配信日時 2019/04/24 09:00

【陸軍小火器史(24)】─7.7ミリ九九式軽機関銃─ 荒木肇

こんにちは。エンリケです。

陸軍小火器史の二十四回目。

大東亜戦争時の軍事予算の腑分けが
とても面白いです。



エンリケ


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「95式軽戦車を取り戻す計画」

4月30日が最終日ですが、
目標まではまだまだ。遠く及びません。
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 陸軍小火器史(24)

 ─7.7ミリ九九式軽機関銃─
  
 荒木 肇
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□ご挨拶

 いよいよ今上陛下のご譲位も近づいてまいりました。新しい御
代が希望とともに満ち溢れるよう、「令和」という新元号も嬉し
く受け止めています。

 そうしたなかで、各地で選挙も行なわれました。つくづく「民
意」とは難しいものと思っております。それでも民主主義とはコ
ストがかかるものと、国民誰もが重く受け止める時代も同時にや
ってきたなと思います。

 もうすぐ長い十連休がやってきます。わたしはどこも混みそう
なので、ひたすら家にとじこもるつもりです。皆様も楽しく過ご
されますよう願っています。


▼軽機関銃手はエリート

 1937(昭和12)年5月、「歩兵操典草案」が出された。
正規の改訂は3年後になるが、そこに火力重視の文章がある。

 「射撃は先ず軽機関銃要すれば之に若干の小銃手を加えて之を
行い敵に近接し、火力の増加を必要とするに至れば所要の小銃手
を増加するものとす。火力を増加するに方(あた)り過度に小銃
を配列するときは却って我が重火器等の射撃を妨げ、且つ突入に
先立ち無益の損害を被(こうむ)るに至ること多きに注意するこ
と肝要なり」

 この文章は草案だから下書きに過ぎないと思ったら間違いであ
る。現場部隊の意見や歩兵学校の研究によって細かい部分は変え
ながら、ほぼ草案の基本は踏襲される。しかも、拘束力もあり、
部隊では工夫を重ねていかねばならないものだった。

 「要すれば」というのは軍隊用語で、「必要ならば」という意味
である。あくまでも敵陣を攻撃するには軽機関銃という主張が読
み取れる。

 そうして96式軽機関銃の制式化から、わずか3年で口径7.7
ミリの99式軽機関銃が制式化された。同時に、小銃も念願の
「増口径化」がされて口径7.7ミリの九九式小銃が採用される
ようになった。すでに同口径の九二式重機関銃があり、こうして
日本陸軍も欧米なみの8ミリに近い弾薬で小銃、機関銃が揃うこ
とになった。

 99式と96式を並べると、明らかに99式が力強い。銃身の
直径は3ミリ太く、機関部に近い方は5ミリ以上太く、最後部の
尾筒底も3ミリ太い。弾倉の曲がり方がゆるい。銃口にフラッシ
ュハイダー(消炎器)が付き、床尾の下にはモノポッド(単脚)
がついている。

 消炎器は短い銃身から7.7ミリの強力実包を撃つので大きな
閃光が出る。射手にとっては目に残像が映り、照準しにくくなる
のを防ぐためだ。このラッパのような消炎器はかなり有効だった。
ただし、反動を強くしてしまったことは疑えない。戦後の新しい
機関銃では消炎器を使う機関銃はほとんどない。ついていない九
六式軽機と見分けることもすぐできる。

 モノポッドは塹壕戦などの接近戦時に役に立つ。至近距離で敵
を見れば、どうしても銃口は上に向いてしまう。夜間でも正確に
高さをたもって点射ができるよう、あらかじめ床尾からの高さを
固定しておくのだ。短い状態では150ミリ、内部の管も伸ばす
と280ミリにもなった。先端はとがっている。

 全長は床尾から消炎器の先端までが1185ミリ、床尾から銃
口まで1070ミリ(1048)、銃身長540ミリ(540)、
床尾から引鉄までの長さ350ミリ(330)、初速715メー
トル/秒(735)、重量9.9キログラム(9)だった。
( )は比較のための九六式のデータである。弾倉重量は630
グラムで30発の実包を入れると合計で1380グラムになった。

 部隊では軽機関銃手はエリートだった。体格もよく、判断力に
秀で、我慢強く、忍耐力のある兵が選ばれた。10キログラム以
上の軽機をもち、狙撃能力が高く、目標を冷静に狙える人でなく
てはならない。副銃手や弾薬手にも的確な指示が出せなくてはな
らなかったし、何より整備、保全にも気が配れる人しかなれなか
ったのだ。当然、平時では一選抜の上等兵(満1年間で上等兵に
進んだ人)の役目であり、予備役で召集されても、軽機射手であ
るというその地位は高かった。

 平時の歩兵中隊では4個内務班、2年間の兵役時代では15人
ずつが同じ班で起居した。一選抜上等兵は各班で2~3人と考え
られるから、1人は軽機の射手となっただろう。

▼「18年度対ソ連戦開始の軍備充実計画」の挫折

 6.5ミリの九六式軽機関銃は7.7ミリの九九式とともに最
後まで生産された。6.5ミリ体系の給弾システムをとる部隊が
ある以上、生産打ち切りとはできなかったからだ。戦時中の装備
改編ほど難しいものはない。新しい兵器には、新しい取り扱い要
領と、新しい教範(各種教科書類)の作成、新しい戦術(射程の
延伸や弾薬の性能変化に対応する)の教育などが必須のものだか
らだ。素人が考えるように、ほらこれが新しい機関銃だ、すぐに
撃てるぞというようなものでは決してなかった。

 しかも、九九式軽機が制定され、生産が軌道に乗った当時は、
日華事変はまさに拡大の一途をたどり、次々と国力を超えた動員
がされていた頃である。有名な「関東軍特種演習」、ソ連に対す
る開戦準備の動員で知られている(昭和16年7月)。このとき、
関東軍が満洲に展開する兵力は約35万、これに増加したのが予
算人員約50万、馬が15万頭の増加だった。とたんに人員約8
5万、馬22万頭にふくれあがったのである。

 増派される師団は2個師団(第51、同57)だったが、
満洲・朝鮮にいる14個師団や飛行集団が動員され、すべての部
隊が戦時定員体制になる。その予算総額は、当時、陸軍省軍務局
軍事課予算班員だった加登川幸太郎少佐によれば、21億円を関
東軍は要求してきたという。当時の1円を現在の3000円ほど
と考えると、6兆円という巨額である。それをなんとか折衝で削
って17億円にしたということだ(『陸軍の反省』上、1996
年、文京出版)。

 「戦(いくさ)に勝てばいい」というだけで、国力や生産、補
給、国民生活という冷厳な数字に目を向けない参謀本部等の作戦
担当者が主導したことである。

 戦争とはいかに金がかかるか。満洲の兵備は1人あたり年間3
500円くらいかかった。換算すれば1050万円である。50
万人も増やしたら5兆円以上になる。中国戦線での戦費は1人当
たり4500円くらいだった。これが年間38億円、ざっと11
兆円ほどである。

 もともと、陸軍省の兵備や動員の主務者たちは慎重な計画を立
てていた。対ソ連戦を最重要課題と考えていた陸軍軍政中央部は
なかなか合理的な計画を立てていたのだ。

▼国防の台所

 防衛庁が編纂した戦史叢書33号の附録に、陸軍省軍務局軍事
課資材班の中原茂敏砲兵少佐が昭和15年7月に軍需動員関係事
項をまとめた「国防の台所」がある。その内容は恐ろしいばかり
に貧弱なわが国の現状がある。すべてを転記はできないが、主要
なものを書いておこう。なお「新軍備充実計画」とは昭和18年
度の対ソ連開戦に備えたものである。

 火砲については、現在年間2000門を生産している。官は大
阪造兵廠、民は日本製鋼、神戸製鋼などを中心に、官民比率35
対65で製造。「新軍備充実計画」が完成すると4000門くら
いの能力が見込まれるが、その時点では2万1000門が保有量
である。全軍動員の場合は、現在の補給率(年50%)でも年に
1万門を造る必要がある。ことに15糎加農以上の大口径火砲は
150門ほどがあるが、その製造能力は1年に5門くらいである。
15加は1門製造に8カ月、24糎榴弾砲は18カ月が必要にな
る。このような大型機械製造設備の現状は貧弱である。

 昭和12年の事変以降、この設備拡充に重点を注ぎ、18年度
までには官有設備拡充の半分である約4億円の増加になっている
(当然のことに対米英蘭戦争は考慮していない)。

 弾薬については、現状では3万台の機械を動かして、砲弾20
00万発、爆弾17万発を製造している。その中の砲弾について
は、現在1日6万発、年間で2000万発を製造している。うち
3分の1は支那戦線で射耗して、3分の2が蓄積されつつある。
現在の保有量は約1500万発で4億円ほどにあたる。18年度
末の新軍備完成時には6000万発、16億円分を保有すること
になる。

 機関銃に関係する実包についても書かれている。現在は月産6
000万発で18年度には1億2000万発に向上させる計画で
ある。

 事変の発生以来14年度までに、弾薬製造に使った鋼材は約5
0万トンで、18年の新軍備完成後全軍動員には少なくとも年1
00万トンを必要とするだろう。

 最後に火薬について挙げておこう。爆弾が多くなったので、最
近は炸薬と装薬との比がおよそ2対1であり、現在合計月300
0トンの能力がある。開戦時には月1万トンが必要だが、18年
度には月6000トンに達する。

▼開戦1年半後の実態

 大きな戦争が始まってほぼ1年、1942(昭和17)年暮れ
のことである。ガダルカナルの攻防戦があり、たくさんの輸送船
が沈み始めた。飛行機だ、弾薬だ、いや船舶だと大騒ぎになった。
ガダルカナルの撤退があった18年の初めから18年度軍需動員
計画が検討されたが決まらない。年度計画に基づいたふつうの動
員ではなく、臨時動員が次々くり返され、人も兵器も膨大な数が
必要になった。

 おかげで計画はガタガタである。昭和18年5月になってよう
やく決まった計画がある。

 「航空整備を最優先して、あわせて海運資材(具体的には大発
といわれた上陸用舟艇、これで不足する船舶を補い、ソロモン方
面の補給を円滑にするためである)、防空関係兵器資材(高射砲
やその弾薬も含める)の急速、多量の整備に努むるものとす。そ
の他の軍需資材整備は作戦上必須となるものに抑制す」

 こうなると、小火器の整備などはほんとうに削られる。17年
度の生産実績と18年度の計画数である。17年度の数字をあげ
て、(  )内に18年度の計画数と比べる。

 軽機関銃1万5900(1万1000)、重機関銃1万280
0(4000)、92式歩兵砲500(250)、94式対戦車
砲2000(200)、47ミリ対戦車砲400(700)、9
4式山砲190(0)、95式野砲110(60)、10糎榴弾
砲230(0)、15糎前同177(20)、15糎加農37(2
4)、機関銃関連の小銃実包4億発(2.5億発)である。

 火砲の減少も重大だが、軽機、重機の生産数の削減が大きい。
別に高射砲弾薬は133万から発から176万発へ、高射機関砲
弾薬も130万発から240万発へ増えている。中央では、とに
かく現場が頼りにする小火器や弾薬よりも航空機、船舶に重点を
かける。もちろん、制空権もなくなり海上輸送手段も減る。それ
では現場も立ちゆかないだろうということからの判断だが、国民
のほとんどはこうした実態を知らなかったのだ(数字はすべて戦
史叢書、軍需動員から)。

 さらに悲惨なのは、19年度計画である。新しい部隊が召集さ
れた兵士たちですぐできあがる。ところが支給する装備がなくな
る。戦っている部隊には新しい兵器が渡らない。「19年度整備
基準(案)」である。小銃80万挺、重擲弾筒3000、軽機1
万5000、重機5000、92式歩兵砲275、97式曲射砲
600、47ミリ対戦車砲700、41式山砲250という数字
がある。野砲は造らない。94式山砲だけが250門となる。大
口径火砲は軒並みゼロ。高射砲、高射機関砲だけを整備する。つ
いでに戦車もゼロが並び、4式中戦車、5式中戦車、10糎加農
搭載戦車がそれぞれ5輌ずつである。

▼戦う99式軽機関銃

 造られた軽機は新編部隊にも交付されたが、海外で戦う部隊に
も送られた。特に船舶輸送がなんとかできた沖縄や台湾、小笠原
などに届いた率が高かったことだろう。また上海などの中国にも
順調に運ばれ、問題はその先だった。連合軍の進撃が速すぎ、各
地で兵器弾薬などの物資の滞留がかなり多かったことだろう。

 また、日本軍の戦い方も当然のことながら、変わってきている。
一ノ瀬氏は前掲した『日本軍と日本兵』の中で、ビルマの撤退作
戦での日本軍の行動についての米軍情報部の分析を紹介されてい
る。

 「追撃する英印軍に圧迫された日本軍は、巧妙に選ばれた足止め
陣地の小部隊に有効な後衛行動をとらせることで、その退却を防
禦した。この小戦闘を通じて特筆されるのは、敵が決然たる自殺
行動を止めたということである。その代わり、日本の後衛隊は昼
間は連合軍の前進を妨害し、夜間にその足止め用陣地が完全に包
囲されたとしても、大きな損害を被ることなく撤退していく能力
を示した。この活動により、日本軍部隊のかなりの割合が孤立化
せず、その結果としての壊滅を免れている」

 後衛隊は有利な地形を選んで陣地を造る。外側に外哨兵を置き、
英印軍が接近すると射撃をして包囲される前に主陣地に戻る。英
印軍の隊列が主陣地の射程に入っても、集中射撃や一般の射撃も
行なわない。敵に機関銃陣地や火点を発見させないようにするた
めである。包囲される前に夜間に撤退する。機関銃手と狙撃手だ
けが明け方まで発砲を続けていた。

 ここには、戦後の定説になっていた、日本兵のやけくその銃剣
突撃などはなかったことの証拠が示されてる。


(以下次号)


(あらき・はじめ)
 
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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
 
 
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