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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
も今回で36回目です。
読み手の生涯の知性を支えることになろう
ご見識が今日も光ります。
「こういう話を読みたかったんだよ」
とのあなたの心の叫びが聞こえてきそうです。
さっそくご覧ください。
エンリケ
ご意見・ご感想はコチラから
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(36)
「日露戦争」の経過と結果(その2)
宗像久男(元陸将)
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□はじめに
大型テレビという“文明”の発達によって、我が家の茶の間
(今やリビングというべきか)おいて、リアルタイム、しかも
“解説付き”の鮮明な映像で、天皇陛下の退位や即位の行事を観
ることができるということに改めて感動とある種の感慨を覚えな
がら、一連の行事を拝見させていただきました。
本メルマガ風に分析すれば、国家の一大理想を表徴するといわれ
る「元号」が変わるのは、“天皇崩御”や主に後継を明確化して
争いを封じる目的で行なわれた“譲位”(過去に57回あります)
の時、さらに明治以前は、天変地異や人災など国家に“異変”が
あってそれをリセットするため(1年未満で改元されたこともあ
ります)だった時と考えますと、今回、つまり248回目の“お
祝いムード一色”の改元は、歴史上極めて珍しいことと考えます。
国民の一人として素直にお祝い申し上げ、「令和」時代の我が国
の“安寧といやさか”を切にお祈り申し上げます。そして“その
ためにどうすればいいか”について考える上で、前回申し上げた
とおり、「温故知新」、引き続き「我が国の歴史」を学んで行き
たいと思います。
▼「旅順要塞の攻略」の真実
さて今回は、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』で有名になった「旅
順攻略」や「奉天会戦」を少し詳しく振り返ってみましょう。旅
順攻略については、陸軍は遼東半島を北上する背後にロシア軍戦
力を残置するのを危険と判断して攻略しようとしましたが、海軍
は、当初、陸軍の援助なしの独力で旅順艦隊を無力化しようと固
執し続けました。しかし、それが失敗し、バルチック艦隊の極東
回航がほぼ確定するや、拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざ
るを得なくなったというのが真相のようです。この辺にも陸軍と
海軍の確執があったものと推測します。
1904(明治37)年7月12日、ようやく海軍から陸軍に旅
順艦隊を追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入りました。し
かも「バルチック艦隊が10月頃に極東に到着する」と、見積り
を誤った海軍が陸軍を急かしたのでした。
乃木大将を司令官とする第三軍は、結果として、旅順要塞に対し
て第1次から第3次と3回にわたり総攻撃を実施しています。ま
ず第1次攻撃は、8月19日、海軍が急かしたこともあって、兵
力不足、準備不足、敵の状況不明のまま、旅順の東北に位置する
永久堡塁群を強襲したところ、大きな損害を出して失敗に終わり
ました。日清戦争時、「東洋一の要塞」といわれた旅順をわずか
1日で落とした経験が逆に仇(あだ)となったものと考えます。
第1次攻撃の失敗にかんがみ、第三軍は、正攻法で攻撃すること
を決し、内地から28センチ砲を運搬し、攻撃準備に着手。10
月26日、再度、総攻撃を実施しましたが、再び失敗します。
「いかなる大敵が来ても3年は持ちこたえる」とロシア軍が豪語
した旅順要塞は、ベトンで塗り固められ、それらを塹壕(ざんご
う)で結ぶ最新式の大要塞だったのですが、この情報を察知して
いなかったようです。ロシア軍は、50年前のクリミア戦争で要
塞戦の経験があったのですが、そのようなロシアの戦史について
だれも研究していませんでした。その上、“肉弾”に頼ったのは、
砲弾の補給が追いつかなかったという事情もあったようです。
10月半ば、「バルチック艦隊がバルト沿岸を出港した」との報
が届くや、海軍はマスコミを使って国民の恐怖心をあおり、乃木
批判を巻き起こしました。こうして、11月26日から再び旅順
東北部を目標に第3次攻撃が敢行しましたが、またもや頓挫、こ
こに来てようやく海軍が要求した203高地に攻撃目標を変換、
12月5日、ついに203高地の奪取に成功しました。それでも
ロシア軍は抵抗を続けましたが、翌年の1月1日に降伏し、旅順
要塞の攻防に決着がつきました。
▼乃木大将は愚将だったのか?
乃木大将の名誉のために付け加えれば、「乃木愚将論」を指摘す
る司馬遼太郎の小説にはいくつか史実と違う箇所があります。そ
れを解明するのが本メルマガの目的ではないのですが、海軍が要
求した203高地攻撃を拒否し、旅順東北部の永久土塁群にこだ
わったのは乃木大将ではなく満洲軍総司令部だったこと、そして
総参謀長児玉大将が28センチ砲の投入を決断したことや作戦の
途中で乃木大将に代わって指揮を執ったというくだりにも疑問を
持ちます。児玉大将が視察のために旅順入りしたのは第3次攻撃
半ばの12月1日だったとの記録がありますし、乃木大将名義の
「203高地西南部への突撃命令」(陥落前日の12月4日付)
も現存しています。
また小説では、203高地に観測所を設けて28センチ砲で湾内
の艦隊を壊滅させたようになっていますが、実際には8月以来の
海軍重砲隊による攻撃などで艦船の上部構造部は破壊され、戦闘
能力の大半をすでに喪失していたようです。
“歴史小説とはそのようなもの”かも知れませんが、後世とはい
え、“愚将”の烙印を押された方はたまったものでありません。
陸軍と海軍の確執を背負い、膨大な犠牲が出しながらも、第三軍
の士気が少しも衰えなかったのは、ひとえに乃木大将の“統率力”
の賜物であります。さもなければ明治天皇からあれほどの信頼を
得ることはできなかったはずです。
失礼を承知で申し上げれば、司馬氏は“プロの歴史小説家”では
ありましたが、実戦経験がない陸軍少尉で終戦を迎えたことから、
大部隊の作戦、さらに指揮官の指揮や統率の“本質”を見抜く知
見があったかどうか、個人的には疑問を持っています。
▼「奉天会戦」、そして終戦へ
1905(明治38)年に入り、旅順が陥落するなど劣勢にあっ
たロシア軍は、奉天付近に32万人の兵力を集結させました。敵
将クロパトキンは、解氷期以前に日本軍に痛打を与えようと、2
月21日、攻撃前進を命じ、「退却する者は、日本軍の弾丸に倒
れず、退却を罰する剣の錆(さび)となろう」と将兵を叱咤しま
した。しかし、日本軍の先制攻撃によって初動でくだけ、3日後
の24日、早くも攻勢を断念し、奉天市を背にするような態勢で
防勢一方に陥ってしまいました。
それに対して、日本軍の総勢は、どうにか旅順攻略を終えて参戦
できた第三軍を合わせても当時の動員力の限界と言われた約25
万人。「今度こそ、日露戦の関ヶ原」と決戦を決め、作戦を練り
ました。攻撃の火蓋は、最右翼(最東側)、つまりロシア軍左翼
後方に新たに編成された鴨緑江軍(司令官川村大将)に切って落
とさせ、それに連携して第1軍、第4軍、第2軍、最後に第3軍
を左翼から機動させて大胆な包囲網を構成して、ロシア軍を包囲
殲滅しようというものでした。
陸上自衛隊の幹部自衛官は、戦術教育で「攻撃は少なくとも防御
の3倍の戦力が必要」と学びます。防御側は地形や時間を利用で
きる分、戦力的に優位になるからです。その常識からすると、
(前回解説した「鴨緑江の会戦」や「遼陽会戦」もそうでしたが)
我より優る兵力(約1.3倍)で防御する敵に対してこのような
大胆な包囲攻撃を敢行することは何とも不思議でなりません。
しかし実際には、2月21日に鴨緑江軍が行動開始して以来、日
本軍はほぼ計画どおりに攻撃し、ロシア軍は至る所で陣地が破綻、
3月8日に総退陣し、ついに3月10日、両軍合計57万人に及
ぶ史上最大の大会戦となった「奉天会戦」は日本側の圧勝で決着
して、各国は驚愕し国内は歓喜しました。
すでに紹介しましたように、遠くハルピン付近まで後退して日本
軍を撃破しよう計画していたクロパトキンの退却決心は計画どお
りだったのかも知れません。しかし、本会戦後に解職されてしま
い、実質的に陸戦は「奉天会戦」をもって終了しました。
なお、日露戦争直後、「奉天会戦」に勝利した3月10日は「陸
軍記念日」として、「日本海海戦」に勝利した5月27日の「海
軍記念日」と並び、国民の休日となりましたが、終戦をもって廃
止されました。「日本海海戦」については次回取り上げましょう。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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