたのは、官員となって、洋式の環境の中で執務する士族たちだ
ったというのも楽しい指摘である。鉄道の測量技師となった士族
は刀がコンパスを狂わせたし、椅子に座った事務職たちも刀が邪
魔だったからという。

 陸軍では曹長以上が帯刀本分、軍曹以下が帯剣本分とされた。
この本分は、正規の法律用語であり、他に乗馬本分という言葉も
あった。すなわちそうする権利と義務があるという意味である。
帯刀者は「刀」を佩用し、帯剣者とは「銃剣」などの剣をさげる
ことになっていた。

 そこで、曹長には兵器廠で製造された長剣が支給された。いま
も陸自資料館で目にすることができるのが「三十二年式軍刀」と
いわれる「洋刀」である。1899(明治32)年に制式化され
た。これには騎兵用の「甲」と他兵科用の「乙」があった。

 甲は刀身が乙より6センチメートルほど長く、重量も金属製の
鞘、つり革、ベルトも含めて1.423キログラム。片手握りで
護拳(ハンドガード)つき、鞘に付いた環状のつり革にさげる佩
環(はいかん)は1個である。全長は1.002メートルだった。
騎兵はこれを馬上で振りかざし、主に刺突(しとつ)したが、斬
撃も行なった。持ってみると、重心が前にあり、左手で手綱(た
づな)を執りつつ右手でもって振り下ろしやすい。

 歩兵や砲兵、工兵の曹長など徒歩者用の乙は、全長0.92メ
ートル、重量1.356キログラムだった。憲兵下士官、上等兵
もこれを帯びた。輜重兵の下士官・兵は騎兵と同じ装備であるか
ら長大な甲を支給された。

 1934(昭和9)年には後に述べるように、准士官・将校用
の軍刀の外装が日本式に改正され、この官給軍刀も「九五式軍刀」
といわれ、和風になった。両手で使えるように柄も長くされ、護
拳も付かなくなっている。特徴的なのは、柄巻きは金属製の型押
しであり、切れやすい紐が使われていない。

▼見習士官は曹長の階級だった

 下士官は身分上、堂々たる判任武官であり、下から伍長、軍曹、
曹長となった。階級章も緋色の長方形の中に金筋が1本。そこに
星が1つ、2つ、3つとならぶ。曹長の地位の重さがいまではな
かなか分からないが、下士官の最高位であり、中隊ならふだんは
事務室で給与掛(きゅうよがかり)などの重要な事務をとってい
た。内務班長(軍曹・伍長)の先輩であり、准士官である「特務
曹長(とくむそうちょう・のち准尉と改称された)」の仕事を助
けた。

 平時の大正時代から昭和前期では、志願して伍長になり、5年
で軍曹、10年で曹長に進み営外居住を許され、たいていがそこ
で結婚できた。15年目くらいに優秀で、運がよければ特務曹長
(准尉)になった。

 もちろん、こうしたたたきあげの人にも道が開かれていた。曹
長のときに少尉候補者を受験し、1年間の士官学校への入校がお
わり、見習士官(みならいしかん)の期間をすぎれば高等官であ
る少尉になることができた。

 また、士官学校本科卒業生が部隊に着任したときには曹長の階
級に進められた。同じように、支那事変以後の大量動員時代、各
地の予備士官学校を出て部隊に戻った甲種幹部候補生たちも曹長
の階級だった。

 この「見習士官」というのは当時としては、なかなかイキな格
好だったそうだ。現役士官候補生出身の方の話だが、「卒業時に
は指揮刀をつくった」という。「偕行社」に注文して、外装が洋
式の銀色金属、片手もち、護拳つきのサーベルのことである。も
ちろん刃などはつけない。曹長の軍衣袴(ぐんいこ、ふつうにい
う軍服上下)に、襟には士官候補生徽章(五稜の銀色星)を曹長
の階級章の外側に付け、正装や礼装に使う「正剣帯(バックル式)」
を上衣の上から締めて、それに指揮刀を吊った。

 普通の曹長は官給の曹長刀、それに対して見習士官は私物の指
揮刀である。もう一つの外見上の特徴は軍帽である。曹長は官給
の革製切りつば、黒革あご紐の帽子だが、見習士官は将校用のエ
ナメル塗り黒つば、あご紐付きの私物軍帽をかぶった。1932
(昭和7)年に試験製作され、実用も試された戦闘帽(略帽)に
も将校用、下士兵用の区別があった。

 昭和9年に全軍に配布されるようになったが、帽章の星が将校
用は金モール、それ以外は「黄絨」でできていた。立体感のある
なしである。この略帽も見習士官は曹長でありながら将校用のも
のをかぶった。

▼正剣、指揮刀、軍刀

 前にも書いたが、陸軍将校と各部同相当官には正装があった。
鶏の羽でできた前立てをつけ、両肩に肩章をのせ、サッシュ(飾
帯)を腰に巻いたのが正装。前立てを付けず、サッシュを締めな
いのが礼装と考えればよい。この正装のときに佩用したのが正剣
である。フランス風のエペという直刃の刺突用であることが、斬
撃もできるサーベル(指揮刀)とは異なっていた。いまも、フェ
ンシング競技には、エペ(相手の全身のどこでも刺せばよい)、
フルーレ(胴体のみ刺す)、サーブル(上半身を斬る、突く)と
いう区別がある。そのエペである。

 兵科将校や准士官はサーベル型の指揮刀を吊り、戦時に出征す
るときには洋式外装、つまり護拳(ハンドガード)がついて、金
属性の鞘に納まった同じくサーベル型の軍刀を用意した。柄はも
ちろん双手(もろて)で握れるように大型化したものである。

 1905(明治38)年に急いで作られたカーキ色軍衣袴は、
翌年には制式になった。このあと明治41年には小改正がいくつ
か行なわれた。軍帽のクラウンの下部両側に2個ずつ小さい穴が
空けられた。蒸れないようにしようというわけだ。そして、刀に
ついても初めて細かい規定ができた。刀身の長さは2尺(約61
センチ)から3尺(約91センチメートル)以下、反りは5分
(約1.5センチメートル)だから穏やかな形といえる。柄の長
さも好みに合わせて1握もしくは2握だから、片手でも双手でも
自由になった。

 そうして、このとき初めて軍医や主計、獣医官たちは兵科と同
じサーベル型の軍刀を佩くようになった。これ以前は、ずっと正
装と同じ直刀のエペを使っていた。日露戦争の兵站監部や後方部
隊の集合写真をみると、各部士官が軍帽の鉢巻が黄色の兵科では
なく各科の定色であり、直刀のエペを持っていることが分かる。

▼陣太刀型の新軍刀

 1934(昭和9)年2月14日に勅令第26号で、刀、すな
わち軍刀の改正があった。満州事変(昭和6=1931年)以来、
大陸で中国軍との戦いが続くと、白兵戦闘の機会が増えた。こう
いってはなんだが、陸軍は白兵主義だったとかいうけれど、実際
は重機関銃、軽機関銃と擲弾筒といった火力を重視したのが日本
陸軍歩兵である。分隊レベルの戦闘をみても、軽機関銃を撃ちま
くり、小銃は「40メートルから50メートルでも使わない」と
いうのが常識でもあった。

 歩兵の小銃は突撃にしか使えない、というのが当時のあたりま
えであった。それが中国軍はしばしば白兵戦闘を挑んできた。中
国軍の主兵器はふんだんにあった手榴弾である。この爆発をさけ
て突入すると、中国兵はしばしば刀や槍、銃剣による格闘戦を挑
んでくることが多かった。あたかものちの米軍の火力に圧倒され
た日本兵のようである。

 そうしたときに将校たちは双手(もろて)で斬撃にも使える日
本刀が頼りになったにちがいない。もともと、私物だった軍刀で
ある。家に伝わるものや、刀剣商から買った日本刀を洋式外装に
仕込んでいった人も多かったのだ。

 新制式の軍刀は、昭和初めの国粋主義の影響を受けたこともあ
るだろう。外装は、まさに古来からの陣太刀形だった。批判もあ
った。柄の糸巻きである。日本刀の美しい真田紐(さなだひも)
などに代表される柄巻きは、手にしっくりくるし、美しい。しか
し、あれこそが戦場では弱点になった。江戸時代の武士もふだん
は「柄袋(つかぶくろ)」といって、柄を保護するようにしてい
た。

 幕末の「櫻田門外の変」でも、降雪にそなえて井伊家の武士た
ちは油紙製のカッパを着て、柄には袋をつけていた。おかげで浪
士たちの襲撃にすぐに対抗できなかった。

 柄巻きの糸や紐は水火に弱い。革を巻いたほうが良かった、そ
の上に漆(うるし)をかければなお良いという批判が当時もあっ
た。刀緒(とうちょ)にも文句がついた。柄頭(つかがしら)か
ら、「手抜きの緒」がさがっていた。戦闘時にはこれを手首にか
けて、落とさないようにするのが刀緒である。これが長いので、
戦闘中に目に当たったり、腕に絡んだりして不便だというのであ
る。

 各駐屯地資料館には、実際に多く遺品が残っている。金属製の
鞘は、多くの場合、革によって覆われている。大東亜戦の末期の
ものは簡易外装といって、装飾性がなくなっている物も多い。こ
こでは制式にしたがって書いておこう。

 柄は刀身の中茎(なかご)にかぶせる。朴(ほお)の木に白い
鮫皮(さめがわ)をかぶせた。柄頭と縁金(ふちがね)は銅メッ
キした桜花と桜の葉。鳩目(はとめ)は二重裏菊(ふたえうらぎ
く)、目貫(めぬき)は三双桜花ですべて金色金属である。目釘
(めくぎ、刀身と柄を連結する)は1本のものもあれば、2本も
ある。これを表面から隠すのが目貫である。

 問題になった柄巻きは茶褐色の革、あるいは絹糸、綿糸製の平
打紐(ひらうちひも)で巻いた。鍔(つば)は黄銅製で表裏の四
隅(よすみ)には銅メッキした桜花を1個ずつつけた。鞘は、朴
の木で作り、その外側を錆止めした鋼で包んで、新しいカーキ色
(帯状茶褐色)で塗装する。鐺(こじり、鞘の先端)も黄銅製だ
った。他にも細かい規定があるが、桜花と葉のデザインはなかな
かに凝っている。

 刀帯(とうたい、刀を吊る帯)は黒革製だった。この裏は将官
と佐官は紅革あるいは緋色絨で、尉官と准士官は藍色革、あるい
は藍色絨である。騎兵科だけはニッケルメッキの鉤鎖(こうさ、
フランス式にグルメットといった)を使った。実際には軍装の場
合は他兵科の士官もこれを使ってよいとしたので、格好いいとい
うことから若い将校はこのグルメットを選んだ人も多かった。資
料館にはよく実物が残っている。

 問題になった刀緒だったが、これも階級識別ができた。表はみ
な茶色だが、裏は将官が金糸三条山形の交織、佐官は赤、尉官・
准士官は紺青の平打絹紐となっていた。

 次回は資料館によく残る着装品の解説をしよう。従軍記章など
もそこでまとめたい。


(以下次号)


(あらき・はじめ)

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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
 
 
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