こんにちは。エンリケです。
「陸軍小火器史」の三十回目は、
番外編の2回目です。
こんかいは、
肩章や襟章、臂章・徽章・勲章のはなしです。
無味乾燥になりがちな制度解説も、荒木先生の手にかかると、
とたんに血が通って息を吹き込まれ、魅力的なものがたり
となって読み手を魅了します。
歴史への深い造詣と該博な専門知識を兼ね備えた
荒木先生の面目躍如と言って差し支えない内容です。
階級章にかかわる話で、ここまで腑に落ちる解説は
目にしたことありません。
前回同様、読むだけで利口になる実感が持てる記事
です。
陸軍階級章が、意外な由来を持っていたことにも
ビックリですw
さっそくどうぞ。
エンリケ
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陸軍小火器史(30)
番外編
陸上自衛隊駐屯地資料館の展示物(2)
─陸軍階級章・臂(ひじ)章・徽章・勲章─
荒木 肇
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▼縦型の階級章
多くの駐屯地には陸軍階級章が展示され、いまの陸自との比較
などもされている。ただ、残念なことに肩章と襟章の違い、それ
ぞれの由来などの解説がない。せっかくの遺物がもったいないと
思うのは私だけだろうか。
わずかに見ただけだが、程度も展示もさすがなのは需品学校の
ある松戸駐屯地である。ガラスケースに丁寧に保管され、美しい
状態を保っている。
まず、陸軍武官の階級は昭和15年の時点では、将官3階級、
佐官3階級、尉官3階級の将校(士官)と准士官、下士官3階級、
兵が4階級に分かれていた。将校の区分は、大・中・少である。
よく「小」でないのはなぜと疑問をもたれる方もいるが、もとも
と「大」は「つかさどる」(主務者)という意味で、「少」は
「たすける」という意味がある。
はるか8世紀の昔、律令体制が始まったとき、「大納言・だい
なごん」、「少納言・しょうなごん」などと官名が決まった。そ
んな由緒正しい用語であり、「中納言・ちゅうなごん」というの
はのちに新設された官である。これを「令外官(りょうげのかん)」
という。中国直輸入の「令(行政法)」の「外(ほか」だからだ。
中納言は少納言の上位、大納言の下位になった。
明治の初めごろには、尉官は律令体制の「四等官(しとうかん)」
すなわち、「かみ(長官)・すけ(次官)・じょう(判官)・さ
かん(事務官)」と官人が身分を分けられたの中の第3等官だっ
た。これが近代軍の「士官」とされた。はるか昔、近衛府には
「大尉・少尉(だいじょう・しょうじょう)という官があった。
左右の衛門府にも同じく、「佐衛門尉(さえもんのじょう)」と
いう官があり、時代劇で有名な「遠山の金さん」こと江戸町奉行
遠山景元(とおやま・かげもと)はそれだった。
だから、陸軍士官学校というのは、まさに尉官の養成学校だった。
では、佐官はといえば「上長官(じょうちょうかん)」とされ、
はっきりと区別された。佐官の「佐」は「すけ」とも読む。NH
Kの「大河ドラマ」の人気者、真田信繁(昔は幸村といわれた)
は、大坂城の中では「左衛門佐(さえもんのすけ)」と呼ばれて
いた。秀吉の奏請によって、朝廷の武官としての正規の官名をも
らっていたからだ。遠山金四郎の直上の上司だった(時代は違う
が)わけである。明治になっても、正式には尉官は士官、佐官は
上長官と区別された。
さて、資料館などでよく展示されている陸軍階級章だが、おそ
らく大正から昭和前期のものばかりである。長方形で、緋色のラ
シャ地。カーキ色の軍衣の両肩に肩甲骨と直角につける。ヨーロ
ッパの軍隊はふつう、横向きにつけるから珍しい。日本と同じな
のは意外なことにアメリカ軍である。映画、『ラストサムライ』
でも米軍大尉は、その形式の階級章を肩につけている。また、い
まもアメリカ陸軍の将校は礼装では肩甲骨に直角に縦型階級章を
つけている。なんでもフランス式、あるいはドイツ式かと思い込
んでいると、実はアメリカ式だったという面白さである。
▼銀星と金星
昭和12(1937)年まで、陸軍には「将校相当官(しょう
こう・そうとうかん)」という言い方があった。士官以上で軍隊
指揮権をもつ者だけを「将校」といった。軍隊運営の支援をする
経理部、軍医部、獣医部などの士官(高等官)は将校ではなく、
「相当官」という身分上の区別があった。前回解説した各部の識
別色の他に、階級章も、それが一目で分かる意匠になっていた。
緋色のラシャの台地の両側に「縄目繍(なわめしゅう)」とい
う線がつく。その中に平織線が入るが、それらが兵科は金、各部
は銀だった。平織線は将官は太く、以下佐官、尉官と細くなって
ゆく。その上に真鍮製の星がのるが、兵科は金星、各部は銀星だ
った。下士官は両側の縄目繍がなく細い平織線のみで、これも各
部は銀、兵科は金の星である。兵卒は平織線がなく、兵科は黄色、
各部は白の絨製の星がついた。兵科の金星を「かぼちゃの花」と
も兵卒はいったらしい。
毎度、森林太郎軍医に登場いただくが、日露戦後に凱旋されて
新制式の軍衣をまとったと思うが、両襟の鍬形は深緑、その階級
章は一目で相当官とわかる銀線、銀星だったのである。
この区別がなくなり、各部の将校相当官以下の軍衣の襟部徽章
や、ボタン、星章、線章、刀緒(とうちょ・剣につける飾り)の
緒帯が金色になったのは1922(大正11)年のことである。
もちろん、大正の民主化運動(差別をなくそうという気分)の影
響もあったに違いない。
▼あまり知られていない臂章(ひじしょう)と襟部徽章
各兵科や各部の襟には定色の鍬形があった。それにつけたのが
所属を表す徽章である。現役・予備役はアラビア数字(真鍮製)
をつけた。緋色の鍬形にアラビア数字で1をつければ、歩兵第1聯
隊(東京)、34とあれば歩兵第34聯隊(静岡)、33なら歩
兵第33聯隊(三重)、5なら青森の歩兵第5聯隊である。この
隊号をあげたのは偶然ではなく、いまの陸自の普通科連隊と同じ
だからである。陸自の隊員は右肩にワッペンをつけている。その
上部の色が職種(兵科)を表し、アラビア数字が隊号を示す。
このほかに臂章という左腕の上部に着けるマークがあった。
1908(明治41)年のことである。薬剤官(衛生部の深緑)、
獣医部(やはり深緑)、喇叭長(ラッパちょう・下士)、喇叭手
(兵卒)、火工掛下士、砲台監守下士、蹄鉄工長(砲兵・騎兵科
の技術下士)、鞍工長(あんこうちょう)、銃工長、木工長、縫
工長、経理部縫工卒、靴工長、経理部靴工卒、伍長勤務上等兵、
看護長勤務上等看護卒、陸軍監獄長・監獄看守長・同看守などが
それぞれデザインされたマークをつけた。
襟部徽章は1917(大正6)年にはさらに改められた。9月
1日、『独立守備隊及支那駐箚(ちゅうさつ)部隊被服品中徽章』
という達しが出される。独立守備隊とは、日露戦争の結果得た満
洲鉄道の沿線守備にあたる。鉄道レールの断面に歩兵銃が交差し
た徽章である。
支那駐屯軍所属の士官候補生徽章も少し後に決まった。士官候
補生とは現役将校の候補者であり、予備役幹部の通称「幹部候補
生」とは異なっている。内地の部隊付きの士官候補生は金色の星
章を襟につけるが、支那駐屯軍のそれは星を桜葉で囲んだものだ
った。これは実物を目にしたことがあるが、もっとも凝った意匠
だと思う。
▼金鵄勲章(きんしくんしょう)
金鵄勲章が置かれていることがある。勲章は旭日章(きょくじ
つしょう)、瑞宝章(ずいほうしょう)、宝冠章という3種類に
なっている。それらは勲一等(くんいっとう)から勲八等までに
分かれている。もちろん、一等が高く、最下級が八等である。
もうひとつの勲章は戦後廃止された、軍人と軍属だけに授与され
た「金鵄勲章(きんしくんしょう)」である。これだけは「功一級
(こういっきゅう)」から功七級までの7等級だった。
金鵄とは金色のトビ(鳶)のことをいう。神武天皇が長髓彦
(ながすねひこ)を征伐されたときに、天皇の御弓の先端に金色
の鵄がとまり、敵軍は目を開けていられなくなったという故事に
由来する。制定されたのは皇紀2550年、すなわち西暦189
0年、明治23年のことだった。
戦場で「武功抜群」と認められると、金鵄勲章が与えられた。
初めて授与されるときを「初叙(しょじょ)」というが、階級に
よって差がついた。兵は功七級、下士官は七級もしくは六級、准
士官も同じ。尉官は功五級、左官は四級、将官は三級である。何
回か重ねて与えられるときがあり、極限も決まっていた。将官は
功一級、佐官は二級、尉官は三級、准士官は五級から四級、下士
官五級、兵は六級となった。
金鵄勲章には年金がついた。本人には終世与えられ、死去する
と家族が1年間だけもらえた。年金制度が廃止されたのは、19
41(昭和16)年7月のことである。一時金になってしまった。
また、1940(昭和15)年からは、生存者に与えられること
がなくなった。
金鵄勲章の年金額は日清戦争のあとで、功一級は1500円、
二級は1000円、三級は700円、四級500円、五級300
円、六級200円、七級100である。1円がざっと1万500
0円くらいと考えると、七級で150万円、六級300万円、五
級450万円、三級750万円、二級1500万円、一級225
0万円だから大したものだ。
敗戦にいたるまでの功一級の拝受者は誰かというと、海軍20
名、陸軍28名であり、人員規模からみて海軍はやや甘いとみて
いいか。さすが日露戦争の戦功が多く、山縣有朋、大山巌、それ
に野戦軍の各軍司令官、野津道貫、黒木為禎、奥保鞏、乃木希典、
長谷川好道、西寛二郎、川村景明、寺内正毅、皇族では閑院宮載
仁親王、そして死後の追叙(ついじょ)になるが児玉源太郎であ
る。海軍は東郷平八郎、伊集院五郎、山本権兵衛、片岡七郎、上
村彦之丞が日露戦争の戦功が評価された。
次回は従軍記章などを説明しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
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