配信日時 2019/05/22 09:00

【陸軍小火器史(28)】─九四式拳銃─大量生産できる国産拳銃の開発─ 荒木肇

こんにちは。エンリケです。

「陸軍小火器史」の二十八回目は、
九四式拳銃です。

毎回思いますが、兵器の歴史は本当に面白いですね。
科学技術とビジネスと政治と国際情勢、文化・・人の営み
のすべてが含まれる「多層の深み」がかもし出しているの
かもしれません。

さっそくどうぞ。


エンリケ


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 陸軍小火器史(28)

九四式拳銃─大量生産できる国産拳銃の開発

 荒木 肇
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▼醜いといわれた拳銃

 戦後、米軍の調査によるわが兵器への評価はひどく低い。なか
でもこの最後の制式拳銃については、「グリップが小さく、フレ
ームが大きい、不格好だ」ということが定説になっている。それ
だけではない。フレームの外に逆鉤(ぎゃくこう)が露出してい
る。ハンマー(撃鉄)がコックされている状態で、そこに触れる
と暴発する。「スーサイドナンブ、自殺銃」だというものまであ
る。

 このシアバー(逆鉤)というのは、引鉄の動きを撃茎に伝える
ものである。ここに不用意に触ると、引鉄を引かなくても撃発し
てしまうということだ。戦後の専門家の中にも、これに追随して、
あれも悪い、これも悪いという人が多くいた。しかし、それほど
私たちの先人は愚かだったのだろうか?

 1924(大正13)年12月、南部麒次郎中将は予備役に編
入された。士官候補生第2期生として1889(明治22)年1
1月に陸軍士官学校入校以来、35年間にわたる陸軍軍人の履歴
を終えた。同期生には鈴木孝雄、菅野尚一、森岡守成の各大将が
いる。この世代は、日清戦争に中尉、日露戦争には大隊長として
出征するなど歴戦者が多い。

 ほぼ2年の後、1927(昭和2)年2月に南部銃製造所を立
ち上げる。大倉財閥の大倉喜七郎の経営する会社の中野工場に間
借りしてのスタートだった。その後、東京府下国分寺に移転して、
年少者用教練小銃や、訓練用軽機関銃などを造った。

 これらの製品は、1926(大正15)年から、文部省管下の
中等学校以上には、陸軍現役将校が配属され教育にあたる軍事教
練が課せられることになったことから需要に応じて開発された。
年少者用小銃というのも、各地域の青年訓練所(夜学の実業補習
学校に併設)の教練にも使われたからである。もちろん、空砲や
狭搾弾(きょうさくだん)などを使用できるようになっていた。
のちにこの会社は昭和製作所、大成工業といっしょに中央工業と
なり、現在のミネベアにつながってくる。

 1933(昭和8)年、将校用拳銃の開発指示を受け、試作を
始める。35(昭和10)年に九四式拳銃として準制式制定を受
けた。この後、敗戦までに7万挺が造られた。

▼開発の裏側

 製造の背景には興味深い話がある。それは陸軍省からの要求事
項に載っている。やはり杉浦氏の研究にあるが、「価格は昭和8
年4月を基礎とし大量生産において、嚢(ホルスター)を含み5
0円を超過せざること」という要望がある。これは1931(昭
和6)年に金本位制廃止のせいで円が大きく価値を下げてしまっ
たことに関係がある。円とドルの交換レートが、100円=49.
8ドル、つまり1ドル2円くらいの見当だったのが、100円=
20ドルを割り込む大暴落になった。1ドルが5円になってしま
ったのである。杉浦氏はこれによって、外国製中小拳銃の価格が
暴騰して、将校たちが入手困難になるから値段の安い国産拳銃を
開発せよという指示につながったと鋭い指摘をしている。

 1934(昭和9)年度の「動員計画令」によれば、常設師団
による出征が17個師団、つまり68個歩兵聯隊である。これに
特設乙師団が13個、合計30個師団、120個歩兵聯隊で、こ
れは360個歩兵大隊になる。小銃中隊だけで360×4=14
40個になり、中隊は3個小隊だから小銃小隊長の4320人の
少尉、中尉がいる。これにフル編成なら1個大隊に3個の機関銃
中隊があり、歩兵砲小隊もあった。それらにも指揮官の下級将校
がおり、准士官の数も増えてくる。歩兵だけでこれである。動員
される人員は143万6116人。将校と准士官がおよそ6%と
みても、約8万6000人が拳銃武装して出征することになる。

 予備役将校が動員、応召となると、武装部隊の指揮を執るには
刀と拳銃は必須だった。あわてて買いに行った、知人から譲って
もらったという話が残っている。

▼優れたメカニズム

 94式拳銃の要目を出してみよう。(  )の中は比較のため
に、14年式拳銃のデータを出しておく。全長は180ミリ(2
30)、銃身長95ミリ(120)、高さ115ミリ(150)、
厚さ23ミリ(27.5)、口径8ミリ(8)、重量720グラ
ム(920)、装弾数6+1(8+1)である。14年式のおよ
そ8割の大きさになる。実際に構えてみると、グリップはたしか
に小さく握りにくいように見えたが、握ってみると手にしっくり
する。ふつうの手の大きさの日本人にとっては、ちょうどいいの
だろう。

 機構は基本的には14年式と変わらず、反動利用式である。復
座バネは銃身の周囲にあり、その上は被筒(前部スライド)で覆
われている。薬室への弾の装てん(土偏に眞)は、円筒後部のつ
まみ(コッキング・ノブ)を引くことで行なわれた。14年式と
異なるところは、ストライカー式(撃針が直進する)からハンマ
ー式(撃鉄式)に変更されたことだ。ストライカー式では国産バ
ネの耐久力に問題があったからである。小型化には当然不利だっ
たが、不発も少なく、耐久性にも優れたハンマー式を採用した。

 安全装置はフレームの右側後部にあって、「安全栓及び安全子
により逆鉤と引鉄の両方に作用す」と『保存取扱説明書』から須
永氏は引用され説明されている。右手親指で操作ができ、手前が
「安」で90度前下方に押すと「火」となる。安は安全、火は発
火である。弾倉を抜くと引鉄は動かなくなる。よくある事故だが、
弾倉を抜いても薬室に弾が残っていることがある。それを忘れて、
引鉄を引いてしまう事故を防げた。

▼悪評価について

 フレームの外に逆鉤(シアバー)が外部に露出していて、その
前端を押すと撃発してしまう。これは確かにやってみると、その
通りである。しかも、案外軽く触れた程度でガチャッと作動した。
これは危ないと確かに思わされた。しかし、安全装置をかけてさ
えいれば、それは防げる。どうして露出させたかといえば、少し
でも厚みを薄くして軽量化し、取り扱いも楽にするためだったの
ではないか。あの小さなコッキング・ピースを親指と人差し指で
つまむ、意外と強力な復座バネの力に逆らって薬室に実包を送り
こむ。その後に、安全装置もかけずに小さなシアバーに、わざわ
ざ触るだろうか。

 須永氏も指摘するように、「装てん(土偏に眞)したら必ず安
全装置をかけて、ここは触るな」と、うるさく教育しておけば、
日本人なら大丈夫だと考えて割り切ったのではないだろうか。ア
メリカ人から非難が出たのは日米双方の安全教育に対する違いか
らである。アメリカ人は多様で、能力もさまざまであり、兵器の
マニュアルも漫画を使っていたりする。違いがあって当たり前の
国民と、言って聞かせればわかるという国民性の相違からきてい
るに違いない。

 当たらないといわれた。少しでも高さを減らすために、照門は
高さ1ミリ、照星は座が1ミリで高さが1.5ミリという小さな
ものである。狙えないなあというのが実感。おそらく実戦場での
実態から、5~10メートルくらいで人間に当たればいいという
銃なのだろう。そうであるなら、軽くて発射反動も大きいだろう
が、なんとか役に立つというものだ。戦場は競技射撃をするとこ
ろではない。

 兵器の形については全く好みの領域の話である。白兵戦用の兵
器として、日本刀は決して良い武器ではなかった。中国軍が持っ
ていたような、柄と刀身が一体化した青龍刀のほうが、強度とい
い、耐久性といいはるかに上である。日本刀はその構造上、どう
しても曲がりやすく、鐔元に無理な力がかかりやすい。柄も割れ
てしまう事が多い。青龍刀は美しさという点では日本刀に劣るだ
ろうが、実用の武器としてははるかに上である。それでも、陸軍
が日本刀を捨てられなかったのはなぜか。武器ではなかったから
である。米軍将校がわざわざM1カービンをもち、英軍将校が指
揮杖を離さなかったように、日本将校も自分の意思を部下に伝え
るために必要だったのである。

 同じように。九四式拳銃も武器であるから、美しい、醜いとい
う評価を下すのはいささかずれているし、偏見に満ちた評価だと
思える。

▼保有の実態

 個人で購入した将校もいただろう。ただ、国産拳銃は高価だっ
た。94式拳銃も、50円から60円、そして70円と値上がり
していった。それに対して外国製拳銃、スペイン製や南米製の拳
銃は安かった。FNブローニングM1910は42円、その他で
も20円から30円で手に入ったのである。多くの将校や同相当
官や准士官が私物の外国製拳銃を持っていたことは武装解除のと
きの資料などで明らかになっている。

 一般的に航空兵科部隊や機甲科に配付されたとされているが、
これまた杉浦氏の精査でそれが案外あてにならないことが分かっ
た。『日本軍の拳銃』(90頁)にある「第二十三軍敗戦時保有
拳銃」の表である。第二十三軍は支那派遣軍に属し、敗戦を広東
で迎えている。その主力は第104、129、130の3個師団、
独立混成第23旅団、独立歩兵第8旅団、同13旅団をその基幹
部隊としている。うち、独混23、独歩8、独歩13の各旅団、
それに軍直轄部隊、野戦兵器廠にあった拳銃を種類ごとにまとめ
たものだ。

 実数は総合計が1909挺、実数を書き、(  )内は構成比
率の%である。十四年式675(35.4)、二十六年式237
(12.4)、九四式166(8.7)、その他831(43.5)
という比率になっている。こうしてみると、制式外の外国製、あ
るいは国産拳銃などが半分近くもあり、九四式はわずかに8.7%
でしかない。たしかにすべてを想定することは無理かもしれない
が、およその見当がついてくる。

 もともと1937(昭和12)年からの大動員は、予備役幹部
の大量生産になった。敗戦時には、現役兵科将校と各部将校だけ
でも合計数は約4万7000名だった。これに3倍もの約20万
3000名の予備役からの召集将校がいた。生産数がとても追い
つかなかったのは当然だろう。



(以下次号)


(あらき・はじめ)

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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
 
 
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