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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
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こんにちは、エンリケです。
「我が国の歴史を振り返る
―日本史と世界史に“横串”を入れる―」
も今回で35回目です。
令和最初の「我が国の歴史を振り返る」は、
日露戦争。
示唆に富む冒頭文から始まります。
さっそくご覧ください。
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(35)
「日露戦争」の経過と結果(その1)
宗像久男(元陸将)
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□はじめに(「令和」最初のメルマガ配信にあたって)
35回目となる今回は、「令和」に入って2日目の記念すべき
メルマガとなりました。今回以降、3回にわけて「日露戦争」の
経過と結果を振り返りますが、私など元自衛官にとっては、いわ
ゆる「戦史」としてなじみがありますし、何と言っても“勝ちい
くさ”ですからつい筆が走ります。
ただ、「メルマガ軍事情報」の読者とはいえ、よほど興味のあ
る読者以外は少し難解かと思います。だからこそ、歴史家などが
あまり立ち入らない分野でもあるのですが、「徴兵制」を発布し
てわずか30年あまり、こんなにも強かった明治時代の先人たち
に敬意と感謝を込めて“戦場の実相”をなるべく正確に振り返り
たいと考えます。地の利はあっても、なんせ相手は当時世界最強
ともいえる軍事大国・ロシアです。先人たちが“しびれた”こと
は容易に推測できます。
翻って、現在の日本人にはこのような「強さ」があるのだろう
か、ないのならその原因は何だろうか? 周辺情勢などから再び
強くなる必要はないだろうか、強くなるためにはどうすればいい
のだろうか? 総じて、アメリカや中国やロシア、そして何かと
腹立たしい某半島などの狭間に位置し、地政学的にも「ひよわな
花:日本」は、この安寧を維持するためにいかにあるべきなのだ
ろうか、これらのヒントを得るために歴史から何を学べばいいだ
ろうか・・・などを考えつつ、いつもメルマガ原稿に向かってい
ます。「令和」になっても続けます。皆さまにも本メルマガを通
じて一緒に考えていただければ望外の喜びです。
▼なぜ日露両国のみの戦争に留まったか?
さて、前回説明しましたように、「日露戦争は第0次世界大戦だ
った」と分析する歴史家がおります。その訳は、その特色が、
(1)総力戦だったこと、(2)機関銃が本格的に使用されたこと
などから世界の戦史上重大な節目になったことのようです。
「日露戦争」には、欧州などから70人以上の「観戦武官」が派
遣され、両国の戦いを間近に観戦していました。この「観戦武官」
制度の起源は明らかではないのですが、19世紀半ば頃に確立し
たといわれます。我が国からも「普仏戦争」時の大山巌、「米西
戦争」時の秋山真之などが有名ですが、「日露戦争」時には、イ
ギリス、アメリカ、ドイツなど13カ国から派遣の申し入れがあ
りました。
特に「日英同盟」のイギリスからはハミルトン中将以下33人の
大所帯、アメリカからはマッカーサー中将(ダグラス・マッカー
サーの父)などが観戦し、戦場の実相や戦法などが「観戦武官」
を通じて世界中に拡散し、第1次世界大戦などに多大な影響を及
ぼすことになります。
それゆえに、「第0次世界大戦」とだったものと考えますが、こ
の「観戦武官」制度、第1次世界大戦以降は自動車や航空機など
の輸送手段の発達によって「戦域」が広がり、1人の武官が戦闘
を観ることが不可能になったため、自然消滅しました。
他方、「日露戦争」は、戦争そのものは日本とロシアの2国に留
まりました。それにも訳があります。1904(明治37)年2
月8日に戦争が始まり、9日にロシア、10日に日本が宣戦布告
すると、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアなど
西欧諸国のほとんどが局外中立を声明しました。まさに「1カ国
と交戦状態になった場合は中立を守り、2カ国以上と交戦状態に
なった場合は参戦の義務がある」と定めた「日英同盟」がフラン
スをはじめ他国を牽制したのでした。
清国も満洲除く各省および内外蒙古の“局外中立”の声明を発し
ました。韓国(大韓帝国)は当初、日露のいずれにつくか迷って
いましたが、日本の第1軍が仁川に上陸して京城を経て平壌に前
進し、かつ旅順沖の緒戦で日本が勝利するやようやく態度を決し、
2月23日、日本の軍事行動に対する便宜供与を含む「日韓議定
書」に調印しました。
また、日露戦争勃発後の4月8日、イギリスとフランスは、ドイ
ツのアフリカ進出に対する警戒から「英仏協商」を締結しました。
これによって、「百年戦争」(14~15世紀)以来、数百年に
もわたる英仏間の対立関係は終止符を打ちました。この条約は、
やがてロシアを含む「三国協商」に発展しますが、この時点では、
ロシアに痛手を与えることになりました。ロシア外交の基軸だっ
た「露仏同盟」が「日英同盟」に対抗する力を持たないことが明
らかになったのでした。
▼朝鮮半島の確保
「日露戦争」においては、「旅順要塞の攻略」「奉天会戦」「日
本海海戦」などがあまりにも有名ですが、それらの前後の経過も
簡単に振り返ってみましょう。まず、日露戦争の原因ともなった
朝鮮半島の戦闘です。戦争の目的はこの朝鮮半島を確保すること
でした。
両国の激突は、上記のように2月8日、海軍の戦闘から始まりま
す。連合艦隊(東郷平八郎司令官)の駆逐艦が旅順港外にあった
露国艦隊を攻撃し、露艦を旅順港内に追い込みました(うち2艦
は自沈)。その後、日本側は、軍神・広瀬中佐が戦死することに
なった旅順港の閉塞作戦を敢行しました。この作戦が功を奏して、
以来、同年8月頃まで旅順艦隊は港内に引きこもったままになり、
黄海の制海権は完全に我が国が掌握しました。
朝鮮半島の確保のため、日本軍の第1軍(司令官黒木大将)は、
先鋒を仁川に上陸させ、京城(ソウル)から平壌(ピョンヤン)
に前進する一方、主力を鎮南浦(平壌西側)に上陸させ、鴨緑江
に向かいました。こうして、朝鮮半島の確保をめぐる日露陸軍の
最初の衝突が「鴨緑江の会戦」となりました。日本軍の3コ師団
に対してこの正面の露軍は約8コ師団、しかも鴨緑江という河川
障害を活用できたのでした。しかし、5月1日払暁、日本は一斉
に攻撃し、わずか1日で渡河を敢行した上、国境の既設陣地を突
破し、満洲の橋頭堡を確立してしまいました。
▼遼東半島南部の攻防から「遼陽会戦」まで
それ以降、陸戦のステージは、遼東半島南部の攻防に移りますが、
このため、我が国は第2軍(司令官奥大将)を投入し、遼東半島
に“無血上陸”しました。
開戦以来、日本海軍は黄海の制海権を保持していましたが、露国
の旅順艦隊は強力な陸上砲台に守られて港内に健在していました。
大本営は、旅順要塞を攻略することを決定し、新たに2コ師団基
幹の第3軍(司令官乃木大将)を編成しました。その一方で、露
軍が遼東半島に南下しつつあることを知って、6月以降、遼陽を
めざして第1軍に朝鮮半島から西進、第2軍に遼東半島西側を北
上させました。
作戦の進展に伴い、6月23日、「満洲総司令部」(総司令官大
山元帥、総参謀長児玉大将)を編成し、満洲軍を指揮下に入れま
した。戦争終結のきっかけをつかもうと考えていた日本は、次の
「遼陽会戦」を重視し、新たに第4軍(司令官野津大将)を編成
して第1軍と第2軍の中間にあたる遼東半島東側を北上させまし
た。
8月上旬、遼陽付近に所在した露軍は13コ師団基幹の20万人
以上、8月中旬以降、さらに増援が到着すると判断されたのに対
して、日本軍は9コ師団基幹の約13万人で挑みました。しかも
堅固に陣地を占領し、迎撃準備を整えていた露軍に対して「包囲」
(敵の側面や背後に対する攻撃)の態勢をとって決戦を求めたの
でした。
こうして、8月24日~9月4日、東方から第1軍、第4軍、第
2軍をもって遼陽に向かって攻撃し、ロシア軍と死闘を繰り返し
ましたが、相互に兵力や弾薬不足に陥り、露軍司令官クロパトキ
ン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したものの、追撃
せずに遼陽付近で停止しました。のちに軍神として称賛された橘
中佐が戦死したのが本会戦だったことも付記しておきます。
この後の10月9日から20日、逆に露軍が攻勢に出て、日本軍
の防御の前に失敗した「沙河の会戦」などを経て、決戦は翌春の
「奉天会戦」に持ち越されることになりました。(次回以降、
「旅順要塞の攻略」「奉天会戦」「日本海海戦」などを振り返り
ます)
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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