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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
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わが国の情報史(34)
昭和のインテリジェンス(その10)
─満洲事変から日中戦争までの情報活動(3)─
インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに
元農林水産事務次官(76)が長男(44)を殺害するという
ニュースが話題を呼んでいます。元次官は警視庁に対し、川崎市
で児童ら20人が殺傷された事件に触れ、「長男が子どもたちに
危害を加えてはいけないと思った」という内容の供述をしている
ようです。
この事件で筆者は、「ヒヤリ・ハット」すなわち「ハインリッ
ヒの法則」のことを思い起しました。これは、1つの重大事故の
背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常、
すなわち「ヒヤリとする、ハットする」ヒヤリ・ハットが存在す
るというものです。
先日、池袋で87歳の旧通商産業省高官が自動車暴走し2人死
亡させる事故が起きました。この事故にも軽微な事故やヒヤリ・
ハットがあったと思われます。
重大な事故を防止するためにはヒヤリ・ハットを無視、軽視す
ることなく、その対策を考えることが重要です。ここでのポイン
トは、上述の交通事故を例にすれば、ブレーキ動作の遅れといっ
た交通事故の直接原因だけでなく、階段の踏み外れ→筋力の衰え→
ブレーキ動作の遅れといったように想像的にヒヤリ・ハットを考
えることです。
また、他の人が経験したヒヤリ・ハットを自分のものとして自
覚することです。つまり、最近の高齢者による重大事故のニュー
スなどに接した場合、加害者やそのご家族は「自分たちは大丈夫
と」と過信せず、自らのヒヤリ・ハットとして“冷や汗”を流し
て、その対策を創造的に取る必要がありました。
今回の元次官による我が子殺害事件では、おそらくまだ報道さ
れていないヒヤリ・ハットがいくつもあったのでしょう。その意
味では、元次官は川崎事件を想像して、我が子による重大事故を
未然に防止しようとしたのですから、この点では、ハインリッヒ
の法則の良好事例ということになります。
もちろん、我が子を殺害することが唯一の対策であったのかと
いう点は、大きな問題として考えなければなりません。
ただし、外野は「いかなる理由があろうと 殺人は許される行為
ではない。行政に相談することが重要」などと、ありきたりのコ
メントをしますが、元次官の立場や心情に立てば、やむにやまれ
ぬ行動であったのかもしれません。
さて、前回までに満洲事件後の陸軍および海軍のそれぞれの情
報体制について述べました。今日は日中戦争に向かうなかで生起
した、2.26事件など国内の主要事件の背景となった軍閥間の
対立や秘密組織の存在について述べます。
▼対ソ作戦計画をめぐる対立
すでに『わが国の情報史(32)』において、1936年の
2.26事件が生起した原因のひとつに陸軍内の軍閥の存在があ
ったことを指摘しておいた。ここで、もう一度、その記述内容を
少し短縮して振り返ることとしよう。
1931年の満洲事変の勃発以後、日ソ両国は満洲をめぐって
直接対峙することになる。1932年10月に、ソ連から日本に
対して不可侵条約の締結申し入れがあったが、日本政府は時期尚
早としてソ連の提案を受け入れなかった。この大きな理由という
のが陸軍の反対が強かったからだ。
不可侵条約締結に失敗したソ連は、極東ソ連軍の軍備を急速に
増大することになる。当時のソ連軍対関東軍の戦力比は3~4:1
であった。しかし、参謀本部第3部の作戦課長であった小畑敏四
郎大佐(のちに3部長)、その後任の鈴木従道大佐は極東ソ連軍
の戦力を低く評価し、米・英や国民党との提携によりソ連に対す
る攻撃を主張した。
これに対し、参謀本部第2部長に赴任した永田鉄山少将は、ソ
連に対する軍事的劣勢を認識して、当面の間、ソ連との関係緩和
を模索し、この間に軍近代化を図るべしとした。つまり、ソ連を
西方に牽制するためのドイツなどの提携を模索することを一義と
し、英米や国民政府との提携には反対であった。
国家戦略をめぐって第3部(作戦部)と第2部(情報部)が対
立したが、作戦至上主義のもとで第3部の案が採用された。19
33年(昭和8年)の作戦計画は「まず満洲東方方面で攻勢作戦
をとってソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して侵攻
を予想するソ連軍を撃滅せんとする」ものに変更された。
また、第2部と第3部との対立が永田、小畑両少将を中心とす
る対立抗争へと発展した。これが後々、世間でいわれる皇道派、
統制派の派閥抗争へとつながり、1935年8月の永田少将の白
昼における刺殺事件、1936年の2.26事件を引き起こした
のである。
▼陸軍の派閥の歴史
ここで皇道派と統制派との派閥抗争に至る過程について、少々
時計の針を巻き戻して、陸軍の派閥の歴史を語ることとしよう。
明治の初頭以来、陸軍にはいわゆる軍閥と称するものの存在が
あった。それは明治維新に功労のあった薩長両派を中心とする二
個の勢力である。一つは長州の大村益次郎を代表とする長州派で
あり、もう一つは薩摩の西郷隆盛を代表とする薩摩派である。
まず大村が死亡し(1869)、次いで西郷が倒れ(1977)、
長州派は元帥・山県有朋がこれを率いた。一方の薩摩派は元帥・
大山巌がその中心となった。両派は対立を続けたが、よく勢力の
均衡を保って、日清、日露の両戦役にも勝利を得た。
大正4年(1915年)、大山が死亡し、ここに長州陸軍の黄
金時代を現出した。しかし、大正11年春(1922年)、長州
派の大御所・山県が逝去する。そこに薩摩派の勢力挽回を策した
元帥・上原勇作と長州派を代表する田中義一(1918年の原内
閣で陸軍大臣、1927年に総理大臣)との間に抗争が起こった。
こうしたなか宇垣一成(うがきかずしげ)が登場する。彼は岡
山出身であるが、田中の庇護のもとで陸軍中枢に躍り出る。大正
13年(1924年)に田中による工作が成功し、宇垣は清浦内
閣の陸軍大臣に就任する。その後、宇垣、加藤高明内閣、第1次
若槻礼次郎内閣で陸軍大臣に留任、濱口雄幸内閣でも陸軍大臣に
再就任した。
宇垣は、次第に田中および政友会と距離をとるようになり、憲
政会の加藤の方に接近していく。そして大正14年(1925年)、加
藤内閣時代においては、軍事予算の削減を目的とする軍縮を要求
する世論の高まりを受けて、4個陸軍師団の削減を始めとする軍
縮を断行した(宇垣軍縮)。
宇垣は田中が死亡すると(1929年9月)、長州派を退けて
いった。しかし、上原元帥を中心とする薩摩派は宇垣の政策にこ
とごとく容喙し、とくに宇垣の軍縮に対しては感情的なまでに反
抗した。
宇垣は、こうした薩摩派の抵抗に対して、同期の鈴木荘六大将、
白川義則大将と連携して、全陸軍から優秀な人材を網羅して宇垣
派閥をつくっていたのである。
一方の上原は、宇都宮太郎、武藤信義、荒木貞夫、真崎甚三郎
らを擁して、宇垣を牽制した。これらが、のちに皇道派と呼ばれ
る軍閥の基礎となった。
▼少壮将校による改革の芽生え
こうした軍首脳部の権力争いは、少壮将校による藩閥打倒の革
新的気風をもたらした。その表れが、永田鉄山(ながたてつざん)、
小畑敏四郎(おばたとしろう)、岡村寧次(おかむらやすじ)ら
を中心とする「一夕会(いっせきかい)」の誕生である。
1921年、ドイツの保養地で知られるバーデンバーデンに陸
軍の秀英、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東条英機の4人が
会した(バーデンバーデン会議)。
当時、日本は第一次世界大戦後の戦後不況と、政党間の対立に
明け暮れていた。そこで彼らは、「現政府による国家の立て直し
は不可能である」との結論に達し、国家総動員体制の確立を目指
す、軍内における薩摩派、長州派の派閥を一掃することが密約さ
れた。
彼らは、帰国後に他の将校との会合を開き、賛同者を獲得した。
その結果、1927年に、岡村の主導で「二葉会」が結成された。
また同年、鈴木貞一中佐が「木曜会」を結成した。そして192
9年春から両組織が合併し、一夕会が結成されたのである。
一夕会は軍内部の改革に取り組んだ。彼らは、荒木貞夫、真崎
甚三郎、林銑十郎を中核とする陸軍建て直しと、当時、陸軍を牛
耳っていた長州閥の解体を目指した。そして、1929年8月に
岡村は陸軍省の人事局補任課長(大佐以下の人事を担任)になり、
1931年に荒木が犬養毅内閣の下での陸軍大臣になることで、
陸軍人事を牛耳ったのである。
こうしたなか、一夕会の議題は満蒙問題にも及んだ。この解決
では満洲に日本の味方となる新勢力を樹立して利権を得ると同時
にソ連への防波堤にする政策が主流を占めた。
満洲事変の立役者とされる石原莞爾も一夕会のメンバーであっ
た。つまり、満洲事変そして満洲国建設は、現地における関東軍
の独断専行というよりも、陸軍中央における一夕会の国家体制作
りという背景があったことになる。
▼海軍の秘密結社「王師会」
満洲事変以後の5.15事件、2.26事件を見る上では軍内
の秘密結社の動きを押さえておかなければならない。
当時の秘密結社の濫觴は海軍の「王師会」設立からである。王
師会は、1928年3月、霞ヶ浦航空隊の藤井斉(ふじいひとし)
を中心に結成された。
藤井は海兵53期であり、1922年8月に入校し、1925
年7月に卒業している。この期は、1921年から22年にかけ
てのワシントン海軍軍縮条約の影響で、兵学校の採用生徒数が削
減された時期であった。52期生は236名であったが、藤井ら
53期生は62名であった。
このように藤井は、屈辱的ともいえる軍縮条約とその後の政党
政治による軍縮、そして1920年代後半の経済不況の真っただ
中の時代に、青年将校として生きた。そのことが藤井の思想に大
きな影響を及ぼした。
藤井は、海兵入校後に思想家・北一輝の『日本改造案大綱』
(1923年敢行)を愛読するようになり、北が掲げる「アジア
の解放」の思想に強く傾倒するようになる。また、藤井は兵学校
の休暇中は東京に行き、大川周明(おおかわしゅうめい)、安岡
正篤(やすおかまさひろ)らの知遇を得ている。
海兵在校中のエピソードとして、時の軍令部長・鈴木貫太郎が
来校した際、藤井は軍縮条約を非難し、アジアの解放を訴える演
説を行なったとされる。こうした行動が、藤井の求心力を高めた
ようだ。のちの5.15事件(1932.5)の首謀者となる三
上卓(海兵54)、古賀清志(海兵55)は、こうした藤井の行
動に共鳴した。
藤井は西田税(にしだみつぎ)が結成した「天剣党」に唯一の
海軍軍人として加盟し陸軍青年将校との同志的団結を図った。な
お、西田は退役陸軍軍人にして北一輝の第一の子分であり、
2.26事件では北とともに死刑に処さられた。
天剣党は、陸軍の隊付の青年将校や士官候補生が参加したが、
その発足は1927年5月とされる。天剣党には、北一輝の『日
本改善法案大綱』を指導原理とし、世のいわゆる「軍隊の我が党
化」を目指した秘密結社であった。この党の参加者には磯部浅一、
村中孝次など2.26事件の関係者が含まれた。
しかし、西田が1927年7月に『天剣党規約』を作成して、
全国の連隊に所在する同志に配布したことが問題となり(天剣党
事件)、天剣党は憲兵の執拗な監視下におかれ活動に支障を来し
た。
次第に藤井は西田らとの活動には距離を置いた。他方で藤井は、
大川周明が青年闘士を育成するために開いた「大学寮」に古賀ら
とともに参加して、陸軍の青年将校などと交わり、陸・海・民の
三者による横断的団結を深める。
藤井は1928年3月に、海軍兵学校以来の同志とともに王師
会を結成した。これは、海軍初の革新行動組織であった。王師会
は発足当時の会員は10名前後であったが、1930年のロンド
ン海軍軍縮会議のころは40数名に増加している。
濱口内閣によるロンドン軍縮条約調印をめぐって、右翼や政友
会は「海軍軍令部の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統
帥権を犯すものだ」として、同内閣を攻撃した。これが政治問題
化したのがいわゆる統帥権干犯問題である。
藤井は政府に揺さぶりをかける切り口を海軍軍縮会議に見出し
た。全権大使である海軍大臣・財部彪が帰国した際、「売国全権
財部を弔迎す」と書いた幟(のぼり)を突き付け、海軍大臣の下
へ直談判に押しかけた。こうした動きがやがて陸軍に波及し、こ
れに民間右翼が呼応し、政党政治の撃滅を唱える風潮が高揚した。
ロンドン海軍軍軍縮条約を頂点とする軍縮の動き、満蒙問題の
切迫、大恐慌下の社会的不安、政党政治の腐敗堕落、社会主義運
動の台頭などが、革新的軍人の結束を促進し、国家改造へと駆り
立てたのであった。
しかし、王師会と陸軍青年将校との団結に軋みが生じる。藤井
は陸軍との団結を強化し1931年に起きた十月事件(後述)へ
の参加も考えていたが、陸軍の橋本欣五郎らに不信を抱き(後述)、
途中で離脱している。
1931年12月に犬飼内閣が樹立し、青年将校から絶大な支
持を集める荒木貞夫大将が陸軍大臣として入閣すると、陸軍の若
手将校は荒木を通じて自分たちの声を政治に反映しようとして、
王師会の活動とは連携しなかった。
1932年1月に生起した第一次上海事変に、藤井が航空隊員
として出征し、国民党軍の対空火砲を受けて撃墜され、戦死した。
こうしたことにより、王師会の結束は綻びていった。
1932年5月、王師会は犬養首相暗殺を試みた(5.15事件)。
しかし、首相暗殺こそ果たしものの、別働隊が起こした銀行や東
京都の変電所は軒並み失敗した。
事件後、王師会のメンバーは次々に逮捕され、裁判にかけられ
た。しかし、首謀者である三上と古賀の二人が叛乱罪により禁固
15年を受けたのが最高であり、死刑判決を下された者はおらず、
数年後に恩赦として釈放された。
当時、世界恐慌の影響などでわが国は慢性的な不況状況にあり、
企業倒産、失業者が続出るなか、多くの国民はその原因を政党政
治の行き詰まりにあると考えた。そして国家の刷新を図ろうとす
る王師会に少なからぬ共感を抱いていた。実際、5.15事件関
与者の減刑を求める嘆願書も36万通近く寄せられており、その
中には血判や詰められた指なども同封されていたという。
しかし、これは一国のトップを殺害しても、禁固15年程度で
済むという前例となり、このことが、のちの2.26事件などを
誘発したとの見方もある。また、この事件の影響で暗殺を恐れた
政治家たちは軍への干渉を控えるようになる。そして軍部の発言
力が一気に強まっていくことになったのである。
▼陸軍の秘密組織「桜会」の結成
陸軍中央では、参謀本部ロシア班長として、トルコ大使館付武
官より転任したばかりの橋本欣五郎中佐が帰朝早々から国家改造
を目指した。
橋本は、ロシア語とフランス語が堪能であり、1923年に満
洲里特務機関長となる。ここでロシア特務機関員と接触してロシ
ア革命を研究した。1927年にトルコ大使館付武官となり、こ
こではケマル・パシャに私淑してトルコ革命を研究したとされる。
ともあれ、トルコ再建に尽くしたケマル・パシャの偉業を目の
当たりにして帰朝した橋本にとって、当時の国内状況は醜態窮ま
るものであった。そこで橋本は国家革新を決意するが、革新断行
の前提として青年将校の団結を求めた。それが、秘密結社「桜会」
の結成につながった。
一夕会が陸軍大学校のエリートで占められたのに対して、桜会
は出世コースから外れた士官学校の若手が占めていた。そうはい
うものの、入校した将校には、終戦直後に北方領土でソ連軍と戦
う樋口季一郎、陸軍中野学校の創設者にしてインドの独立工作に
従事した岩畔豪雄、のちの参謀本部作戦参謀・辻政信などの将来
有望で決起盛んな青年将校も参加した。
メンバーが百数十人を超えた1931年3月、桜会のメンバー
は国会改造に向けて動き出す。橋本は、民間右翼の大川周明、清
水行之助と共謀し、濱口内閣を打倒して、陸軍大臣の幣原宇垣を
総理大臣に担ぎ上げるクーデターを計画した。
3月事件は失敗に終わったが橋本には何らのお咎めはなかった。
同年9月に満洲事変が生起したことで、桜会はこれに乗じて国内
でのクーデターを再び計画した。
橋本らは、可能な兵力を総動員して国会を襲撃、首相と政府閣
僚の暗殺を企図した。政敵と武力排除した上で、桜会に同情的で
あった荒木貞夫中将をトップとする改造内閣を樹立した。しかし、
決行前の10月17日に憲兵隊に先手を打たれて、橋本ら主要な
メンバーは検挙された(10月事件)。
この事件においても、陸軍首脳は検挙者に対して寛大な処置を
とった。こうした国(軍)内における下剋上の風潮容認がさらな
るクーデター計画である2.26事件へとつながった。
▼一夕会の分裂から皇道派と統制派との対立
1931年の満洲事変以後、一夕会は陸軍の最大勢力となった。
しかし、冒頭のように対ソ政策をめぐって、結成時のメンバーで
ある永田と小畑が対立することになる。さらには、石原も満洲の
運営方法で、他の会員と対立していく。そして、1934年前後
には、永田・小畑の対立は修復不可能な域に達するのであった。
その背景の一つには陸軍大臣の荒木による身内贔屓の人事があ
った。荒木は、かつての薩派、のちに皇道派と呼ばれることにな
る面々を重用した。これにより、会員の不満が爆発し、一夕会は
永田に味方するグルーブ(統制派)と小畑のグループ(皇道派)
に対立した。荒木は小畑の後ろ盾となった。
1932年の5.15事件や右翼団体「血盟団」による連続暗
殺事件(血盟団事件)への関与疑惑から、皇道派への風当たりは
強くなった。1934年1月に荒木は体調不良により辞任した。
その後任には、統制派の林銑十郎が選ばれた。
林は永田の助言を受けて、重要ポストから皇道派をことごとく
排除した。そして、軍務局長になっていた永田が皇道派の相沢三
郎中佐に刺殺される。これが原因で林は陸軍大臣を辞任する。こ
うしたきな臭い対立が刻一刻と2.26事件へと向かわせたので
ある。
(次回に続く)
(うえだあつもり)
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【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関係
論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査
学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年に
かけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務
し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官
をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省
情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定
年退官。現在、軍事アナリストとしてメルマガ「軍事情報」に連
載中。著書に『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11
月)、『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』(蒼蒼社、
2008年9月)、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引
き』(並木書房、2016年1月)、『中国が仕掛けるインテリジェ
ンス戦争―国家戦略に基づく分析』(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)、『情報戦と女性スパイ─インテリジ
ェンス秘史』(並木書房、2018年4月)など。
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