配信日時 2019/04/16 20:00

【わが国の情報史(30)】昭和のインテリジェンス(その6) ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(2)─ 上田篤盛

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
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上田さんの最新刊
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
は、女性という切り口からインテリジェンスの歴史
(情報戦史)を描き出した作品です。

本編はもちろん、充実したインテリジェンスをめぐる
資料集がすごく面白いです


こんにちは、エンリケです。

田中隆吉については、知る人ぞ知る存在ですし、
軍事ファンの間ではその評価もある程度常識化されてますが、
こういう形でプロの目の精査を通すと改めて落ち着けますね。

その本文も面白いですし、より注目したいのは冒頭文です。

実は同じことを考えていたこともあり、
何度も熟読し、あらためて着眼点の位置を確認出来た次第です。
感謝です。


エンリケ


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わが国の情報史(30)

 昭和のインテリジェンス(その6)
  ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(2)─

     インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 新元号が「令和」に決定。元号としては248個目になります。
ただし「一世一元」の制が実施されたのは1886年の慶応から
明治への改元の時からであり、それ以前は天皇の在位中にも災害
などさまざまな理由で改元が行なわれていました。逆に天皇が即
位しても、元号が変わらない場合もありました。

 現在の皇太子徳仁親王は第126代目の天皇として即位されま
す。永久に一つの天皇の系統が続くことを「万世一系(ばんせい
いっけい)」といいます。日本の国歌「君が代」にも「万世一系」
の永続性が謳われています。

 筆者は新天皇の古風な風貌、慎ましくて勇気ある言動、慈愛に
満ちた所作など、そこに日本人としての由緒正しき血統を感じて
います。「令和」におけるわが国の発展を心から願うものです。

 ところで、過去125代のなかで、幕府から天皇に政権が移っ
たことが2回ありました。まずは1333年の「建武の中興」で
す。これは、鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇(第96代)の執政に
よる復古的政権を樹立したものです。そして1867年の大政奉
還です。これは、江戸幕府の徳川慶喜将軍から明治天皇に政権返
上が奏上されました。

 両政権移管の背景をみますと、ともに外的脅威の出現によって、
国内秩序に危機が起こり、国民のなかから勇士が登場し、天皇の
権威にすがって国体をようやく維持した、という構図があります。

 「建武の中興」は二度の蒙古襲来(元寇)が原因です。鎌倉幕府
は奇跡的に蒙古軍に勝利しますが、御家人たちに多大な犠牲を払
わせたばかりで、財政に窮乏し、御家人に対し、ろくに恩償を与
えることもできなくなります。

 一方で幕府のトップ北条高時は、田楽や闘犬に興じ、政(まつ
りごと)を顧みようとはせず、農民に重税を課すばかりでありま
した。幕府は腐敗し、御恩と奉公の秩序は崩れ、それが農民や商
人に伝播し、社会は乱れていきました。

 そこで、後醍醐天皇が秩序維持の回復のために、自ら親政を行
なうことを決意したのです。

 他方の大政奉還は、1853年のペリーの黒船来航が直接の原
因になります。それ以前から、外国船が各地に出没して、列強が
日本に開国を迫るという状況は生起していましたが、黒船は政治
中枢である江戸に直接に開国要求を突き付けたのですから、日本
としては待ったなしの決断を迫られたのです。

 幕府は大いに動揺します。一方の庶民は、本来は守ってくれる
はずの武士階級の無為無策、堕落した姿に不安を覚えます。幕府
としても、家柄ではなく能力主義の人材登用に着手したことで、
薩摩藩や長州藩から有為な先進的人材が出てくるようになります。

 これらの先進的人材から、もはや徳川幕府では新たな時代に対
応できない、だから天皇の御世への復活を図ろうとの「尊王攘夷」
の思想が芽生え、やがて外国にかなわないことを自覚して倒幕に
向かいます。

 外国からの未曽有の脅威が発生した場合、外敵から国家を守る
ためには内部が一致団結するほかありません。つまり、天皇の権
威のもとに国民が結集して、愛国心を発揚して、自己犠牲を顧み
ずに国家存続のために一心奉仕する以外に道はなかったのです。

 また、〝平々凡々〟の安寧時代から激動時代へと移る過程にお
いては思想変革が必要となります。思想変革をリードしたのが
「建武の中興」における楠木正成であり、明治維新における吉田
松陰であったのです。

 筆者が、これまでの過去ブログにおいて、両者をことさらに取
り上げてきた理由もここにあります。現在、不透明な未来に立ち
向かうとすれば、我々は両人についてもっと学ぶ必要があると、
筆者は考えます。しかるに、吉田松陰については、日本には高校
教科書から削除しようとする運動もあるようです。「バカも・・
・・・・」の心境です。

 さて筆者は現在、第三の〝脅威の波〟がわが国に押し寄せてい
ると感じています。それは、テクロノロジーとグローバリズムで
す。この2つの潮流が今後、現実の脅威となるか、それとも日本
再生の好機となるかは、我々次第でしょう。

 対応を誤れば、AIと外個人労働者が人々の職業を奪って、失
業者が町中に溢れる。反政府デモが頻発する。

 社会では所得格差が増大し、テクロノジーとグローバル化の波
に乗れない人々は、倦怠感に打ちひしがれて孤立する。社会は活
性化がなくなる。

 少子高齢化という負のベクトルが、さらなる追い打ちをかける。
疎外された一部の老人は、世間を注目させるためにテロを起こす。
国民は治安に怯える。このような“悪の未来シナリオ”は排除さ
れません。

 “悪の未来シナリオ”の方向に向かうとすれば、「象徴天皇制」
という問題がいやが上にも頭をもたげてくるでしょう。

 誰しも、自分が苦境の時は、誰かに助けてほしい、心の拠り所
が欲しい、そう思うものです。このことは日本だけではありませ
ん。タイでは、政治が不安定になって収拾がつかなくなれば、国
王が出てきて決着をつけます。イギリスでも似たような状況があ
ります。

 経済苦境、増税、貧富の格差、世間との断絶、外国人の流入、
そうした苦しい生活環境のなかで国民は、「万世一系」の天皇制
に心の安寧や、アイデンティティの礎を追い求めるかもしれませ
ん。つまり、今後、天皇制はより注目されるでしょう。

 そうしたなか、皇室の行動が自由奔放に映り、そこに節度が感
じられず、一方の国民が重税や自制を強いられるとした場合、ど
のような発想が起こり得るでしょうか? 多くの国民は天皇制の
在り方に疑問を抱くかもしれません。

 戦後の「象徴天皇制」の時代が長くなるにつれ、皇室教育は多
様化し、皇室の発言や行動にも変化が生まれているように感じま
す。これはある意味致し方ないのかもしれませんが、ICT(情
報通信技術)化によるネット情報が拡大するなか、皇室の一部の
行動が国民の期待値から遠くなるとすれば、さまざまな“バッシ
ング”が起こるでしょう。

 それが、やがて政争の論点になるかもしれません。事実、天皇
制を否定する政党も存在します。こうした状況が進展していくな
か、国民全体が「象徴天皇制」に対して、どのような判断を下し
ていくことになるのでしょうか? 筆者はその動向に注視したい
と思います。

 さて、本題に移ります。前回は、張作霖事件が関東軍の計画的
な謀略であるとの定説は、首謀者とされる河本大作の「手記」が
戦後になって発表されたことが大きな根拠になっている、しかし
ながら、これは第三者によって書かれた第二次情報にすぎないこ
とを述べました。

 今回は、ソ連GRUによる新説まで一挙に紹介する予定でした
が、少し「前書き」が長くなったので、もう一つの関東軍犯行説
の根拠となっている極東軍事裁判(東京裁判)における田中隆吉
少将の証言について着目します。

▼田中隆吉の証言

 1946年5月3日から極東軍事裁判(東京裁判)が開かれた。
ここで検察側の証人として証言台に立った元陸軍省兵務局長の田
中隆吉(元少将)は「関東軍高級参謀河本大作大佐の計画によっ
て実行された」と証言した。また、彼は、1931年9月の満洲
事変についても「関東軍参謀の板垣征四郎、次参謀の石原莞爾が
行なった」旨の証言をした。

 これにより、日本軍が行なった計画的な謀略により、日中戦争、
そして太平洋戦争へと向かわせ、国民の尊い命を奪った。その戦
争責任は死刑をもって償うべしとの、国民世論が形成された。

 田中の口から直接された証言は第一次情報である。しかし、第
一次情報といえども、常に正しいとは限らない(前回のブログを
思い起こしてほしい)。なぜなら、情報源(この場合は田中)が
意図的に嘘をつくことがあるからだ。

 したがって、インテリジェンスにおいては、情報源の信頼性と
情報の正確性という手順を踏まえて、しっかりと情報を評価しな
ければならない。とはいうものの、評価するための十分な情報が
あるわけでもないので、可能な限りという条件がつく。少なくと
も、情報は無批判に受け入れるということだけは避けなければな
らない。

▼田中隆吉とはどんな人物か?

 ヒューミント(人的情報)においては「報告したのはどの組織
の誰か」「報告者は意図的に自分の意見や分析を加味していない
か」「過去の報告あるいは類似の報告から、報告者の履歴、動機
および背景にはどのようなことが考えられるか」などを吟味して
いかなければならない。

 これが情報源の信頼性を評価するということである。

 そこで田中隆吉(1893~1972年)とはどのような人物
であったのかを簡単にみていこう。

 彼は1927年7月に参謀本部付・支那研究生として、北京の
張家口に駐在し、特務機関に所属した。当時、34歳であり、階
級大尉である。1929年8月には陸軍砲兵少佐に昇級して帰国。
参謀本部支那課兵要地誌班に異動になった。

 田中が本格的に北支および満洲で謀略に従事するのは1930
年10月に上海公使館附武官として上海に赴任した以降のことで
ある。ここでは著名な川島芳子(満洲国皇帝・溥儀の従妹)と出
会い、男女の仲になり、川島をスパイの道に引き入れた。

 1932年の第一次上海事変においては、「満洲独立に対する
列国の注意をそらせ」との板垣征四郎大佐の指示で、当時、上海
公使館付陸軍武官補であった田中は、愛人の川島芳子の助けを得
て、中国人を買収し僧侶を襲わせた(彼自身の発言から)。

 その後、田中は北支および満洲で関東軍参謀部第2課の課員や
特務機関長などを歴任し、帰国後の1939年1月には陸軍省兵
務局兵務課長、そして1940年12月に兵務局長(憲兵の取り
纏め)に就任して、太平洋戦争の開戦を迎えた。1941年6月
には陸軍中野学校長も兼務した。

 開戦時の陸軍大臣は東条英機である。田中は東条から寵愛され
ていた。陸軍大臣に仕える最要職の軍務局長には、1期上の武藤
章(A級戦犯で処刑)が就いていた。ところが、1942年、田
中は〝東条・武藤ライン〟から外され、1942年に予備役に編
入された。なお、これには田中が武藤のポストを奪う画策が露呈
して、左遷されたとの見方もある。

 一介の民間人となった田中は、戦後間もなく『東京新聞』に
「敗北の序章」という連載手記を発表した。これは1946年
1月に『敗因を衝く―軍閥専横の実相』として出版された。

 東京裁判の主席検事のジョセフ・キーナンらが、これらの著作
から田中に着目して、1946年2月に田中を呼び出し、その後
に尋問を開始した。

 東京裁判では田中は東條を指差して批判し、東條を激怒させた。
武藤においては「軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」と
発言した。武藤は、太平洋戦争の早期終結を目指し、東條とは一
線を画した。つまり、田中証言がなければ、武藤の死刑はなかっ
た可能性が高い。

 田中は、東條、武藤以外にも多くの軍人に対して不利となる証
言を次々とした。その状況があまりにもすさまじく、田中に対し
て「裏切り者」「日本のユダ」という罵声を浴びせる者が多数い
た。

▼張作霖爆殺事件当時の田中の立ち位置はどうだったか?

 さて、1928年6月の張作霖爆殺事件の当時、田中はこの事
件について、どれほど知り得る立場にいたか。彼は、北京に駐在
して1年足らずであり、しかも、階級は大尉にすぎない。いわば
特務工作員の見習い的な存在であったとみられる。

 他方、河本大作は関東軍の高級参謀であり、田中よりも10歳
年長の45歳であった。張作霖爆殺事件が、河本の計画的な謀略
であったとするならば、その秘密はわずかな関係者にしか知らさ
れていなかったであろう。しかも、両者の階級差や所属から考え
ても、河本と田中との直接的な交流は考えられない。

 つまり、田中は河本の犯行説を裏付ける第一証言者の立場には
なく、東京裁判における田中証言は伝言レベルのものと判断され
る。すなわち、情報源の評価としては「信頼性は低い」というこ
とになる。

▼東京裁判における田中の情報源としての信頼性

 彼の著書『敗因を衝く』では「軍閥」の代表である東条英機と
武藤章を執拗に非難している。他方、自分自身が日中戦争の早期
解決や日米戦争の阻止に奔走したことを強調して、自分自身が行
なった上海での謀略については述べていない(のちに述べるが)。

 本書から田中の性格を推測すると、執着心が強く、狡猾な一面
が感じられる。

 だから、田中は、自分が東條・武藤ラインから外されたことの
逆恨みから、彼らに戦争責任を負いかぶせ、自分自身はキーナン
検事との「司法取引」によって、処刑を回避して生き延びた、と
の批判にも一理ある。

 また、検事たちが作り上げた筋書きに沿った証言を田中が行な
ったのは、天皇陛下の戦争責任を回避するためだったとの見解も
ある(作家の佐藤優氏は同見解を主張)。

 他方、東京裁判の終了後、田中は戦時中から住んでいた山中湖
畔に隠棲した。ここでは、武藤の幽霊が現れたと口走るなど、精
神錯乱に陥ったそうである。そして、1949年に短刀で自殺未
遂を図った。その際に遺した遺書では、戦争責任の一端を感じて
いた記述もある。

 豪放磊落と評された田中が精神錯乱に陥ったのは、嘘の証言に
よって、太平洋戦争の早期終結を目指した武藤を死刑に追い込ん
だ自責の念に堪えかねてのことであった可能性がある。

 いずれにせよ、田中を情報源という視点から見た場合、田中は
「嘘をつく・真実を秘匿する」状況におかれていたことは間違い
ない。つまり、張作霖爆殺事件における田中の情報源としての評
価は「必ずしも信頼できない」というレベルであろう。

 しかしながら「彼が語った内容が真実かどうか」は、別途に
「情報の正確性」という評価が必要となる。これについては次回
に述べるこことする。



(次回に続く)



(うえだあつもり)

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【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関係
論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査
学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年に
かけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務
し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官
をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省
情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定
年退官。現在、軍事アナリストとしてメルマガ「軍事情報」に連
載中。著書に『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11
月)、『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』(蒼蒼社、
2008年9月)、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引
き』(並木書房、2016年1月)、『中国が仕掛けるインテリジェ
ンス戦争―国家戦略に基づく分析』(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)、『情報戦と女性スパイ─インテリジ
ェンス秘史』(並木書房、2018年4月)など。

ブログ:「インテリジェンスの匠」
http://Atsumori.shop

 
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
※女性という斬り口から描き出す世界情報史

『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
※兵法をインテリジェンスに活かす
 
『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』
※インテリジェンス戦争に負けない心構えを築く
 
『戦略的インテリジェンス入門』
※キーワードは「成果を出す、一般国民、教科書」
 

 
 
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