配信日時 2019/05/14 20:00

【わが国の情報史(32)】満洲事変から日中戦争までの情報活動(1)─ 上田篤盛

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
もあります。
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WEB http://wos.cool.coocan.jp
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上田さんの最新刊
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
は、女性という切り口からインテリジェンスの歴史
(情報戦史)を描き出した作品です。

本編はもちろん、充実したインテリジェンスをめぐる
資料集がすごく面白いです


こんにちは、エンリケです。

きょうは、満州事変から支那事変に至る間の
陸軍情報に触れられています。

軍事ファンならおなじみの、
「皇道派と統制派の対立」の起源がわかりました。

考えてみれば非常にわかりやすいものですが、
このポイントが、これまで靄をかけられていて見えなかった
感じがします。記事を読んでスッキリしました。


エンリケ


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わが国の情報史(32)

 昭和のインテリジェンス(その8)
  ─満洲事変から日中戦争までの情報活動(1)─

     インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 筆者が住んでいる近隣に立飲み屋があります。そこに、この前
から秋田出身の人が働いています。

 ここで秋田の話になったのですが、秋田といえば、日本一深い
湖の田沢湖、横手のかまくら、キリタンポ鍋、桜田淳子(古い話
でごめんなさい)くらいしか出てきません。彼女の出身は田沢湖
近くの仙北市だということですが、「それどこ?」という感じで
す。

 筆者は、仕事やプライベートで、ほとんどの都道府県に行った
ことがあります。残すところ愛媛、高知、和歌山、秋田の4県で
す。だから、結構、日本の地理の薀蓄(うんちく)には自信があ
りますが、秋田は苦手の部類ではあったわけです。

 以前、私が若かりし頃に情報教育を受けた時のことを思い出し
ました。ある教官は「初対面で会った人とスムーズに会話をする
ためには、○○県といえば、最低でも50のキーワードが出てく
るようでなければならない」と言いました。

 のちに、教官になった筆者も「1県50」と称して、学生にこ
れを紹介し、時々授業で一緒にやったりしていたのですが、まっ
たく不甲斐ないことです。

 この「1県50」にはコツがあります。アトランダムに考える
と、だいたい20くらいで途絶えてしまいます。そこで、政治、
経済、社会、地理、人物などのフレームワークを使用します。こ
のような思考法を「強制思考」と称し、情報分析における仮説を
立てるなど、さまざまな局面で活用されています。

 さらにはアイデアを生み出す発想法には類似思考があります。
これはアナロジー思考といい、野球、サッカー、スポーツ、オリ
ンピックというように類似したものを思い出すことです。ここで
は詳述は避けますが、フレームワークとアナロジー思考を組み合
わせることでアイデアが生まれます。

 また、発想力を鍛える方法として、最近は“越境”という言葉
が注目されています。これは池上彰氏の造語です。A1時代を生
き抜くためには、一つの専門性では太刀打ちできない、でも専門
性を二つ、三つと増やすことができればAIの追随を許さない。
だから“越境”が必要ということになります。

 また、学問の世界では「リベラル・アーツ」が注目を集め始め
ています。この語義は『ウィキペディア』などで調べていただけ
ればわかりますが、要するに、専門の世界に入る前に、いろいろ
なことを横断的(越境的)に学ぶということです。

 今日、勉強はどこでもできます。しっかりと学ぼうとすれば学
校に行けばよいでしょうが、経費を節約しようとすればネット講
座も利用できます。でも、もっとも手っ取り早い勉強法は読書で
しょう。

 筆者は、かつて所属していた防衛省・自衛隊の頃には、軍事や
情報分析の対象国に特化していましたが、退職してからはいろい
ろな本を越境的に読んでいます。もっと専門以外の本を読んでお
けばよかったなと反省しています。

 ある本に、ビジネスパーソンが時代に対応するためには1年に
最低50冊を読むことが必要だと書かれていました。かの佐藤優
氏は1か月に300冊だそうです。とても凡人には真似のできな
いことです。

 筆者は1か月に30冊の読破を目標にしています。キンドルの
アンリミテッドを契約しているので経費はかかりません。達成困
難な時には、「漫画で読む?」や薄い本を選んで読んで、一応目標
をクリアします。

 とくに神経質になることはありませんが、目標を決めなければ、
何事も始まらないと思います。

 さて、前回まで、張作霖事件を題材に、主として情報の評価に
ついて述べました。今回から、満洲事変がわが国の情報体制に及
ぼした影響について述べます。

▼満洲事変から日中戦争まで

 満洲事変から日中戦争までの経緯を山川出版の『詳説日本史B』
より抜粋する。なお、( )内は筆者による注記である。

 関東軍は参謀の石原莞爾(いしわらかんじ)を中心として、
1931年9月18日、奉天(瀋陽)郊外の柳条湖で南満洲鉄道
の線路を爆破し(柳条湖事件)、これを中国軍のしわざとして軍
事行動を開始して満洲事変が始まった。(中略)

 1932年9月、斎藤内閣(斎藤実、まこと)は日満議定書を
取り交わして満洲国を承認した。日本政府は既成事実の積み重ね
で国際連盟に対抗しようとしたが、連盟側は1933年2月の臨
時総会で、リットン調査団の報告にもとづき、満洲国は日本の傀
儡国家であると認定し、日本が満洲国の承認を撤回することを求
める勧告案を採択した。松岡洋介ら日本全権団は、勧告案を可決
した総会の場から退場し、3月に日本政府は正式に国際連盟から
の脱退を通告した。(中略)

 1935年以降、中国では関東軍によって華北(チャハル・綏
遠・河北・山西・山東)を国民政府の統治から切り離して支配し
ようとする華北分離工作が公然と進められた。(中略)

 関東軍は華北に傀儡政権(冀東防共自治委員会)を樹立して分
離工作を強め、翌1936年には日本政府も華北分離を国策とし
て決定した。これに対し、中国国民のあいだでは抗日救国運動が
高まり、同年12月の西安事件をきっかけに、国民政府は共産党
攻撃を中止し、内戦を終結させ、日本への本格的な抗戦を決意し
た。

 第一次近衛文麿内閣設立直後の1937年7月7日、北京郊外
の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生した。いったん現地
で停戦協定が成立したが、近衛内閣は軍部の圧力に屈して当初の
不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大した。これに対
し、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当
初の日本側の予想をはるかに超えて全面戦争に発展した。(引用
終わり)

▼対ソ作戦計画をめぐる対立

 わが国は伝統的にソ連に対する脅威を第一においた。しかし、
日露戦争後にロシアが崩壊したことで、幣原喜重郎外相時代に一
時的に対ロシアの脅威が薄れた。

 しかし、1928年10月に開始された第一次5か年計画と、
1929年4月から始まったソ支紛争、とくに同年11月のソ連に
よる満洲里の占領にかみがみ、日本はソ連情報の重要性を再認識
した。

 満洲事変の勃発によって、一挙にソ連情報の重要性が高まった。
この事変で、日ソ両国は満洲をめぐって直接対峙することになっ
たが、ソ連から日本に対して、1932年10月に不可侵条約の
締結申し入れがあった。

 しかし、日本政府は時期尚早としてソ連の提案を受け入れなか
った。この理由には共産勢力の国内浸透を恐れたからであったが、
なにより陸軍の反対が強かったことが大きな原因であった。満洲
を占領した陸軍の鼻息の荒さが窺える。

 不可侵条約締結に失敗したソ連は、極東ソ連軍の軍備を急速に
増大した。関東軍の満洲全般における兵力配置に対し攻防いずれ
にも対応できるよう、1933年頃から狙撃師団や騎兵部隊を増
強し、国境地帯におけるトーチカ陣地を構築した。1934年頃
から戦車・飛行機の増加などの措置をとった。また、極東海軍の
再建も図った。

 当時のソ連軍対関東軍の戦力比は3~4:1であったとされる。
しかし、参謀本部第1部の作戦課長であった小畑敏四郎大佐は、
極東ソ連軍の戦力を低く評価し、日本軍の伝統的精神要素、統帥
能力の優越、訓練等の成果等を強調した。その後任の鈴木従道大
佐も同意見であった。彼らは、米英や国民政府との提携により、
ソ連に対する攻撃を主張した。

 これに対し、参謀本部第2部長の永田鉄山は、ソ連に対する軍
事的劣勢を認識して、当面の間、ソ連との関係緩和を模索し、こ
の間に軍近代化を図るべし、と主張した。彼らは、ソ連を西方に
牽制するためのドイツ等の提携を模索し、英米や国民党軍との提
携には乗り気ではなかった。

 国家戦略をめぐって第1部と第2部が対立したが、作戦至上主
義のもとで第1部の案が採用され、1933年(昭和8年)に作
戦計画が大きく修正され、「まず満洲東方方面で攻勢作戦をとっ
てソ連極東軍主力を撃破し次いで軍を西方に反転して侵攻を予想
するソ連軍を撃滅せんとする」ものであった。

 この作戦計画は、日本軍の戦力がソ連軍よりも優位においてこ
そ成り立つものであって、当初から成立しないものであった。

 また、第1部と第2部の対立が永田、小畑両少将を中心とする
対立抗争へと発展し、後々、世間で言われる皇道派、統制派の派
閥抗争へと繋がり、永田少将の暗殺事件、1936年に2.26
事件を引き起こした。

▼陸軍の情報体制

 満洲事変以後、陸軍の情報体制はソ連情報に対する強化が図ら
れた。主要な変化は以下のとおりである。

1)参謀本部の組織改正
1934年初頭の参謀本部第2課の編制は以下のとおりであった。 

 第4課(欧米)
   第1班(南北アメリカおよび米国の植民地)
   第2班(ソ連、東欧、トルコ、イラン、アフガン、ルーマ
       ニア、ブルガリア、フィンランド、バルト3国、
       満洲)
   第3班(欧州各国および英仏伊の植民地、タイ、英の自治領)

第5課
    第5班(暗号解読及び作)
    第6班(支那ただし満洲のぞく)
    第7班(兵用地誌、経済、資源の調査、陸地測量関係業務)

    第4班(総合)

 1936年6月に行なわれた改正では、第4課第2班が昇格し、
第5課となった。いわゆるロシア課が新設された。

 この改正に伴い、従来の欧米情報担当の第4課が第6課に、
支那情報担当の第5課が第7課になった。

 つまり、第2部の編制は、5課(ソ連)、6課(欧米)、
7課(中国)と、第1班と暗号班から構成された。第1班は部長
直属で、情勢に関する総合判断を行なったものと見られる。

2)関東軍総司令部の整備
 満洲事変以前の関東軍第2課(情報課)には、たいした情報収
集能力はなく、関東軍の情報活動は南満洲鉄道株式会社(満鉄)
の調査部に依存した。

 満鉄調査部は1907年に設立され、主たる任務は、満洲や北
支の政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究である。したがって、
ソ連情報については不十分であった。

 満洲事変以後も、関東軍は満鉄調査部に依存していたが、ソ連
軍との対峙を想定して関東軍第2課の強化を逐次にはかった。

 満洲事変以前の第2課の情報関心は主として北支に向けられ、
支那関係者をもって要員にしていた。しかし、参謀本部第5課の
新設の動きと連動して関東軍第2課もソ連専門家をもってあたら
れた。

3)特務機関の増設
 日本軍は1918年のシベリア出兵以後からシベリア各地に特
務機関を配置していた。しかし、1922年10月末の撤兵まで
には逐次閉鎖され、ハルビン、黒河、満洲里のみが残され、静か
に対ソ情報を収集していた。その後、黒河は1925年3月に閉
鎖された。

 他方、1928年の張作霖事件が象徴するように、北支那や満
洲が混沌化していた。よって特務機関の主要関心事項は支那情報
であった。

 しかしながら、満洲事変以後、ソ連情報の価値が高まり、19
32年に黒河が再開され、ハイラルが新設された。1933年に
は琿春、密山に、1934年に富錦に特務機関が新設された。こ
れらは、琿春を除き関東軍に直属し、業務はハルビン特務機関長
が統制した。

4)在外武官の新設と配置
 満洲事変以後、ソ連は国境警備と防諜態勢を強化した。そのため、
日本軍は従来の密偵諜報に行き詰まりを感じ、ソ連情報の主要手
段として文書諜報、科学諜報を重視した。

 また、なるべく多くの将校を合法的にソ連邦に入れる努力をし
た。ソ連をめぐる隣接国における公館開設と公使館附武官の配置、
ソ連国内に対する駐在員の派遣、在ソ日本領事館における情報将
校の配置などを行なった。

5)文書諜報の強化
 参謀本部第2部第4課第2班(ロシア班)(のちの第5課)と
ハルビン特務機関(のちの関東軍情報部本部)が、それぞれ文書
諜報を本格的に開始した。

 1935年3月、小野打寛大尉がハルビン機関の中に、文書諜
報班を設置することで本格的な公開情報分析が始まった。

 この文書諜報班は、ソ連国内の出版物をできるだけ集め、参謀
本部と分担して公開情報の分析を行った。

 主に「プラウダ」「イズベスチャ」などの中央機関紙、「チホ
オケアンスカヤ・ズヴェズダ」「ザイバイカルスキー・ラボーテ
ィ」などの地方紙、「クラスナヤ・ズヴェズダ」「ヴォエンナヤ・
ムイスリ」などの軍事専門誌を集めて丹念に分析した。

 また同組織は無線電話の傍受も行なっており、これらは音秘・
音情と呼ばれていた。(小谷賢『日本軍のインテリジェンス』)

6)暗号情報の強化
 1930年5月、第2部5課(支那情報)に「暗号ノ解読及び
国軍使用暗号ノ立案」の任務が付加された。これにより、第5課
は4班(総合)、5班(暗号)、第6班(支那ただし満洲除く、
満洲はソ連とともに第4課第2班の所掌)、第7班(併用地誌等)
となった。

 1934年に関東軍参謀部第2課に関東軍特殊情報機関を設置
し、新京(長春)においてソ連軍の軍事暗号を解読する任務を開
始した。

 1935年に将校2人をポーランド参謀本部に将校を派遣して、
1年間の暗号解読の教育を受けさせた。

上述の1936年6月の改編で、第5課4班は、暗号班となり、
第2部長の直轄となった。

 1937年3月31日、暗号班が1班と改められ、所掌業務の
「暗号ノ解読及び国軍暗号ノ立案」のうち「及び国軍暗号ノ立案」
が削除された。及び(なお、原文は竝)が削除されたことは、こ
の頃から暗号解読の重要性が認識されたことを意味する。

7)防諜態勢の強化
 1936年8月に陸軍省に兵務局が新設された。兵務局は防共
(のちに防諜とあらためられる)に関する業務を担当した。これ
が陸軍中野学校の発足の経緯となる。

1936年7月14日の「陸軍省官制改正」第15條には兵務課
の任務が示され、同課は歩兵以下の各兵下の本務事項の統括、軍
規・風紀・懲罰、軍隊の内務、防諜などを担当した。 同官制改
正の六では、「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」が規
定され、これが防諜の最初の用例だとみられる。

 1937年3月に参謀本部内に、防諜態勢の強化を図るための
防諜委員が設置された。

8)ドイツとの情報提携強化
 1936年11月25日、日独防共協定の調印に伴い、諜報・
謀略に関して日独情報提携を約束した。従前参謀本部第2部は在
ポーランド駐在武官のソ連情報を重視していたが、本協定以後、
ドイツ駐在武官のソ連情報を重視するようになった。

 当時のドイツ駐在武官は、ドイツ通の大島浩大佐であった。大
島は、1921年(大正10年)以降には、断続的にベルリンに駐
在し、1933年以降はドイツの政権を得ていたナチス党上層部
との接触を深めた。

 以上、満洲事変以後から、日中戦争にかけての陸軍の情報体制
を概略みてきたが、次回は海軍の情報体制について少しだけ言及
したい。



(次回に続く)



(うえだあつもり)

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【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関係
論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査
学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年に
かけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務
し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官
をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省
情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定
年退官。現在、軍事アナリストとしてメルマガ「軍事情報」に連
載中。著書に『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11
月)、『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』(蒼蒼社、
2008年9月)、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引
き』(並木書房、2016年1月)、『中国が仕掛けるインテリジェ
ンス戦争―国家戦略に基づく分析』(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)、『情報戦と女性スパイ─インテリジ
ェンス秘史』(並木書房、2018年4月)など。

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『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
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