配信日時 2019/05/01 09:00

【陸軍小火器史(25)】─口径7.7ミリの九二式重機関銃─ 荒木肇

こんにちは。エンリケです。

 先帝陛下の御譲位に伴い、
わが国は令和の御代を迎えました。


祖国にとって少しでも良い時代になるよう、
力を尽くしてまいる所存です。

令和最初の「陸軍小火器史」。
きょうは二十五回目です。

さっそくどうぞ。


エンリケ


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 陸軍小火器史(25)

口径7.7ミリの九二式重機関銃

  
 荒木 肇
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□お祝い

 いよいよ今上陛下が「ご譲位」されることになりました。この
記事が「令和」で初めてのものになります。
 上皇陛下、上皇后陛下、長い間のおつとめありがとうございま
した。

□お礼

 YHさま、ご丁寧なお便りありがとうございました。まさにご
指摘の通り、正しい先人達の奮闘、勇戦の様子は敵方の記録にあ
ります。ソ連から見た北方での戦闘の真の姿をお教えくださりあ
りがとうございました。

 比較的新しいアメリカの戦争映画(たとえば、アメリカ映画
『ハクソーリッジ』)でも、まだまだ自殺的な突撃を行なう先人
達と、それを自動火器で撃ちたおすアメリカ兵が描かれています。
まだ、そうした「こうであったら良かったのに」というアメリカ
人の嗜好が見えてきます(笑)。お互いに正しい歴史像をとらえ
る必要があるようです。


▼ついに悲願の増口径化なる

 すでに日露戦争時から口径7.62ミリのロシア軍歩兵銃や機
関砲に対して、口径6.5ミリのわが機関砲や歩兵銃は評判が悪
かった。

 軽い弾はどうしても長射程では風に流されるし、敵に与える被
害も軽く見えた。事実、人体に対しては致命部に当たらなければ
即死することはなく、重い傷を負わせても短い加療期間で戦線に
復帰してしまう。

 いまから見れば、小口径のほうが弾の重さも軽くなる、補給や
輸送にも便利だし、省資源でもあり、射撃の反動も軽いと、いい
ことばかりだ。しかし、当事者たちにしてみれば、戦場の自分の
生死に関わることである。とにかく、威力を増せという要求は高
まるばかりだった。

 また、重機の増口径化は、軽機の出現と、その発達も見逃せな
い理由だった。十一年式軽機の有効射程は1500メートルから
2000メートルに達した。三年式重機の有効射程は2000メ
ートルから2500メートルとあまり差がなくなってしまった。

 第一次世界大戦後の列国の重機は3000メートル余りの射程
をもっていた。それ以上の4000メートルあたりは野砲の担当
だったから、重機は軽機と異なって、どうしても3000メート
ル付近に弾幕を張れなくてはならかった。

 そうした距離になると、軽量の弾ではどうしても不満が出てし
まう。それに普通弾(無垢の鉛に銅をかぶせたもの)だけではな
く、相手の装甲を撃ち抜く徹甲弾や、焼夷弾、曳光弾などを造る
のに、口径が大きい方が当然、有利になったからだ。

 1932(昭和7)年、皇紀2592年に九二式重機関銃は制
式化された。もともと大正3年に制式化された三年式重機関銃は
頑丈な造りだったから、設計も試作も順調に進んだ。実包は7.7
ミリの九二式実包が開発された。このこと、機関銃と専用実包が
同時に開発されたことはわが国の機関銃では初めてのことだった。

 九二式実包は形状が変わっていた。ドイツやアメリカの実包の
ように薬室への深入りを防ぐための機構として、薬室のボトルネ
ックで止めるリムレス(無起縁)ではなく、リムで深く入るのを
止めるセミ・リムド(半起縁)形式を採っている。これは英国規
格のリムド(起縁)薬莢を使う0.303インチ弾(航空機搭載
用八九式機関銃用八九式実包)に倣ったからだと兵頭氏は指摘し
ている(『日本の陸軍歩兵兵器』銀河出版、1995年)。

▼軽機と重機に弾薬互換性がなかった

 素人考えでも、同じ戦場にあって、重機、軽機、小銃、ついで
に拳銃もまったく同じ実包が使えれば理想的である。ただし、そ
れが実行できたのはソ連軍だけであったかもしれない。たとえば
1960年代に大人気だったテレビ映画『コンバット』の米軍歩
兵の装備を見てみよう。小隊長のヘンリー少尉はM1カービンを
もっていた。この騎兵銃の口径は7.62ミリだけれど軽量で短
かったから特別な実包だった。分隊長のサンダース軍曹は口径4
5の拳銃弾を撃つトンプソン短機関銃、分隊軽機のBARと小銃
は7.62ミリの30-06という3種類の実包を支給されなく
てはならなかった。7.62ミリが2種類に、拳銃弾。もちろん
副武装のガバメント拳銃はトンプソンと同じ。

 わが陸軍の場合は、重機、軽機と歩兵銃はほぼ統一され一種と
すると、それに拳銃は8ミリとやはり3種類と考えていい。ただ、
現地からの証言によると、九二式重機の弾と九九式軽機の弾を比
べると口径は同じなのだが別種であり、完全な互換性がなかった
という。軽機が使う九九式実包は歩兵銃用と同じリムレス(無起
縁)である。薬莢(ケース)底部のリムと外径が同じだったが重
機用九二式実包はセミリムド(半起縁)であり、リムはケース底
部よりいくらか大きくなっていた。

 九九式実包のデータは次の通りである。比較のために( )内
に九二式実包の数字をあげる。ただし、九二式は普通実包である。
口径7.7ミリ(7.7ミリ)、全長79.4ミリ(80ミリ)、
重量27グラム(27.15グラム)、薬莢長57.8ミリ(5
8ミリ)、縁径12ミリ(13ミリ)、弾丸重量11.8グラム
(13.1グラム)、装薬量2.8グラム(2.85グラム)。

 九二式重機関銃は保弾板に九九式小銃や、同軽機関銃の実包を
使えた。しかし、逆は出来なかったのである。この弾薬体系の乱
れの実態については興味深い記録がある。岩堂憲人氏の『機関銃・
機関砲』(1982年、サンケイ出版)に載っている。ビルマ方
面で戦った人たちの談話である。

 「うちの中隊は九二式重機でした。ところが小銃は内地を出て以
来の三八式、重機の弾薬はアッという間に消耗し、景気よく鳴っ
ていたのは最初のうちだけでした。頼りになるのは、ほそぼそと
空中投下される手榴弾だけで、それも敵さんの手に入るのが多く
て逆にこっちに投げ込まれる始末でした。ええ、重機はすぐ分解
して埋めてしまいました」

 「九二重機に小銃弾を使えるのですが、なんとしても焼きつきが
多いんです。空薬莢が銃身に残ってしまう。そうなるといちいち
分解して銃口から突きださなきゃならない。大騒ぎでした。わた
しは軽機でしたけど、補給されてくるのは、全部といっていいほ
ど九二式実包で、軽機では射てないんです。後方じゃ重機優先と
考えていたらしいんですが、重機なんて数がそんなにない。だい
たいがビルマの奥地に入っていくのに、重い重機をたくさん装備
するわけがないんです。こっちは九九式の実包が喉から手が出る
ほどほしいのに・・・」

▼MG中隊

 ふつう1個歩兵聯隊は聯隊本部と3個大隊、通信、速射砲各中
隊の編制だった。各大隊は小銃中隊4個と機関銃中隊1個、大隊
砲小隊1個である。昔の写真の中のMG中隊という兵士の腕章を
みて、あれ?敵性語の英語を使っていると驚いた人もいたが、あ
れはドイツ語のマシーネ・ゲベール(英語ではマシン・ガン)の
頭文字である。どちらもMGだから、英語かと思ってびっくりし
たのだろう。

 MG中隊は4個機関銃小隊と1個歩兵砲小隊、それに弾薬小隊
と指揮班が編制である。1個機関銃小隊は2個分隊。分隊は1銃
の92式重機を運用する戦銃隊と段列(銃馬と弾薬馬)からなっ
ている。つまり重機関銃は8銃である。ちなみに、日本陸軍は機
関銃を挺では数えなかった。銃という。大隊長の命令で4個の小
銃中隊に2銃ずつ配属されることが多かった。もちろん、重機の
集中運用といって、攻勢正面に4銃、助攻に2銃、予備として2
銃を大隊長の手元に置くことも行われた。

 大隊砲とは曲射・平射両用の九二式(70ミリ)歩兵砲のこと
で、小隊は2個分隊で2門である。輓馬1頭でひけたし、分解し
ても運べた。山なりに撃つ迫撃砲のようにも、直射する野砲のよ
うにも使えた。

 ついでに歩兵がもったその他の火砲について解説しておこう。

 歩兵聯隊には1個歩兵砲中隊があった。歩兵砲といっても砲種
は山砲である。山砲とは野砲と同じ口径の75ミリを撃つ。野砲
は弾薬を積んだ車といっしょにトレーラーにして輓馬6頭でひい
た。また後になると対戦車戦闘用に九四式速射砲(口径37ミリ)
4門も速射砲中隊となって編制内に入った。

 山砲は分解して駄馬の背に積んで運んだ。軽量化のために野砲
と比べると各部が華奢(きゃしゃ)だから、弾頭は同じでも装薬
が少ない。それでも歩兵聯隊長が直接握る火砲である。たいへん
よく使われたという。

 現在の陸自の普通科(歩兵)連隊にも重火器がある。部隊の編
制によって異なるが、重迫撃砲中隊があり射程6000メートル
の120ミリ迫撃砲がある。各中隊にも迫撃砲小隊があり、81
ミリ迫撃砲をもつ。また装甲車化普通科中隊には40ミリ自動擲
弾銃をもっている場合もある。

▼馬で運んだ重機関銃

 弾薬箱は紙ケースに入った30発保弾板が18連、つまり54
0発が入り、弾薬馬の背中に振り分けにして4個積んだ。

 保弾板は30発の重機弾薬が815グラム、それに保弾板自体
の重さ120グラムに紙ケースが75グラムあるから合計101
0グラムになった。口径6.5ミリの3年式重機弾薬なら830
グラムですんだ。1箱が22キログラムほどになる。1頭で80
キロを運ぶのだ。もし、馬が倒れたら、この重量を人間が運ぶこ
とになる。

 歩兵聯隊では、初年兵に20貫(75キログラム)もの土嚢を
担いでみよと命令したらしい。軽々と持ち上げたら重機、ふつう
に上げたら軽機、あがらない、苦しむ様子の者は小銃手と分けた
らしい。農山漁村出身の甲種合格の若者は、当時、兵士としての
訓練などたいしたものではなかったと言っている。

 よく都会師団は弱かったとか、困苦欠乏に耐える力がなかった
という戦後の評価を聞く。大阪師団(第4師団やその特設師団)、
東京師団(第1師団同)などは弱かったという。だから都会の人
間はという批判にもつながるが、精鋭といわれた東北や九州の師
団はたしかに強かった。東北の仙台第2師団などは「国宝師団」
とまでいわれた。しかし、軍隊の機動力のほとんどを馬に頼った
軍隊(それはヨーロッパの軍隊も同じ)である。東北や九州には
幼いころから馬を身近な存在として育った兵隊が多かった。

 馬はもともと平原で水分の多い草を食べ、走り回っていた生き
物である。それが山や泥濘(でいねい)の中を歩かされ、背中に
重い荷物を載せ、重い輜重車、野砲砲車を牽かされたのだった。
食料は運びやすさを追求した乾燥馬糧を食べさせられた。大量の
水を必要としたし(野戦では1日50リットルほど)、弱い皮膚
を守られなくてはならなかった。

 馬が倒れれば、重機も、弾薬も、糧食も、山砲も、歩兵砲も、
みな「臂力搬送(ひりきはんそう)」といって人間が運ぶしかな
い。馬を飼うこと、共に暮らすことが少なかった都会師団の兵士
たちを弱兵というのは、あまりに不公平な評価である。

▼戦場の九二式重機関銃

 アメリカ軍の記録を見ると、重機、軽機から撃たれて死んだ者
が多い。ペリリュー島のわが兵士たちの勇戦敢闘は、『ペリリュ
ー島戦記』(ジェームス・C・ハラス、2010年、光人社NF
文庫)にも描かれている。手榴弾を投げ、重擲弾筒を撃ち、機関
銃の猛射を浴びせる日本兵の様子がしっかり浮かび上がる。

 絶望的な状況の中でも、水戸歩兵第2聯隊を中心にした守備隊
は、掩蔽された機関銃座から正確な射撃を行なっている。また、
容易に設置場所を変えられる軽機も大活躍である。その姿は、硫
黄島の激戦をアメリカ人の目を通した『父親たちの星条旗』や海
兵隊員のリアルな回想記をもとにしたテレビ映画『ザ・パシフィ
ック』にも見ることができる。

 「勝った、勝った」の気分いっぱいの戦後すぐの映画を観ると、
日本軍はすぐに銃剣突撃をしてきて米軍のセミ・オート・ライフ
ルや軽機関銃になぎ倒された。ところが実際は、無駄な攻勢に出
ることなく地形や地物を利用し、しぶとく抵抗する日本兵、それ
が実態だった。正当に評価する映像作品は実は、戦ったアメリカ
兵の立場も表している。間抜けで、ぶざまで、銃剣突撃しかして
こない日本兵に楽に勝ったのでは、あまり尊敬されない。実態に
近く戦闘の様子を描写しないと、評価されないということなのだ。

 「日本軍は防御に非常に熟達している。彼らは戦術上の利益がな
い限りめったに退却しない。日本軍部隊はどんなに圧迫されよう
とも、降伏するとはみなされない。部隊は全滅するまで陣地を守
り続ける。日本軍司令官は時間と部隊を与えられ、防御陣地を縦
深化(じゅうしんか)している。可能であれば必ず全周囲防禦
(ぜんしゅういぼうぎょ)をとる。その外縁は相互に支援したト
ーチカまたは類似の陣地からなり、小銃兵や狙撃兵により支援さ
れている。陣地は巧妙に偽装され、防御側は目標への非効率な射
撃を繰り返したり、攻撃されるまで陣地を遮蔽したりするなどし
て、可能な限り奇襲の要素を保ち続けようとする」

 アメリカ軍の情報部による「日本軍戦術」の解説である(『日
本軍と日本兵』一ノ瀬哲也、2014年、講談社現代新書)。日
本軍は線の防禦ではなく、機関銃や擲弾筒などを十分に何層にも
配置した陣地を構成する。迂回されることを防ぐために全周囲に
防禦手段をとる。トーチカに近づこうとすると、狙撃兵や小銃に
よる精密な射撃にさらされることになった。また、「敵の意表を
つく」という日本軍のドクトリンがあり、そのためにはあえて無
駄な射撃をしたり、存在を隠したりすることもする。さらに、次
のような記述が続く。

 「機関銃は日本軍防御における基本的兵器である。この兵器は巧
妙に設置、遮蔽され、射界の視野を良好にするために手の込んだ
配慮がなされている。銃は固定銃座に据えられて単一の射線しか
送れないようになっており、横からの射撃に対する準備はされて
いない」

 ここでいう機関銃はいうまでもなく重機関銃である。重い重機
は簡単には射線を変えられない。横方向から撃つべきだというア
ドバイスである。しかし、相互に支援したトーチカの存在も指摘
しているから、いつも側面から近づこうとしても無理があったよ
うだ。


(以下次号)


(あらき・はじめ)

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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
 
 
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