こんにちは。エンリケです。
「陸軍小火器史」の二十九回目は、
番外編がはじまります。
しばらくは、
陸自の駐屯地資料館にある「陸軍遺物」の解説です。
荒木先生の面目躍如と言って差し支えない内容です。
階級章について、ここまで腑に落ちる解説は目にしたことないです。
「大礼服」に関して間違った理解をしていたのは
わたしだけではないはずですw
さっそくどうぞ。
エンリケ
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陸軍小火器史(29)
番外編
陸上自衛隊駐屯地資料館の展示物(1)
─正装、軍装、階級章─
荒木 肇
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□ご挨拶
暑い日が続きます。みなさま、体調はいかがですか。わたしは
老人なので、とうとう暑さについて、いささか鈍くなってきまし
た(笑)。それでも、26日(日)には埼玉県大宮駐屯地62周
年記念式典におじゃまし、中央特殊武器防護隊、化学学校教導隊、
第32普通科聯隊の英姿を拝見してまいりました。
トランプ大統領が国賓として来日され、その関係でいささか寂
しい気もしましたが、ラッパ隊による演奏、連隊情報小隊のバイ
ク・ドリル、攻撃展示等・・・たいへん頼もしく拝見させていた
だきました。猛暑の中、隊員の皆さんの頑張りには脱帽するしか
ありません。
□お礼
MMさま、いつもご愛読ありがとうございます。ドラマ「相棒」
は見ていませんが、そこに「ニューナンブ」拳銃が出ていたとか。
いま、警察官が携帯しているのはリボルバーのナンブ拳銃ですが、
自動式の拳銃もあり、それがニューナンブだったと記憶していま
す。
□はじめに
これから数回にわたって、主に陸上自衛隊の駐屯地資料館にあ
る「陸軍遺物」の解説をしたいと思います。
▼展示されている正装
資料館や教育参考館などには金色肩章をつけた詰襟の黒い(正
しくは濃紺)「正服」が展示されていることが多い。ただ、注意
するべきはしばしば説明もなく、しかも「大礼服」と書かれてい
ることがある。これは明らかな間違い。「大礼服」というのは
「文官」が着るもので、武官には正衣袴(せいいこ)、正帽(せ
いぼう)はあったが、「大礼服」はなかった。
「陸軍軍衣分類表」によると、軍人がまとう軍衣は「正装、礼装、
通常礼装、軍装、略装」と区別されていた。ただし、正装と礼装
は下士官や兵にはほとんど関係がない。正帽はつばつきのキャッ
プ型で正面には「日章(にっしょう・太陽のデザイン)」がつき、
取り外しのできる白い羽(鶏の羽が多いようだ)の前立てがつく。
差し込めるように筒状の部品が帽子についている。
正衣(せいい)という上着は、袖と襟に兵科色や各部の定色が
ついた。兵科というのは戦闘職種のことで、歩兵(緋色)・騎兵
(萌黄・もえぎ、若草色のような緑)・砲兵(山吹)・工兵(鳶・
とび)・輜重兵(藍・あい)・航空兵(淡紺青・たんこんじょう)
・憲兵(黒)の七つになる。( )の中は識別色という。各部と
は軍隊運営の支援組織であり、昭和に入ってからは技術(黄)、
経理(銀茶)、衛生(深緑)、獣医(紫)、法務(白)、軍楽
(紺青)となっている。
黒服といったが、規則では「濃紺絨」ということになっている。
陸軍の服の色は濃紺だったのだから、陸自の新制服(紫紺といわ
れる)は明治に先祖がえりしたものといえる。トレーフルといわ
れる金色線条で階級を示した。階級の表示は鎖状組紐(ブレイデ
ッド・コード)といわれた正肩章でもされた。将官は12条、佐
官8条、尉官4条の金色だから、「わらじ」と俗称されたように、
将官は大きい。このデザインと形式は、いまも陸上自衛隊の幹部
(准尉も含めて)は使っている。大将、大佐、大尉は3個、中将、
中佐、中尉は2個、少将、少佐、少尉は1個の銀星をつけた。准
尉は星がなく、尉官用の肩章だけである。
トレーフルとは英語でいうクローバーのことで、1本が少尉、
順に増えて大佐は6本、大将は9本だから分かりやすい。ただし、
佐官・尉官は結び目が1つに対して、将官は3つだから華やかな
ものになる。腰にはサッシュ(飾帯)を巻き、正剣帯(せいけん
たい)という革ベルトで礼剣を吊った。いわゆるサーベルである。
襟の飾りは階級によって異なるデザインの亀甲模様の金線などに
なる。
正袴(せいこ)はズボンのこと。これも現在の陸自の新制服と
同じく、側章というサイドストライプがついた。兵科将官は「緋
色(ひいろ)、経理部の将官相当官は「銀茶」、衛生部同は「深
緑」だから、森鴎外(林太郎)軍医総監は幅1寸1分(3センチ
3ミリ)の深緑の太線2本の間に、幅1寸(3センチ)の細線1本
をいれたズボンをはいた。佐官、尉官とその相当官は1寸3分
(3.9ミリ)の太線1本のみだった。歩兵「緋」、憲兵「黒」、
砲兵「黄」、工兵「鳶」、輜重兵「藍」という兵科色のラインで
ある。騎兵は「茜(あかね)」色のズボンに「萌黄(もえぎ)」
の側章をつけた。
▼飾緒や懸章
ほかに参謀将校や将官だけがつける飾緒(しょくちょ)がある。
参謀職に指定された者は大尉でもこれを右肩から吊った。将官は
正装のときだけ着ける(もちろん、将官でも参謀職にある場合は
軍装でもこれを吊る)。ふつうはモール(金色縄編み)だが、略
装では絹糸製(白茶色)でもよく・・・と1886(明治19)
年の「陸軍服装規則」にある。後に、白茶色は金色もしくは黄色
と改められた。
興味深いのは、参謀飾緒(あるいは肩章)は権威の象徴であり、
しばしば参謀(さんぼう)という人たちは、「乱暴、横暴、無謀」
の「三ぼう」などと陰口された。彼らは陸軍大学校の課程をおえ
て、高度な情勢判断や、敵情の収集、分析、命令の起案などがで
きる。そうした訓練を十分に受けたエリートでもあった。
戦時動員された師団司令部では、平時70名の人員が330名
にふくれあがる。参謀部、副官部、経理部などの幕僚の中で、参
謀官は大佐の参謀長、作戦課長の中佐、他少佐、大尉で5~6名
しかいない。それが2万5000名以上の野戦師団1個を動かし
たのだ。指揮権もない幕僚のくせに、横暴な口をきいたり、乱暴
な命令を起案したり、現場からすれば無謀としか思えない情勢判
断をしたりしたというのも納得できる話である。その象徴が、右
肩から吊ったきらびやかな飾緒だったのだ。
元はといえば、馬上で命令を起案するときに鉛筆や、繰り出し
方式の石筆を縄でぶらさげたものだという。現在の陸自では将官
だけが正装で飾緒を吊る。いまの飾緒もその名残で、末端の2本
はいかにもそれらしいデザインである。
しかし、体験者の話によれば、方面軍(軍を複数指揮する)司
令部、軍(師団・旅団を複数指揮する)同、師団同などでは、幕
僚の数も多く、一目で誰が参謀かと見分けられるという実用性が
あったという。また、戦地では緑色や茶褐色の飾緒を用意したら
しい。狙撃されることが多かったからである。
最近リメイクされた映画『日本の一番長い日』には多くの参謀
飾緒を吊った軍人が出てきた。一般の人は混乱することだろうと
心配したが、反乱軍の中心人物たち、陸軍省軍務局の部員達も飾
緒を吊っていたからだ。平時には、陸軍省や教育総監部の部員た
ちは参謀官ではない。ただ、あれは戦時大本営が設置され、彼ら
は大本営参謀も兼務していたから「縄を吊る」ことが正しいのだ。
あの映画は考証がとても正確だった。
また、懸章といわれるものもあった。明治19年の規則には、
「高等官衙副官、伝令使、週番、衛戍(えいじゅ)巡察ノ諸将校
何レノ服装ヲ論ゼズ」右肩から左脇に斜めに懸けるという規定に
なっている。高等官衙副官というのは陸軍省副官、学校副官など
をいい、伝令使というのは軍司令官、師団長等の副官をいった。
後に、すべて副官とされた。副官という言葉から、「副指揮官」
と誤解した新聞記事を見たことがあるが、一般企業でいうところ
の秘書である。
高等官衙副官と伝令使の懸章は黄色地に白線、巡察や週番将校
は赤色地に白線が2条入っていた。副官懸章は後に、銀色もしく
は白色の飾緒になり、陸上自衛隊もこれを踏襲している。式典な
どで金色飾緒の将官のすぐそばに、白色の飾緒を着けた副官を見
ることができる。
▼軍装
テレビドラマや映画等でよく目にする軍衣も、駐屯地資料館に
はある。軍衣と装具を合わせると「軍装」という複合語になる。
平時では兵営の中での「衛兵勤務(風紀衛兵・弾薬庫衛兵・軍旗
衛兵)」や官庁の警備、憲兵の勤務時、近衛兵の皇居警備の守衛、
観兵式の参加、靖国神社への参拝、勲章授与式、命課布達式(新
任の将校の紹介式)、それに演習等のときは「軍装」をする。
略装は、兵営内での通常着である。勤務、学習、訓練の場合の
略式の服装である。1937(昭和12)年5月31日で軍衣が、
それまでの詰襟から折り襟の形式に変更されたとき、兵科章や階
級章、臂章(ひじしょう)などの位置が変わっている。
戦時になって動員が下令されて、動員部隊に属すると、いわゆ
る「完全軍装」になる。個人装具をすべて身につけるので「完全」
という。一般兵が入営すると、すぐに被服や装具が支給された。
軍帽(ふつうの帽子で鉢巻は緋色、金色星章)、軍衣袴、夏衣
袴、作業衣袴、外套(がいとう)、夏外套、巻脚絆(まききゃは
ん)、編上靴(へんじょうか)、営内靴、上履(うわばき)、夏
と冬の襦袢(じゅばん・シャツ)、袴下(こした・正式なルビで
は「はかました」とある。現在のステテコともいうか)、靴下
(白米等を入れることもあった。回して履けるように踵のないず
ん胴だった)、襟布(カラーにする、戦場では三角巾にも使える)、
日覆(ひおおい)、白帯、腹巻、背嚢(はいのう)、雑嚢(ざつ
のう・肩掛けかばん)、飯盒(はんごう)、携帯天幕(ポンチョ)、
被服手入具(洋服ブラシ、針、糸など)、寝具(毛布や枕)、剣
帯、水筒などなど、下帯(したおび)といわれたふんどし以外は
すべて官給品だった。『被服手入保存法』という教科書もあり、
縫い物などは聯隊に勤務する経理部下士官が教えた。
▼兵科章について
詰襟時代は正面から見て、襟の合わせ目の左右両方に鍬形(く
わがた)と俗称された兵科章がついていた。カラーパッチである。
鍬形というのは、五月人形などでおなじみの兜(かぶと)の装飾
である鍬形の先端に似ているからという。昭和初めのころは、歩
兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵・航空兵・憲兵のいわゆる「七兵
科」があり、それぞれの識別色になっていた。また、各部(戦闘
職種ではない管理・支援職種)も経理、衛生、軍楽、獣医などが
あり、それらの相当官や兵も同じように襟の鍬形に定色のパッチ
を着けていた。
これらも折襟式(九八式)の軍衣になると、階級章は肩章から
襟章になり、兵科章も右胸に山形の色線がついて各兵科・部の識
別になった。ところが、1940(昭和15)年のこと、兵科の
別が撤廃された。それまでの陸軍歩兵大佐、陸軍騎兵中尉、陸軍
砲兵曹長、陸軍工兵上等兵などといっていたものが、陸軍大佐、
陸軍中尉、陸軍曹長、陸軍上等兵などと称することとなった。た
だし、憲兵だけは例外で、襟に金属製の憲兵徽章(いまの警察の
マーク)と白地に赤字で「憲兵」と書かれた腕章を着けることで
一般兵科と区別された。もっとも将校になると、腕章を着けるこ
とはなく、徽章だけが特徴だったという。
各部だけが依然として胸章が残っていたが、これも実は昭和
18(1943)年10月12日の勅令で服制改正があった。階
級章(襟章)が大きくなった。13年制式では将官、佐官、尉官
もすべて同じ規格だったが、将官はこれまでの縦18ミリを30
ミリにした。同時に横も40ミリを45ミリに伸ばす。佐官は縦
25ミリ、尉官は同20ミリである。このときに識別色の胸章は
なくなり、階級章の下に色のラインがついた。この実物がなかな
かない。陸自需品学校がある松戸駐屯地の資料館には、この珍し
い階級章をつけた軍装がある。経理部の銀茶色の識別線が襟の階
級章の下についている。
この再現が面倒くさいせいか、映画やテレビドラマでも見たこ
とがない。各部の現役将校がどれくらいいたかといえば、昭和2
0年9月の敗戦直後で兵科将校約2万9000人に対して技術部
6700人、主計3400人、建技700名、軍医5700名、
薬剤400人、歯科30人、衛生270人、獣医970人、獣医
務40人、法務190人、法事務50人、軍楽10名というとこ
ろである。すべて概数だが、兵科29000に対して18400
だから、現役将校に限れば、およそ5:3という割合になる。
軍隊が兵科将校ばかりでは運営できないという事実がここにあ
る。とすれば、映画やドラマの再現では、定色をつけた将校が少
しはいないと実態から離れてしまうのではないだろうか。昔の映
画、『八甲田山』では兵科将校の軍帽の鉢巻が黄色、軍医のそれ
が深緑で再現されていた。目立たない襟の階級章だから軍医の深
緑の定色は省いてもいいということだろうか。
ついでに説明しておこう。軍医部将校とは医師免許をもつ医師
である。衛生部将校は衛生准尉から昇進した人である。臨床検査
技師や昔の看護官などがそれにあたる。同じように獣医将校と獣
医務将校も同じ関係になる。法務将校は司法官資格をもつ人、法
事務将校はやはり法事務准尉などからの進級である。
特徴的なのは階級表示の星の位置だった。服の合わせ目に近い
ほうから1個、2個、3個と増えてゆく。それまでは星は中心に
あり、2個の場合も均等の位置にあった。それが誤認を防ぐため
か、正面から見て、すぐに個数が分かるようになった。
▼余談として海軍の識別色
海軍でも、この区別は厳格だった。海軍の階級表示は襟章も肩
章も金筋1本が尉官、同2本が佐官、提督といわれる将官は俗に
いうベタ金。それに銀色の桜が少尉、少佐、少将が1個、中尉、
中佐、中将が2個、大尉、大佐、大将が3個である。この金筋の
両側に科別が識別できるように色がついていた。
飛行科(青)、整備科(緑)、機関科(紫)、工作科(紫)で
ある。ところが、これがみな機関将校を除いては兵科将校だから
飛行も整備も工作も、色を付けたのは准士官のみである(昭和1
7年以降)。飛行兵曹長、整備兵曹長、工作兵曹長、機関兵曹長
はみな識別線をつけた。実は、それ以前、飛行特務士官といわれ
た准士官からの特務飛行少尉、同中尉、同大尉などは青色の筋が
ついていたのだから考証も面倒なことだ(整備、機関、工作も同
じ)。
海軍というところは、とことん学歴差別がやかましかった。学
校出は士官である。兵学校は兵科士官(将校)を養成し、色など
はつけない。経理学校出は主計科は白、機関学校は機関科士官を
育て、これを機関将校としたが、紫の識別線をつけた。帽子の鉢
巻の上下にも、袖章(各国海軍共通の表示法)の下にも色の付い
た線をくっつけていた。ただし1942(昭和17)年から、機
関科・兵科が一系化され、機関将校という言葉はなくなった。機
関学校出身も兵学校出身も、どちらも海軍将校となった。他の科
は、依然として「将校相当官」であり、軍医少尉は赤線をつけ、
技術中尉は鳶色、主計大尉は白色線をつけた。法務科は萌黄、軍
楽科は藍色である。歯科医科、薬剤科、看護科は軍医と同じく赤
になる。
テレビドラマの『永遠の0』はなかなか楽しかったが、大学・
高専出身の「飛行科予備学生」の少尉たちの襟章が、その時点で
はなくなっていた飛行特務少尉のそれ(金筋の両側に青線がつく)
を全員がつけていたのには驚いた。関係者にたいした物知りがい
たものだとも感心したが、惜しむらくは「予備学生」は立派な予
備将校の卵である。学校出だから色線がつく「特務士官」には決
してならない、彼らは堂々たる予備兵科将校だったということを
考証家は知らなかったのだろう。あるいは、演出家が「航空だか
ら青だろう。史実?いいよ、どうせ視聴者にはどうでもいいこと
さ」とでも主張したのだろうか。
次回は「階級章」について書こう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
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