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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
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こんにちは、エンリケです。
インテリジェンス研究家・山中祥三さんの
短期連載『米大統領とインテリジェンス』の三回目です。
各大統領のCIAとの関係がよく把握できます。
最も信頼されたCIA長官はブッシュ(父)元大統領だったとのこと。
意外に知られていないかもしれません。
さっそくどうぞ。
エンリケ
山中さんへの感想や疑問・質問やご意見は、
こちらから⇒
https://okigunnji.com/url/7/
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短期連載・米大統領とインテリジェンス(3)
「歴代の米大統領とインテリジェンス機関の関係(その2)」
山中祥三(インテリジェンス研究家)
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□はじめに
トランプ政権はロシア疑惑に関する議会調査への協力を相次いで
拒否しています。5月20日には疑惑の内情を知るとされる元法
律顧問ドナルド・マクガーン氏に議会証言を認めませんでした。
マクガーン氏はホワイトハウスで顧問弁護士を務め、トランプ氏
がロシア疑惑捜査を妨害した疑惑などを担当しました。マラー特
別検察官を解任するようにトランプ大統領から働きかけられたこ
ともあるとされ、民主党は強制力のある召喚状を出して議会証言
を求めていました。
民主党はトランプ政権の非協力的な姿勢は、議会侮辱罪にあたる
と批判しています。
さて先回は、暗殺されたケネディ大統領の跡を継いだ、ジョンソ
ン大統領時代のCIAとの関係までを述べました。大統領とCI
A長官との関係は、ますます悪化しCIA職員の士気も低下しま
した。
ジョンソン大統領に続く、ニクソン大統領時代はどうなのでしょ
うか。
3)ニクソン大統領時代(1969-74)
ニクソン大統領の在任5年間に仕えたのはリチャード・ヘルムズ
(66-73)、ジェームズ・シュレジンジャー(73.2-7)ウィリア
ム・コルビー(73-76)だった。
ニクソン大統領とCIA長官との関係は、総じて良くなかったと
いえる。
ニクソン大統領が、1960年の大統領選挙で自らが敗北した原
因はCIAにあると考えていることは公然の秘密だった。ケネデ
ィが大統領選挙のテレビ討論で決定的な得点を稼ぐことができた
のは、アレン・ダレスCIA長官がリークした秘密のせいだとニ
クソンは間違って確信していた。
ニクソン氏は大統領選挙で敗北した後、一時的に政治活動から離
れていたが、1962年にはカリフォルニア州知事に立候補した。
そこでは大敗を喫し、多くのマスコミから「負け犬ニクソン」と
まで言われていた。しかし、再び大統領を目指して68年の大統
領選挙に出馬して勝利し、69年1月20日大統領に就任した。
▼オールドボーイのヘルムズとニクソンの対立
ニクソン大統領が就任した時は、ヘルムズがCIA長官だったが、
大統領によるCIAに対する不信感が残っていた状況で大統領と
CIAの関係が最初から上手くいくはずはなかった。
1971年7月23日のホワイトハウスでの予算会議においてニ
クソン大統領は「特に大掃除が必要なのはCIAである。CIA
の問題は、筋肉の硬直した官僚主義で、その頭脳は完全に麻痺し
ている。・・・CIAのすべての管理職を50%削減する措置を
直ちに始めてもらいたい」と述べているほどである。
また、ニクソン政権下で国家安全保障大統領補佐官だったキッシ
ンジャーはCIAの国家評価局が作成する報告を嫌った。常にキ
ッシンジャーの評価と対立したからである。インテリジェンスの
専門家を別途にリクルートし分析を行なわせたほどであった。
しかし、ニクソン大統領は、1972年6月に端を発したウォー
ターゲート事件によって、大きな政治的混乱に見舞われてしまっ
た。当初は大統領の事件への関与は、明らかにされていなかった。
そこで、事件への大統領の関与が公になる前に、ニクソン大統領
は、複数の捜査妨害を画策した。
大統領はヘルムズCIA長官には、FBIに対して捜査を進展さ
せないようにする説得工作の協力を求めた。さらに、ニクソンの
法律顧問のジョン・ディーンは、事件で拘留中の元CIA職員に
口止め料として足のつかない巨額の現金を(CIAの闇の予算か
ら用意するように)CIA副長官に要請した。その報告を受けた
ヘルムズは、もし金を渡したらCIAの信用が永久に失われると、
その要求を拒否した。
その最中に行なわれた同年11月7日、ニクソン大統領は、ア
メリカ史上まれにみる地滑り的勝利で再選された。その時点では、
事件への大統領の関与は明らかにされていなかったのである。二
期目に向けてニクソン大統領は、CIAと国務省を厳しく監督し、
それらを破壊して自分のイメージに合わせて立て直すことを誓っ
た。同年11月20日ニクソン大統領は、ヘルムズ長官を解任し、
イラン大使へと追いやった。
▼ニクソン子飼いのシュレジンジャーの登場
そこで、新しいCIA長官として白羽の矢が立ったのが、シュレ
ジンジャー氏であった。元々シュレジンジャー氏は、経済学者と
して活躍していた人物である。その後、ランド研究所に移り、戦
略研究部長を務めていたが、核問題への造詣の深さから第一期ニ
クソン政権において、原子力委員会委員長に抜擢された。
シュレジンジャー氏は、過去にインテリジェンスの業務に携わっ
た経験はなかったものの、ニクソン大統領にとっては従順で有能
な官僚、いわゆるニクソンの子飼いだった。1973年2月、シ
ュレジンジャー氏がCIA長官に就任した。同局職員に対して、
最初に語った言葉は、「私は、あなた方が大統領を締め上げない
ようにするために、ここにやってきたのだ」というものだった。
当時の、ニクソン大統領のCIAに対する口癖は「愚か者を片付
けろ。連中が何の役に立つ。4万人もいて、新聞を読んでいるだ
けだ」というものだった。
シュレジンジャー長官は、ニクソン大統領の口癖を実行しCIA
の組織改革に着手した。工作部門の人々を「無用の人(dead wood)」
だとし、特にベテランの「オールド・ボーイズ」を排除しようと
した。当時の状況をCIA分析官の立場から見ていたロバート・ゲ
ーツ元国防長官の回顧録によれば、CIA内では「大虐殺」と呼
ばれ、職員の7%が「パージ」されたとしている。
シュレジンジャー長官は、工作本部担当副長官のウィリアム・コ
ルビーを呼びつけ、CIA憲章を逸脱したかもしれないCIAの
活動を報告させた。報告書は693ページにもおよび、「家族の
宝石」とのニックネームがつけられた。
また、シュレジンジャー長官は、CIAの国家評価局を廃止し、
キッシンジャーの影響下にあった国家安全保障会議が命ずる評価
を出せる部局を新設した。
それら一連の措置は、就任当初から局内できわめて低かったシュ
レジンジャー長官の不人気ぶりに拍車をかけることになった。局
内での職員からの憎悪は激しく、ラングレー本部への通勤の際に
も、長官室の控室にも護衛を配置するほどだった。
結局、シュレジンジャー氏は、わずか5カ月で国防長官に指名さ
れCIA長官を退任することになった。後任には、ヘルムズと同
様、「オールド・ボーイズ」の一人として知られるウィリアム・
コルビーが就いた。
CIA内部では散々の不評だったシュレジンジャーだったが、4
4才の若さにもかかわらず、国防長官に任命された。彼の経歴は
国防長官にはふさわしいもので、この人事は、各方面から好評だ
った。
4)フォード大統領時代(1974-77)
結局、ニクソン大統領は1974年8月9日、ウォーターゲート・
スキャンダルによって辞任した。その日のうちに副大統領が昇格
し、ジェラルド・フォードが大統領に就任した。フォード大統領
に仕えたCIA長官は、ウィリアム・コルビー(73.9-76.1)とジョ
ージ・H・W・ブッシュ(76.1-77.1)だった。
ニクソン大統領は辞任したものの、ウォーターゲートビルに侵入
して逮捕された者の中に元CIA工作員ジェームズ・マッコード
やゴードン・リディ、そしてハワード・ハントの名前が出てきた
ことなどからスキャンダルへのCIAの関与が疑われるなど、ア
メリカ人のCIAに対する幻滅が芽生え70年代を通じてそれが
続いた。
▼しゃべり過ぎるCIA長官
コルビー長官は、ホワイトハウスに対するCIAの信用を回復し
ようと必死になった。コルビーはフォード氏が副大統領になった
時から、大統領あての日報の写しを届けたりしてフォードに取り
入っていた。しかし、フォード大統領がコルビー長官に電話をし
たり、内輪で相談したりすることは一度もなかった。
フォード大統領は、国家安全保障会議を、アイゼンハワー大統領
の時代の形に戻し、コルビー長官もこれに出席したが、大統領の
執務室(オーバル・オフィス)に長官が一人だけで入ることは許
されなかった。長官はその時点の重要な問題に関してなんらかの
役割を果たそうとしたものの、いつまでも部外者のままでホワイ
トハウスの中枢部には潜り込めなかった。そしてCIAの信用を
回復する機会は、1974年12月に完全に失われてしまった。
というのも、コルビー長官はニューヨーク・タイムズ紙のシーモ
ア・ハーシュ記者(70年ピューリッツア賞を受賞)からインタビ
ューを受け、CIAの非合法活動を口にした。「CIAは法に定
められた任務の範囲を逸脱して、国内の反体制派などの情報を収
集している」「CIA要員による、不法侵入、電話の盗聴、私信
検閲などは1950年代から行なわれている」などである。それ
をもとに、12月22日のニューヨーク・タイムズ紙一面トップ
には「CIAが国内で大がかりな不法活動」の大見出しを掲げ、
特ダネとして特集付きで報じられた。
その記事がきっかけとなり1975年1月、ロックフェラー副大
統領を長とする特別調査委員会が設立されることになった。また、
ロックフェラー委員会に加えて上下両院それぞれ独自の情報活動
調査特別委員会が設置された。上院ではフランク・チャーチ上院
議員、下院ではオティス・パイク下院議員が委員長となった。ロ
ックフェラー委員会は6月5日に大統領に報告書を提出、それは
同10日に公刊された。
コルビー長官は、「家族の宝石」やCIA活動に関連した極秘
文書を明るみに出した。CIA内はもちろん政府内でも、長官は
しゃべり過ぎ、秘密を明るみにし過ぎたと考えらえていた。19
75年11月フォード大統領から「国家保安機構の再編に着手す
る」と申し渡され、代わりにNATO(米国代表)大使に起用す
るとの申し出があった、しかしコルビーはそれをすぐに断った。
▼のちの大統領がCIA長官を務める
ゴルビーの後任には、後の第41代大統領を務めることになる、
ジョージ・H・W・ブッシュが指名された。当時ブッシュ氏は、
米中連絡事務所長を務めていたが、北京からCIAの苦悩を観察
しており「これで私の政治的な将来は完全に終わると思う」と嘆
いたが、結局指名を受け入れた。1976年1月に長官に就任し
たブッシュ新長官の任務は局内の士気を高めることだったが、す
ぐに当のブッシュ自身もCIAを気に入り士気を高めるのに成功
した。次期大統領の下でもCIA長官としての留任を望んだほど
である。今日でも、CIA史上最も高く評価され、敬愛されてい
る元長官の一人である。
フォード大統領は、ロックフェラー委員会の勧告を多く取り入れ、
大統領行政命令第11905号(EO-11905)を発して情報機構の
改革を命じた。これらの措置でCIA長官による大統領への直接
報告系統が回復するとともに、インテリジェンス・コミュニティ
ーにおける権限も強化された。一方で、CIAによる暗殺行為の
禁止や議会の監督も強化されることとなった。
その後、カーター政権時のEO-12036(1978年)、レーガン政権時の
EO-12333(1981)によって暗殺禁止は再確認されている。レーガ
ン政権時に発出されたEO-12333以来、暗殺に関する行政命令は発
出されていないため、それは依然として効力をもっている。
ちなみに、ブッシュジュニア政権では、この暗殺禁止令は、戦時
下においては効力をもたず、対テロ戦争下にある状況においても
同様との解釈をしている。
5)ジミー・カーター大統領時代(1977-81)
大統領に立候補したジミー・カーター氏は、CIAを国家の不名
誉と糾弾した。しかし、数は明らかにされていないものの、最終
的にはニクソン大統領やフォード大統領に匹敵するほどの数の秘
密工作指令に署名した。その違いは、人権の名において署名した
ことであり、なおかつCIAの権限を制限しながら工作を行なわ
せたことである。
ブッシュ長官の下、落ち着きを取り戻しつつあったCIAだがそ
の安息期は長く続かず、カーター氏が大統領になると、留任を望
んでいたブッシュ長官をスタンズ・フィールド・ターナー退役海
軍大将(77-81)に替えた。ターナーはカーター大統領の全期間を
通じてCIA長官として勤務した。
就任早々カーター大統領は、在韓米軍撤退の意向を固め、3年計
画で3万人規模の米軍撤退の具体的ステップについて検討し始め
ていた。しかし、CIAのほかDIAなど当時のインテリジェン
ス・コミュニティーは韓国軍と北朝鮮軍の戦力比は、北朝鮮が圧
倒的に有利であるとの結論に至った。そのため、在韓米軍司令官
が撤退計画に反対したが、大統領に解任される事態にまで発展し
た。しかし、その後の議会の抵抗などもあり、最終的にはカータ
ー大統領が撤退計画断念に至った。最後になって、大統領がイン
テリジェンス機関の分析結果を受け入れた形になった。
▼人員整理を再開したCIA長官
カーター大統領は78年EO-12036を発動して、フォード時代の大
統領行政命令の規制の他に新たな禁止事項を定めた。1978年
の時点でCIAは「イランにはいかなる革命的状況も、その前触
れもない」との見通しを大統領に報告していた。
しかし1979年1月には、イラン革命によりパーレビ国王は国
外へ逃亡した。カーター大統領は、CIAはイランにおける転覆
を予測できなかったと非難し、CIAは再び改組を余儀なくされ
た。
また、ターナーCIA長官は、人間による情報収集よりも機会に
よる情報収集を重んじた。然るべき情報源から入手したプロフェ
ッショナルの分析、評価すら信用しない場合も出てきた。
シュレジンジャー時代ほど過酷ではなかったが、ターナー長官は
CIAの人員整理を再開した。1977年には400人以上が退
職し、退職者の数は78年には650人、79年には800人に
近づいた。最終的には1000人以上が辞めた。
この様に、CIAの規模削減による情報収集能力の低下、さらに
急速な軍縮を進めたことによる軍事プレゼンスの低下などがきっ
かけになり、政策や作戦の失敗が目立ってきた。
たとえば、イラン革命の後の1979年11月のイランアメリカ
大使館人質事件、同年12月のソ連のアフガニスタン紛争を予想
もできずソ連に簡単に許したこと、80年4月に実行したイラン
米大使館からの人質救出作戦「イーグルクロー作戦」の失敗など
である。
そのため、カーター大統領は、共和党から「弱腰外交の推進者」
と非難を浴びることになった。
▼CIAの権限制限から方向転換したカーター大統領
世論的にもアメリカはもっと情報に通じていなくてはならないと
の意見が高まった。CIAの行き過ぎを規制するという公約で当
選したはずの大統領は、80年の年次教書で「我々はアメリカの
情報収集能力に加えられたいわれなき制約を除去する必要がある」
と言明するに至った。
1980年5月に可決された情報監視法では、CIAに課されて
きた制限が大幅に緩和された。しかし、二期目を目指す11月の
大統領選挙においてカーター大統領は、共和党のレーガン候補に
敗れた。
6)ロナルド・レーガン大統領時代(1981-89)
ロナルド・レーガン大統領に仕えたCIA長官は、ウィリアム・
ケーシー(81-87)とウィリアム・ウェブスター(87-91)である。
▼情報機関の強化を目指すレーガン政権
レーガン氏当選に先立つ5カ月前の1980年7月の共和党全国
大会において、共和党は次のように情報問題への対策を公表して
いた。
「わが国の情報組織を再び国策の頼りになる、生産性の高い道具
にしなければならないという国民的なコンセンサスができたと思
われる」「アメリカは直面する脅威を実際的に分析、評価しなけ
ればならないし、世界でも最高の情報収集能力を持っていなくて
はならない」「共和党政権が実現したならば、我々はアメリカの
情報能力の改善、向上を求めるだろう」というものである。
▼カウボーイ時代に戻ろうとするCIA
レーガン大統領は、側近などの意見に反し大統領選挙の論功行賞
でCIA長官の椅子を億万長者の弁護士、著作家、事業家のウィ
リアム・ケーシーに与えてしまった。レーガン政権下ではCIA
は再び大統領の完全な「手足」となり、CIAがまたもや歯止め
のきかない組織になったのではないかという警戒心を議会に起こ
させた。民主党のゲリー・ハート上院議員は、アメリカは「カウ
ボーイ時代に戻ろうとするCIA」に直面していると警鐘を鳴ら
した。
1983年末から84年初頭にかけてニカラグアの港湾に機雷を
敷設したという事実が明るみに出て議会は騒然とした。アメリカ
の中南米政策とCIAの積極的な介入工作は、米議会や国際司法
裁判所だけでなくラテンアメリカ諸国からも非難を浴びた。
1985年8月に、アメリカ軍の兵士らがレバノン(内戦中)で
の活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束さ
れ、人質となってしまった。人質を救出するためにレーガン政権
は、ヒズボラの後ろ盾であるイランと非公式ルートで接触し、イ
ラン・イラク戦争でイラクと戦っていたものの劣勢であったイラ
ンに対し、極秘裏に武器を輸出することを約束した。
しかし当時のアメリカは、イラン革命後の1979年に発生した
イランアメリカ大使館人質事件によりイランとの国交を断絶して
おり、当然のことながらイランに対する武器輸出を公式に禁じて
いた上に、政治家や官僚、軍人による同国政府との公式な交渉も
禁じられていた。
レーガン大統領直々の承認を受けて極秘裏にイランに対して武器
を輸出したばかりか、国家安全保障担当補佐官のジョン・ポイン
デクスターと、国家安全保障会議軍政部次長でアメリカ海兵隊の
オリバー・ノース中佐らが、イランに武器を売却したことで得た
収益を、左傾化が進むニカラグアで反政府戦争を行なう反共ゲリ
ラ「コントラ」に与えていた。
しかし、イランへの武器輸出と、反共ゲリラへの資金流用という
それぞれの行為(いわゆるイラン・コントラ事件)は、本来なら
必要である議会の了解を取っていなかったばかりか、当時民主党
が多数を占めた議会の議決に完全に反していた。
▼イラン・コントラ事件に揺れるCIA
1986年、イラン・コントラ事件に対する秘密軍事支援に対す
る調査が開始された。
11月21日、ケーシーCIA長官は議会上下両院の情報委員会
でイラン・コントラ事件について非公開の証言を行った。その後
も議会証言などが続き長官は疲労困憊していた。12月15日月
曜日ケーシー長官は7階の執務室で卒中を起こし、二度とCIA
には戻らなかった。87年1月ケーシー長官は辞任し、副長官の
ボブ・ゲーツが長官代行を務めたが、その後ゲーツの長官職への
指名人事は否決された。
このスキャンダルはレーガン大統領在任中最大級のものだったが、
最終的にレーガン大統領は、自らのスタッフに対する監督責任に
ついての罪だけで終結を迎えた。その政治生命に対するダメージ
は、少ないものに留まった。
ケーシー長官は、6年余をかけてCIAの規模をほぼ倍増させた。
しかしケーシー氏が去った時、CIAはスキャンダルにまみれ、
彼の就任時よりも遥かに弱体化した。5月6日、ケーシーは74
歳で亡くなり、同26日にはFBI長官だったウィリアム・ウェ
ブスターがCIA長官に就任したのだった。
次回は、現在までで唯一CIA長官経験のある大統領ジョージ・
H・Wブッシュの時代から始め、今回の連載をまとめたい。
(つづく)
(やまなか・しょうぞう)
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