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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
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こんにちは、エンリケです。
インテリジェンス研究家・山中祥三さんの
短期連載『米大統領とインテリジェンス』のニ回目です。
米国はインテリジェンスに極めて敏感な国とのイメージ
がありましたので、米大統領とインテリジェンス機関が不仲
である実態に触れ、正直驚いています。
あなたはどうでしょうか?
さっそくどうぞ。
エンリケ
山中さんへの感想や疑問・質問やご意見は、
こちらから⇒
https://okigunnji.com/url/7/
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短期連載・米大統領とインテリジェンス(2)
「歴代の米大統領とインテリジェンス機関の関係」
山中祥三(インテリジェンス研究家)
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□はじめに
今回のメルマガを書く時点では、マラー特別検察官の15日の議
会証言はなされていませんが、米中貿易摩擦のニュースにより2
016年の米大統領選における「ロシア疑惑」は、すっかり目立
たなくなったようです。
さて、今回は、トランプ大統領とポンペオCIA長官との関係か
ら考察してみたいと思います。
▼トランプ大統領とポンペオCIA長官との関係
ポンペオ氏は、トランプ政権発足直後にCIA(中央情報局)長
官に就任したが、大統領とインテリジェンス機関との対立が深ま
っていても、トランプ大統領とポンペオCIA長官との関係は極
めて良好だった。
ポンペオ氏の経歴を遡ると、彼は1963年12月30日にカリ
フォルニア州オレンジ市で生誕。ロス・アミーゴス高校を卒業後、
ウェストポイントの陸軍士官学校に入学し、そこでは機械工学を
学び、86年にトップの成績で卒業したとされる。
1991年までアメリカ陸軍機甲部隊に勤務したが、大尉で辞め、
その後ハーバード大学ロースクールに入学、卒業後は法律事務所
で弁護士として働いた。2009年にはティーパーティー運動に
参加、11年から17年まで下院議員(カンザス州選出)を務め
た。
2017年1月からは1年余、第24代のCIA長官として務め、
ティラーソン国務長官が18年3月に更迭されると、すぐに後任
に指名され、同年4月に国務長官に就任した。
CIA長官時代にトランプ大統領に対するブリーフィングを通じ
て、国際情勢や外交のみならず、元下院議員としての経験に基づ
き内政面でも助言を行なうことで、トランプ大統領の信頼を獲得
するに至ったとされる。
そのCIA長官時代のエピソードとしては、長官としてCIA本
部にいる時間よりも、ホワイトハウスの廊下をウロウロしている
ことが多かったと言われているほどである。ポンペオ氏はCIA
長官として大統領にブリーフィングし、二人で話をする時間が長
かった。
トランプ大統領とポンペオ長官は、二人とも単刀直入、押しが強
く、強引な性格だとされる。時が経つにつれ、二人は意気投合し、
イラン核合意への反対、テロ容疑者の尋問における「水責め」の
容認、北朝鮮などの政策に関しても意見が一致することが判明し
ていった。
このように、ポンペオ氏の最大の強みはトランプ大統領の信任
が厚いことである。トランプ大統領からのそうした信頼を象徴す
るのは、CIA長官でありながら国務長官を差し置いて、北朝鮮
との関係を構築したことである。
ポンペオCIA長官は2017年5月、組織内で初めての試みと
して特定の国を対象とした部署、いわゆる朝鮮ミッションセンタ
ーを新設した。
2018年2月の平昌冬季オリンピック期間中には、朝鮮ミッシ
ョンセンター長、CIA副長官が金英哲(キムヨンチョル)統一
戦線部長と接触した可能性があるとの報道もある。
次期国務長官指名承認公聴会が開催される直前の2018年3月
末には、CIA長官の立場のまま平壌を極秘訪問し、その後のト
ランプ大統領と金正恩朝鮮労働党委員長との史上初の米朝首脳会
談の地ならしをした。
同年5月9日、国務長官として訪朝し、米朝の首脳会談を調整し、
北朝鮮で拘束されていた米国人3人とともに帰国した。6月12日、
シンガポールで開催された米朝首脳会談ではトランプ大統領に同
行した。
トランプ大統領とポンペオ氏の個人的に良好な関係が、ポンペオ
氏重用の大きな理由になっているが、トランプ大統領とインテリ
ジェンス・コミュニティーとの関係は必ずしもそうではないよう
である。
そのあたりを2005年以降CIAに代わって中央情報長官とし
ての役割を果たしてきた国家情報長官と大統領との関係について
見てみたい。
▼コーツ国家情報長官に「学校でやり直せ」とツィート
2019年1月30日トランプ米大統領は、インテリジェンス機
関のトップであるコーツ国家情報長官に対し「学校でやり直せ」
とツィートした。前日の議会上院公聴会で北朝鮮、イラン、シリ
アなどの問題でトランプ大統領の主張と違う見解を述べたことに
対して腹を立てたようだ。
長官が公聴会で報告した世界脅威評価書では、トランプ大統領が
成果を誇る北朝鮮の非核化交渉については、「北朝鮮がその大量
破壊兵器や運搬システム、製造能力の全てを完全に放棄する可能
性は、依然として低いと評価」している。
また、ISISについては、トランプ大統領は、自らの政権が
ISISに致命的な打撃を与えたと主張しているが、評価書では
「イラクやシリアにISISの戦闘員が数千人規模で残っており、
世界中に8つの支部を維持し、10以上のネットワークと、数千
の支援者がいる」と指摘している。
「支配地域を拡大する可能性は低いものの、ソーシャル・ネット
ワークの活用や国外からの作戦で存在意義や主要な能力回復に努
めようとするだろう。ISISは依然としてイラクやシリアから
周辺地域及びアメリカを含む西側諸国に対し、国外からの攻撃を
追求するだろう」と評価している。
官僚であるインテリジェンス機関の長にとってこれはやり切れな
いだろう。大統領のためにあらゆる努力を尽くして提供したはず
のインテリジェンスに対して最も上の大統領からケチをつけられ
るのである。
しかし、一方の大統領にしてみればせっかくの政治的チャンス
を活用して、政治的に得点を稼げると思っていたのに、なぜイン
テリジェンス機関はこのようなタイミングで大統領の意見を弱め
るようなことをいうのか。政策決定に先んじて出されるならまだ
しも、このタイミングでの情報提供は不要であると感じるのだろ
う。
▼過去の大統領とインテリジェンス機関との関係
今まで述べてきたように、トランプ大統領とインテリジェンス
機関との関係は、ますます悪くなっているようであるが、過去の
歴代の大統領とインテリジェンス機関との関係はどうなのであろ
うか。
年代順にその当時の特徴的なトピックを交えながら、両者の関
係性を明らかにしたい。
1)アイゼンハワー大統領時代(1953-61)
アイゼンハワー長官に仕えたのは、ほぼ全期間を通じてアレン・
ダレスだった。前任者のトルーマン大統領政権下でCIAは設置
されたが、アイゼンハワー政権の終わり頃には、アレン・ダレス
CIA長官が行政府の信頼される、かけがえのない片腕という評
判を確立していた。アレン・ダレス長官は世間からは、辣腕のス
パイマスターとみなされていた。
しかし、実際にはキューバをめぐる問題で大変だったようである。
1959年1月にキューバ革命が生起し、フィデル・カストロが
革命政権の首相に就任した。
革命当初カストロはアメリカと友好関係を保つとしていた。しか
し同年5月カストロは農地改革を断行し、6月にはアメリカの資
産を国有化したため、アイゼンハワー大統領は対抗策としてキュ
ーバの最大の産業である砂糖の輸入停止措置を取る形で禁輸措置
に踏み切った。これに反発したカストロ首相は、弟のラウル・カ
ストロをモスクワに派遣し、60年2月にはロシアとの経済協力
協定を結んだ。
アメリカ合衆国本土のすぐ隣の国であるキューバがソビエト連邦
と手を組む事態を受けて、アメリカは共産主義国家の脅威を間近
で感じることになった。
1961年1月にアメリカがキューバと国交を断絶するまでの間、
アイゼンハワー大統領はCIAに対してキューバへの海空からの
破壊活動、カストロ暗殺計画などを承認して秘密裏にカストロ政
権転覆計画を開始した。
しかし、退任間近だったアイゼンハワー大統領はやがてキューバ
問題から手を引き、その後は共和党選出の次期大統領候補ともな
るリチャード・ニクソン副大統領とアレン・ダレスCIA長官ら
がこの作戦計画を進めた。
カストロ転覆計画を推進し情報機関の運用にも長け、政治的にも
経験豊かだったニクソン副大統領は、1960年11月の大統領
選挙で、若手のケネディ候補に破れた。
2)ケネディ大統領時代(1961-63)
ケネディ大統領に仕えたCIA長官は、アレン・ダレス(53年
2月~61年11月)とジョン・マコーン(61年11月~65
年4月)だった。
1961年1月20日大統領に就任したジョン・F・ケネディ大
統領も、前任のアイゼンハワー大統領時代にCIAを中心に進め
られていたキューバ侵攻計画をいくつかの条件付きで承認した。
同年4月15日にキューバ軍機に偽装した爆撃機がキューバ空軍
飛行場を爆撃し、17日から亡命キューバ人の上陸部隊がピッグ
ス湾に上陸侵攻を開始した。
しかし、ソ連の援助を受けたキューバ軍は、上陸部隊である反カ
ストロ軍(2506部隊)をピッグス湾に封じ込めた。上陸部隊
は4月19日に投降、114人が戦死し1189人が捕虜となっ
た。
この作戦を主導したアメリカは世界から非難を受け、ケネディ政
権はキューバ政策で大きく躓いた。
ケネディは、就任前にダレスCIA長官からこの作戦計画の説明
を受け、その後統合参謀本部議長、海軍作戦部長の専門的意見を
聞いたがいずれも作戦として問題ないというものであった。
ケネディはあくまでアメリカの介入には慎重であった。なぜなら
当時ベルリンが危機的な状況で、キューバを口実にフルシチョフ
がベルリン問題で軍事的行動を起こすことを恐れていたからであ
る。
しかし、ケネディ大統領は、アメリカの正規軍を介入させないと
するダレス長官の説明で作戦の実行については承認したものの、
アメリカの直接の関与が露見しないように、最初の空襲での爆撃
機の数を減らすとともに、上陸地点の変更を命じた。
ところが、急な作戦の変更によりピッグス湾の上陸地点にサンゴ
礁があることすら情報収集されておらず、また上陸後に作戦上不
利になった場合は、反カストログループがいるエスカンプライ山
脈に避難する計画であったが、上陸地点が変更されたためそれが
不可能となっていた。
この上陸地点の変更は、結果として作戦にとって大きなダメージ
を与えた。また、CIAは作戦が失敗した際のアメリカへ及ぼす
リスクも過小評価していた。就任直後のケネディ政権に大きな汚
点を残した。
CIAの立場から見れば、ケネディ大統領の躊躇逡巡ぶりが、攻
撃計画を頓挫させてしまったとの思いがあり、ケネディ大統領か
らすれば軍やCIAの杜撰な計画のせいと映った。
そのため、その後ケネディ大統領は軍部とCIAを信用しなくな
った。そして軍事・情報分野の助言者に対しても懐疑的になった。
結局ダレスCIA長官および副長官が更迭され、後任には、情報
畑に無縁のジョン・マッコーン氏が就任した。
この事件の直後、キューバ政府はキューバ革命が社会主義革命で
あることを宣言し、ソ連への接近をさらに強め、その翌年両国は
秘密裡に軍事協定を結んだ。1962年10月にソ連が核ミサイ
ルを持ち込もうとした結果キューバ危機が起きることになる。
キューバ危機においても、ケネディ大統領は情報機関の分析を信
用せず、ホワイトハウスの地下室に「シチュエーション・ルーム」
を設置し、そこを各インテリジェンス機関から送付されてくる生
のインフォメーションのたまり場とした。そして、それをもとに
国家安全保障担当官のマクジョージ・バンディと少人数の国家安
全保障会議のスタッフが分析した。
しかし、大統領とCIAとの関係は、ケネディ政権下ではおかし
くなりながらもなんとか維持されてきた。ケネディは毎朝、CI
Aの大統領日々報告を受け取る建前にしていた。
3)ジョンソン大統領時代(1963-69)
ジョンソン大統領の6年間の大統領勤務の間に仕えたCIA長
官は、ジョン・マコーン氏(61年11月~65年4月)、ウィ
リアム・レイボーン退役海軍大将(65年4月~66年6月)、
リチャード・ヘルムズ氏(66年6月~73年2月)の3人だっ
た。中でもレイボーン氏はわずか1年2カ月の勤務だった。
1963年11月22日、テキサス州ダラスを遊説で訪れたケネ
ディ大統領夫妻を乗せた車が、ダラス市内をパレード中に狙撃さ
れ、ケネディ大統領が死亡し、暗殺後にリンドン・ジョンソン副
大統領は大統領に昇格した。
1964年3月、ベトナム戦争の最中、大統領はマコーンCIA
長官とマクナマラ国防長官をサイゴンに派遣し、ベトナム戦争の
現場を視察させた。マクナマラは事態がうまくいっていると報告
したが、マコーン長官は戦争がうまくいっていないと報告した。
それ以降、ジョンソン大統領はマコーン長官に対しオーバル・オ
フィス(大統領執務室)の扉を閉ざしてしまった。
大統領への報告は、世界情勢に関する週2回の書面による報告に
限定された。大統領がそれを読むのは暇な時、それも気が向けば
の話だった。マコーン長官の勧告はほとんど聞き入れられず、ほ
とんど注意も払われなかった。
1965年4月2日マコーン長官は、自らがアメリカ大統領の思
考になんの影響も与えることができないと知って職を去った。ジ
ョンソン大統領は、後に続いたほとんどの大統領と同様にCIA
の仕事の内容が、自分の好みに合った時だけ、良しとしていた。
好みに合わなければ、その報告はごみ箱行きだった。
CIAと大統領の関係を表す言葉として、大統領はある昼食会に
おいて、諜報員の連中は、テキサスにいたころの年老いた牝牛と
同じだと言ったという以下のような逸話がある。
「私がテキサスで育ったころ、ベッシーという牝牛がいた。私は、
朝早くいって乳を搾ったものだった。ベッシーを柱につないで、
腰かけて手桶いっぱいの新鮮な牛乳を搾っていた。
ところがある日、懸命に仕事をして牛乳を手桶いっぱいに絞っ
たのだが、ちょっとうっかりしていた間に、年老いたベッシーが
糞だらけの尻尾を振り回して、手桶の中に突っ込んで牛乳を台無
しにしてしまった。
諜報員のやつらがやるのはそれと同じことだ。君たちが懸命に
仕事をして立派な計画や政策を作っても、連中が糞だらけの尻尾
を突っ込んでしまう。」
このように、ジョンソン政権下では大統領とCIAの関係はガタ
ガタになっていた。大統領日々報告は就寝前の読み物用に求めら
れた。CIAは大統領の好みは分かっていたし、大統領の興味を
引くつもりもあって、ゴシップを一つだけ挟み込んだ。ジョンソ
ン大統領の関心を呼び起こすのに苦心したにもかかわらず、大統
領からの照会、問い合わせ電話はますます減っていった。
1965年4月28日、大統領は周囲の意見も聞かず自ら新しい
CIA長官を探し出し、退役海軍大将のレッド・レイボーンを据
えた。レイボーンは、大統領と同郷で優秀な軍人ではあったが、
情報畑ではなかった。大統領は、ホワイトハウスで就任宣誓式を
派手に演出し、「国中をくまなく探して、この任務をやりおおせ
る唯一の人物を見つけ出した」と述べた。この言葉は、退役軍人
の愛国心に訴え、レイボーンは感激の涙を流した。しかし、それ
はCIA長官としての最初で最後の幸福な瞬間だった。
レイボーン就任の4日前、ドミニカ共和国では内戦が勃発してい
た。同国では、1963年9月、親米派軍人のクーデターによっ
て軍事評議会が政権を握っていたが、65年4月24日、ボッシ
ュ前大統領の復帰を要求して一部の軍人が反乱を起こし、軍事評
議会を追放した。軍事評議会派の軍人もこれに対抗したが、ほぼ
4日間の戦闘で敗走させられた。4月28日に就任したばかりの
レイボーン長官は、証拠もなしに反乱勢力はキューバに支配され
る共産主義だと報告、ジョンソン大統領は海兵隊の派遣を決定し
た。
レイボーン長官は、カストロの作戦だといったが、マクナマラ
国防長官はそれを信じていなかった。しかし、ジョンソン大統領
は、5月2日にはドミニカ共産化防止の決意を表明し、最終的に
派遣米軍は2万4000人に達した。形勢は逆転し、革新派は5
月15日から5日間の戦闘で無力化された。
その後、国連安保理などが調停に入ったが停戦交渉は難航し、
8月31日にやっと停戦が決定した。1966年6月のドミニカ
大統領選挙では親米派が当選した。
しかし、5月23日頃からマスコミは、ドミニカに対する介入
の手際の悪さや情報などに対しジョンソン大統領の「信頼性の欠
如」を指摘し始めた。この批判は大統領を傷つけ、それ以降自ら
選んだCIA長官からの意見を聞かなくなった。
レイボーン長官は毎朝6時半に出てきて、いつかは大統領から声
がかかるだろうと思いつつ朝食をとっていたが、声がかかること
はなかった。
レイボーン長官の不安定な指導の下でCIA本部の士気は大きく
落ち込んだ。レイボーン長官の後任は、CIA副長官のリチャー
ド・ヘルムズであり、ジョンソン大統領の信頼を得るため努力し
た。
今回は、この辺りで終わりとし、次回はニクソン大統領時代から
始めたい。
(つづく)
(やまなか・しょうぞう)
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