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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
も今回で39回目です。
ではさっそくきょうの連載をお楽しみください。
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(39)
陸・海軍対立のはじまり
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
最近、久しぶりに“きな臭くなった”中東情勢が気にかかりま
す。もう16年ほど前になりますが、陸上幕僚監部の防衛部長と
して「イラク復興支援」の計画・実行を担当し、なじみのない中
東地域の“特異な情勢下”で実際のオペレーションを展開した経
験があります。
その中で今も覚えているのは、イスラム教の“ラマダン”(1か
月間の日中断食)時期になると(その前後を含めて)情勢が緊迫
し、物騒な事案がしばしば発生したことです。ラマダンの時期は、
イスラム歴が太陽暦と比べて11日短いため、毎年変わります。
今年は5月5日から6月3日までとのことで(実際には新月が確
認された時点で決まるため、国によって少し異なります)、現在
はその真っ最中です。
最近,中東地域で起こったさまざまな事案について、トランプ大統
領がイランを批判し、イラン政府は関与を否定していますが、意
外にもこれらの真犯人は“ラマダン”(によって引き起こされた
犯罪行為)という可能性もあるような気がするのです。
当然ながら、情報大国・アメリカゆえ、十分な証拠を押さえた
上での批判と思いますが、“一神教”どうしの宿命とでも言うべ
きでしょうか、キリスト教徒がイスラム教徒の“精神状態”を十
分理解しないこと(あるいはその逆)が原因で、長い間、両者は
宗教戦争を繰り返してきました。加えて、核兵器の問題やイスラ
ム教内の対立の激化などもあって、この“争い”が簡単に決着す
るとは考えにくいですが、再び“戦火”へ拡大しないよう祈るば
かりです。
▼「不平等条約」の改正
江戸時代末期の安政年間から明治初年にかけて、日本は欧米列国
との間で「不平等条約」を結び、欧米列強の支配する世界に編入
された時から、条約改正は、“明治政府の悲願”というべき基本
政策でした。そのために行なった「鹿鳴館外交」のような“涙ぐ
ましい努力”の細部は省略しますが、その悲願は、「ポーツマス
講和条約」締結から5年後の1910(明治41)年、列国と条
約改正交渉を開始し、翌11年に改正条約の締結を完了してよう
やく達成されました。「ペリー来航」により開国してから、実に
56年の歳月が流れていました。
日露戦争後、列国と間に交換される外交官も「公使」から「大使」
に格上げされ、条約改正によって日本は“列国と対等の地位”を
得て国際法上も“独立国”となったのです。
▼「軍部大臣現役武官制」の導入
さて、明治から昭和までの歴史を振り返る際に欠かせない“キー
ファクター”となるのが「軍部」です。ここでいう「軍部」とは、
軍の最高指揮権を有する「統帥部」(陸軍は「参謀本部」、海軍
は「軍令部」)と内閣(政府)側の「陸軍省」と「海軍省」を合
わせたものを指しています。
「統帥部」は、大日本帝国憲法の「統帥権の独立」を受けて、
「統帥部」は内閣とは別個に、かつ陸・海軍もそれぞれ別個に
“作戦を発動”できたのですが、「軍部」と内閣の関係はそれに
留まりませんでした。時代は少し前後しますが、1900(明治
33)年に山県有朋首相によって「軍部大臣現役武官制」が導入
されたのです。
明治の初め、軍部大臣(陸軍大臣、海軍大臣)に相当する「兵部
卿」の補任資格は「少将以上」となっていましたが、その軍部大
臣の補任資格を「現役武官の大将・中将に限る」とせばめたのが
「軍部大臣現役武官制」でした。その目的は、内閣と軍部が対立
した際、軍部大臣を辞職させて内閣を総辞職に追い込むことにあ
り、政党に対して、「軍部」の権力を盾に“藩閥の影響力を維持”
するための措置でした。
「軍部大臣現役武官制」は大正時代初頭に見直され、昭和に入っ
て再び復活するとの運命を辿りますが、結果として後世に甚大な
影響を与えることになります。
▼「帝国国防方針」の策定――陸・海軍対立のはじまり――
次に、「日露戦争」後に策定された「帝国国防方針」を取り上げ
ましょう。「帝国国防方針」とは“国防の基本戦略を記した軍事
機密文章”であり、「帝国国防方針」「国防に要する兵力」「帝
国軍の用兵要領」の3部から構成されています。
日露戦争の結果、日本は、南樺太を領有、韓国を保護国化、関東
州を租借地とするなど防衛環境が一変し、1905(明治38)
年8月には、それまでの“守勢同盟”から、より積極的な“攻守
同盟”に強化された「第2次日英同盟」も調印されました。
このようななか、陸・海軍はそれぞれに軍備拡張を競い、「海主
陸従」とかとか「陸主海従」などの対立が表面化してきました。
策定の経緯は省略しますが、1907(明治40)年4月、陸・
海軍の妥協案として次のような「帝国国防方針」が採択されまし
た。つまり、「(1)帝国の国防は攻勢を以て本領とする。(2)将来
の敵と想定すべきは、露国を第一とし、米、独、仏の諸国之に次
ぐ。(3)兵備は、露米の兵力に対し、東亜に於いて攻勢を取り得る
を標準とする」であります。
これらから、実質的な想定敵国は米露2カ国で、両者の差はない
と読み取れ、これ以降終戦まで、陸軍は露国、海軍は米国を想定
敵国として軍備拡張を競い合うことになります。ただし、「海軍
は当時から対米戦争を予期していたかどうかは疑問であり、米国
は軍備拡充の目標に過ぎなったようにも認められる」(瀬島龍三
氏の言)が当時の実態であったと推測されます。
なお、「帝国国防方針」は、じ後3回にわたり改定されますが、
策定そのものは憲法による「統帥権」の範囲とされ、「国防方針」
のみを閣議決定し、「国防に要する兵力」は内閣総理大臣のみが
閲覧を許され、「帝国軍の用兵要領」は閲覧も許されませんでし
た。
▼「日韓併合」の真実
元帥・山県有朋が「一国が独立を維持するためには単に『主権線』
を守るだけでなく、進んで『利益線』を守護しなければならない」
と有名な「主権線・利益線」を主張したのは「日清戦争」以前の
1889(明治22)年でした。ここで言う「利益線」とは暗黙
の内に「朝鮮」を意味しましたが、「朝鮮」を占領するのではな
く、あくまで「朝鮮の中立」化が主意であり、「この『利益線』
を侵害するものが現れた場合、軍事力をもってしても排除し、中
立を維持する」との指針だったのです。そして、この指針のもと
に、我が国は「日清戦争」と「日露戦争」を戦ったのでした。
余談ながら、山県のこの考えは、伊藤博文が大日本帝国憲法を策
定するにあたって最も影響を受けたといわれるウイーン大学教授
のローレンツ・フォン・シュタイン教授の考えがヒントになって
いました。その伊藤博文の暗殺が「併合」の原因ともなった「日
韓併合」についてその“史実”を振り返っておきましょう。
1904(明治37)年、「日露戦争」が勃発してまもなくの2
月23日、日本は韓国の独立を保障するとともに、韓国防衛義務
などを定めた「日韓議定書」を締結しました。次いで朝鮮半島で
の日露の戦争が終了し、事実上日本の占領下にあった8月、「第
1次日韓協約」を締結し、外交案件については日本政府と協議す
ることなどを定めました。
さらに「ポーツマス条約」調印直後の1905年11月に「第2
次日韓協約」(いわゆる日韓保護条約)を締結し、外交権をほぼ
接収、漢城に韓国統監府を置き、初代統監に伊藤博文が就任する
など、韓国は事実上日本の保護国となりました。さらに、190
7年7月には「第3次日韓協定」を締結、李皇帝(高宗)を退位
させ、韓国軍を武装解除しました。
伊藤は韓国の植民地化には「絶対反対」との考えを持っていまし
たが、1909(明治42)年10月、ハルピン駅頭で朝鮮民族
主義者の安重根によって暗殺されてしまいました。伊藤の暗殺を
受けて、日本は対韓政策の大幅変更を余儀なくされたばかりか、
韓国政府や民間団体からも「日韓併合」の提案が沸き上がりまし
た。当時、日韓両国で広範に信じられていた“日韓同祖論”も併
合を推し進める要素となったようですが、日本はあくまで慎重に
事を運び、列国や清に打診したところだれの反対もなく、英国や
米国の新聞までも「東アジアの安定のために『日韓併合』を支持
する」という姿勢を示したのでした。
1910(明治43)年10月、「韓国併合条約」を調印、朝鮮
総督府(初代総督府寺内正毅)が設置され、“内鮮一体“、すべ
ての朝鮮人に日本国籍が与えられて日韓両国は完全に一つの国に
なりました。その統治の実態も西欧諸国の植民地支配とは全く異
なるものでした。
今なお、「韓国併合条約は無効」との主張もあるようですが、昭
和40年、「日韓基本条約」が締結された際、「韓国併合条約は
合法かつ有効な条約かどうか」が議論になりました。「有効」と
する日本の主張を当時の朴大統領が受け入れ、無事調印されたこ
とは付記しておきたいと考えます。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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