配信日時 2019/05/28 20:00

【わが国の情報史(33)】満洲事変から日中戦争までの情報活動(2)─ 上田篤盛

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
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上田さんの最新刊
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
は、女性という切り口からインテリジェンスの歴史
(情報戦史)を描き出した作品です。

本編はもちろん、充実したインテリジェンスをめぐる
資料集がすごく面白いです


こんにちは、エンリケです。

きょうも非常に面白いです。
さっそくどうぞ。

エンリケ


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わが国の情報史(33)

 昭和のインテリジェンス(その9)
  ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(2)─

     インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 元日本維新の会の丸山穂高議員が、北方領土返還に関し「戦争
しないとどうしようもなくないか」などと発言したとして、世間
を騒がせています。野党6党派が議員辞職勧告決議を、与党はけ
ん責決議案を提出しましたが、丸山氏はあくまで辞職を否定し、
任期を全うする意向のようです(5月22日現在)。

 丸山氏は、報道陣の取材に対して、これまで次のように述べた
とされています。

「『発言』に対して辞職勧告決議を出すことは由々しき事態で、
言論府自体が自らの首を絞めかねない行為だ。・・・・・・与党が野党
議員の発言に対して辞職を迫るのであれば、どんどん次から次へ
と議員をクビにすることができることになっていく。・・・・・・・私が
辞めることで、前例を作ってしまいかねない。絶対にやめるわけ
にいかなくなっている。・・・・・・交渉も難航している中で、・・・・・・・
賛否を聞くという形での発言なので、全く憲法違反に当たらない
と考えている」

 報道陣とのやり取りの詳細はよくわかりませんが、問題の論点
は憲法違反かどうか、失言による議員辞職勧告が適正かどうかに
移っているようです。これであれば、丸山氏の発言には理がある
ことになります。しかし、なんか論点が違うような気がします。

 訪問団の方々は北方領土の問題が容易に解決できないものだと
いうことを十分に認識したうえで、これまでさまざま忍耐を重ね、
不透明な未来に「ビザなし交流」という一縷の望みを託されてい
るのだと思います。

 要するに、丸山氏の今回の行動および態度が、このような訪問
団の方々にとって容認できないものであったということでしょう。
誰一人として彼を擁護してもいなければ、彼の謝罪も評価してい
ないようです。

 つまり、今回の件は、報道陣による“いいとこ取り”の恣意的
報道、それに乗じた野党による与党批判といった、通常の構図と
は異なり、丸山氏自身の議員としての不適格性が問われる問題だ
と思います。

 丸山氏は東大卒の官僚出身者です。その後に松下政経塾を出て、
橋下徹氏が率いる維新の会の大衆ブームに乗って28歳という最
年少で議員となりました。その後に2回の当選を果たしたので、
議員としての成果もあったのかもしれません。

 まさに“エリート街道まっしぐら”であったのですが、他方で
過去には飲酒上の失敗もあり、自ら禁酒宣言をしたなどと報じら
れています。また、エリートゆえに周囲を顧みない、独善的な性
格であるといったような人物像も報じられています。今後、続々
とゴシップが出てくるかもしれません。

 今回、丸山氏が酩酊していたかどうかはわかりませんが、報道
によれば、机を叩いたり、訪問団に対する取材に割り込んだりと
いった、“TPO”にそぐわない激情的な行動があったようです。

 このような場を心得ない人物(?)が議員となり、機微な政治
案件を扱う衆院沖縄北方特別委員になるという政治体制にも問題
の本質を向けるべきかもしれません。

 丸山氏は松下政経塾の出身です。筆者は松下政経塾の是非を論
じるだけの知見はありませんし、同塾の卒業生議員にも有為な人
物は存在するでしょう。しかしその一方、政経塾がかつての民主
党議員の登竜門のようになり、民主党政権による混迷の時代をも
たらしたとの批判もあります。

 筆者はある講演会に参加した際の講師(この方は竹島問題に取
り組まれている大学教授)が、次のように言われたことを思い起
こします。

 松下幸之助氏は経営の神様であり、わが国にさまざまな恩恵を
もたらしたかもしれないが、政治の世界では重大な禍根を残した
と思う。それが松下政経塾だ。そもそも政治家は〝養成スクール”
のようなもので勉強してなるようなものではない。どこの国を見
渡しても政治塾のようなものはない。

 国民により沿い、共に問題解決に取り組むなかで、周りに自然
と認められてなっていくものだと思う。(筆者がメモにもとづい
て要旨を作文)

 この講師は、松下政経塾の立ち上げ時の事務局運営に携わり、
政経塾の1期生として入塾するよう要請があったが、上述のよう
な考えから断られた、とのことです。それだけに発言には説得力
がありました。

 さて、前回は満洲事変以後の陸軍の情報体制について述べまし
たが、今回は海軍の情報体制について述べることとします。

▼海軍の想定敵国の第一位は米国

 日露戦争以後、わが国陸軍はロシアを、一方の海軍は米国を想
定敵国とした。そして、両者の対抗意識が軍備の拡充競争を引き
起こすことになる。これを憂慮した元帥山県有朋は、1906年
にわが国の「国防方針」の必要性を上奏し、同年末に初の帝国国
防方針が確立した。

 この国防方針の確定に際して、山県は想定敵国の第1位ロシア、
第2位清国、第3位にロシアと清国の2国を挙げた。しかし、海
軍との討議の末に、第1位ロシア、第2位米国、第3位フランス
が想定敵国となった。このような経緯からしても、陸軍と海軍に
は国際情勢の脅威認識における相違があったのである。

 日本海軍が米国を強く意識した背景には、1980年代末から
1990年代の諸島にかけての、ハワイ併合、フィリンピン占領
といった太平洋への進出に加えて、米国の「オレンジプラン」の
存在があった。日露開戦直後から、米国は陸海軍の統合会議を開
催して、世界戦略の研究に着手した。つまり、ドイツを仮想敵国
にしたのが「ブラックプラン」、イギリスに対しては「レッドプ
ラン」、日本に対してはオレンジプランといったように色分けし
た戦争予定準備計画を策定したのである。

 オレンジプランでは、日本はフィリピンとグアムに侵略するこ
とが想定された。つまり、米国が占領した太平洋の拠点を防衛す
る上で、日本は想定敵国に位置付けられたていたのである。

 そして日露戦争における日本勝利によって、オレンジプランは
より具体化されていくことになる。日露戦争が終った翌年の19
06年には、セオドア・ルーズベルト大統領は、軍部に対し米海
軍をすみやかに東洋に派遣する計画を命じた。その具体化事例の
一つが、1907年から1908年にかけての「白船事件」であ
る(わが国の情報史24)

 こうした米国の動向に対し、海軍は「国防方針」にもとづき米
国を想定敵国とし、1907年4月「用兵綱領」を策定し、来攻
する米艦隊を我が近海に向けてこれを撃滅する方針を確立した。

 その後、国防方針は1915年(第1次改定)、1923年
(第2次改定)の二度の改定を経て1936年に第3次改定を行
なうことになる。

 第1次改定は、1915年にわが国が袁世凱政権に対して行な
った「対華二十一カ条要求」に対して中国の対日感情が悪化した
ことを背景とする。この改定では、仮想敵国は第1位ロシア、第
2位米国、第3位清国となった。

 第2次改定は、帝政ロシアの崩壊(1917年)、ワシントン
海軍軍縮条約の締結(1922年)を背景とする。この改定では、
「帝国は特に米国、露国および支那の三国に対して警戒する必要
がある。なかんずく近い将来における帝国国防は、わが国と衝突
の可能性が最大であり、かつ強大な国力と兵備を有する米国を目
標として、主としてこれに備える」とされた。つまり、ロシアの
崩壊により、わが国として米国が仮想敵国の第一位となったので
ある。

 第3次改定は、ロンドン軍縮会議(1930年)、満洲事変
(1931年)、国連脱退(1933年)を背景として行なわれ
たが、米国、ソ連(露国)、支那、英国を仮想敵国とする用兵綱
領が規定された。

▼第一次大戦後の米国の対日情勢認識

 第一次世界大戦の結果、「ブラック」のドイツは破れ、「レッ
ド」の英国は疲弊した。そして、米国にとっては「オレンジ」の
日本の脅威のみが増大することになる。

 第一次世界大戦の結果、わが国は、マーシャル、マリアナおよ
びカロリンといった旧ドイツ領南洋諸島を委任統治領とした。1
919年のベルサイユ会議において米国は、自らのフィリピンの
防衛を損なうとして、日本の委任統治に強く反対したが、健闘む
なしく、日本による委任統治が認められた。

 これにより、日本は赤道以北の西太平洋を支配した。一方の米
国はハワイとアリューシャンの北東太平洋を支配し、日本の支配
した領域の西方にグアムとフィリピンを孤立した前哨拠点として
保持することになった。

 こうした情勢下、米国はますます対日脅威認識を強め、オレン
ジプランの具体化を進めることになる。

 1931年の満洲事変に対して米国は強く日本を批判した。1
932年1月、スチムソン国務長官は「不戦条約(ケロッグ・ブ
リリアン条約)の条項と義務に反する手段によってもたらされた
事態や条約や協定を承認するつもりはない」とする方針を日中両
国に通知した。それはのちに「スティムソン・ドクトリン」と呼
ばれることになる。

 ただし、米国は当面は世界恐慌への対処を重視したことから対
日経済制裁などの実力行使は行われなかった。またイギリスも事
態が満洲に限られている間は黙認するという態度をとった。これ
が、わが国の満洲国の建設と地歩拡大につながった。

 そしてスティムソン・ドクトリンは、以後の米国の対日政策の
基調となり、やがてルーズベルト大統領の同ドクトリンへの支持
を表明、次いで石油と屑鉄の対日禁輸(ABCD包囲網)となり、
太平洋戦争へと向かうことになる。

▼海軍軍令部の改編

 海軍における情報を担当する機構の創設は1884年(明治1
7年)2月に遡る。当時、海軍省軍務局が廃止され、海軍省軍事
部を置いた際に、それまでに軍務局が管掌していた事務のほか、
艦隊編成(第1課)と出師準備(第二課)、海防(第3課)、諜
報(第5課)を司ることになった。つまり、第5課が情報を担当
した。

 1886年には軍事部が廃止され、参謀本部海軍部が新設され
た。この改編にともない、海軍部第3局が諜報(情報)を担当す
ることとなり、その内部構成は第1課が欧米諜報、第2課が隣邦
諜報および水路地理政誌となった。このように海軍は早くから米
国に対する情報を重視した。

 その後、情報を司る海軍の機構は数回の改編を経て、満洲事変
開始前には海軍軍令部第3班が情報を担当していた。第3班は第
3班長(少将)以下、第5課と第6課で編成され、第5課が欧米
列国を、第6課がソ連および支那ならびに戦史研究を担当した。

 満洲事変と上海事変を経た1932年10月、海軍軍令部の機
構改編にともない、第3班は、班長直属を創設するとともに4課
編成(第5、第6、第7、第8)となった。

 これにより、第3班長直属が情報計画および情報の総合などを
担当し、地域別の軍事並び国情概況調査については、第5課が南
北アメリカ、第6課が支那および満洲国、第7課が欧州列国を担
任することになった。なお、第8課は戦史の研究並びに編纂を担
当した。

 つまり、満洲事変以後に日米間の緊張化が高まったことで、ア
メリカ合衆国を含む米州を単独の課が担当することとなったので
ある。一方、ソ連は第7課の担当になった。

 満洲事変以後の対ソ連脅威の高まりに対しては、陸軍の情報体
制の強化が図られた。1936年6月に参謀本部第2部第4課第
2班が昇格して第2部第5課となり、いわゆるソ連課が新設され
た。つまり、陸軍においては、単独の課がソ連を担当することに
なった。一方の米州は参謀本部第6課の、いわゆる欧米課が欧州
列国を見る一部として米国を見ていた。また、第2部長はもとよ
り、欧米課長も“ソ連派”で占められ、陸軍における対米軽視の
風潮があった。

 このように満洲事変以後、陸軍はソ連重視、海軍は米国重視の
傾向がさらに顕著になったのである。

 なお、1933年10月に海軍軍令部条令の廃止によって、従
来の班が部に改められ、第8課が廃止されたので、軍令部第3班
は軍令部第3部となり、その下に第5課、第6課、第7課がぶら
下がる体制になった。

▼米西岸における駐在員の配置

 満洲事変以後、太平洋における米艦隊の動向が、日本海軍の重
大関心事項となった。このため1932年7月、米東岸で語学の
修得や米国事情の研究に専念していた、中沢佑少佐と鳥居卓哉少
佐を米太平洋艦隊の根拠地である米西岸に駐在させ、米艦隊の動
向監視、訓練状況、艦隊乗組員の対日感情の把握などを行なわせ
ることとした。

 ところが、鳥居少佐は不慮の自動車事故で死亡したため、中沢
少佐のみがサンフランシスコ郊外のサンマテに拠点を構えて艦隊
動向の情報収集にあたった。しかし、わずか一人の駐在員が広大
な米西岸を管掌するのには無理があったため、1933年12月
から宮崎俊男少佐がロサンゼルスに着任して、中沢少佐と協力し
て米艦隊の情報にあたることになった。

 その後、中沢少佐の帰国(サンマテ駐在の廃止)、シアトルへ
の駐在員の新規派遣、シアトル駐在員の廃止、ロサンゼルス駐在
員の交代などを経つつ、ほそぼそと、艦隊の情報収集は継続され
た。しかしながら、駐在員1名での情報収集には限界があり、め
ざましい成果は確認されていない。

▼通信諜報の本格運用

 わが国の通信諜報の開始は日露戦争時期に遡る。そして海軍の
通信諜報組織は、1929年初めに海軍軍令部第2班に第4課別
室を新設し、きわめて少人数の暗号解読班が編成されたことが、
その濫觴(らんしょう)である。

 当時の傍受は、初め海軍技術研究所の平塚で、ついで東京通信
隊橘村受信所を利用した。第4課別室の職員は、中佐×1、少佐
×1、大尉×2、タイピスト×3であり、作業の主目標は米国と
英国の軍事通信であった。

 1932年の上海事変(第一次上海事変)において、通信諜報
の有効性が認識されことから、その組織強化が図られた。上海事
変が勃発するや、海軍は上海特別陸戦隊に対中国作業班(C作業
班)をおき、中国軍の暗号解読にあたらせた。これが上海機関
(X機関)の発端である。

 作業班は、南京政府が、わが空母を攻撃する意図のもとに、そ
の飛行機群を杭州飛行場に集中待機させたことを探知し、我が航
空部隊をもって同飛行場を先制攻撃した。

 1933年1月、ハワイ近海で実施する大演習の通信諜報かを
実施するため、「襟裳」(タンカー)をハワイ近郊に派遣し、数
名の軍令部部員を乗艦させ、米海軍大演習に関する情報収集を実
施した。その結果、米海軍演習の構成部隊の編制や演習の経過な
どが判明した。

 1933年10月、海軍軍令部条令の改正によって、従来の第
2班第4課別室は第4部第10課となった。上海機関を特務機関
として同地の海軍武官の下に付属させることに改められ、A作業
班(対米)を増強した。

 1936年になると、傍受専門の受信所を新設することになり、
埼玉県大和田に大規模な受信所が開設された。当初に配置された
電信員は、予備役下士官を嘱託として採用した者がわずか9名で
あった。

 以上、満洲事変以後の海軍の情報体制をざっと見てきたが、米
国との衝突を想定し、少しずつ対米情報体制を強化したものの、
全般的には不十分であった。

 次回は、満州事変以後の国内の派閥抗争と「5.15事件」
「2.26事件」などについて言及することとしたい。



(次回に続く)



(うえだあつもり)

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【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関係
論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査
学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年に
かけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務
し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官
をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省
情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定
年退官。現在、軍事アナリストとしてメルマガ「軍事情報」に連
載中。著書に『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11
月)、『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』(蒼蒼社、
2008年9月)、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引
き』(並木書房、2016年1月)、『中国が仕掛けるインテリジェ
ンス戦争―国家戦略に基づく分析』(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)、『情報戦と女性スパイ─インテリジ
ェンス秘史』(並木書房、2018年4月)など。

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