配信日時 2019/04/10 09:00

【陸軍小火器史(22)】─傑作といわれた九六式軽機関銃─ 荒木肇

こんにちは。エンリケです。

陸軍小火器史の二十二回目。

無機質な兵器を有機的なものがたりで
くるんで魅力的に解説する荒木さんのスタイルが、
自分は大好きですね。

エンリケ


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 陸軍小火器史(22)

 ─傑作といわれた九六式軽機関銃─
  
 荒木 肇
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▼チェッコに撃たれる

 九六式軽機は、現役を引退した南部麒次郎中将が興した中央工
業南部工場製の製品である。満洲事変(1931年)以後の戦場
で、中国軍はチェコ・スロバキア製の口径7.62ミリのブルー
ノZB26軽機を撃ちかけてきた。ZB26は世界最初の完成され
た軽機関銃であるといっていい。

 世界大戦後にチェコ・スロバキアは独立を達成した。独自の兵
器を開発するということから、国策会社ブルーノが1922年に
設立された。政府が75%、スコダ社が20%、その他が5%と
いう資本構成だった。24年、ホレク技師がチェコ陸軍の機関銃
の採用トライアルに応募し、ガス作動式の軽機を提出した。これ
が26年に制式化された。優秀なスコダ鋼と、元から評価の高い
チェコの精密工作技術、優れた設計と三拍子そろったものだ。

 全長は1161ミリ、銃身長672ミリ、重量は2脚をいれて
9.6キログラム、給弾方式は箱型30発入り弾倉、初速は76
2メートル、口径は7.92ミリというドイツ式の強力なものだ
った。1930年には改良が加えられた。撃針が短くなり折れに
くくなったといわれている。これをZB30というが、チェコ軍
もわざわざ更新することもなく26型を使い続けた。30型は主
に外国に輸出された。その最大のお得意さんは中国だった。満洲
事変以後、あらゆる戦場で「チェッコ(日本兵のつけた通称)」
は日本軍に火を吐いた。

 また英国は第1次大戦以来のルイスに代わるライト・マシンガ
ンにこのZBを採用した。1935(昭和10)年には英国向け
に改良された口径0.303(7.7ミリ)のこの軽機はブレン
と名付けられた。ブルーノの頭文字と製造権を取得し英国で生産
するロイヤル・スモール・アームス・ファクトリーが所在するエ
ンフィールドの頭文字を組み合わせてBRENとされた(『第2次
大戦歩兵小火器』ジョン・ウィークス著、床井雅美訳、並木書房、
2001年)。1940年夏までに3万挺以上が生産され、英国
軍に支給された。のちにインパールやニューギニアなどの英豪軍
もこれを装備していたから、わが十一年式や九六式軽機とも撃ち
あったことだろう。

 「とにかく火制距離がある。600から800メートルで撃っ
てくる。場合によっては1000メートルでも届いてきた、しか
も停まらない」とチェッコに撃たれた体験談にある。十一年式軽
機は満洲の厳寒、埃に弱かった。整備を十分にして、熟練した射
手でもよく故障を起こした。それに比べて、チェッコは無故障で
はないかと思えるほど盛大に撃ってきた。

 十一年式軽機にかわる新機関銃の開発には珍しい方法がとられ
た。民間の銃器産業育成の視点から、軍が仕様を示し、民間メー
カーがこれに応募して競争試作をするという初めてのやり方にし
た。もちろん、官である陸軍造兵廠もこのコンペに参加すること
になった。その結果、南部中将の中央工業南部工場が採用を射と
めたというものである。

▼軽機の役割が変わる

 小銃と軽機を7.7ミリに増口径をという要求をいったんおい
て、小銃弾と同じ6.5ミリ弾の軽機が設計された。全長は10
48ミリ、銃身長550ミリ、尾筒底(機関部の最後部)まで銃
口からは824ミリ、重量は弾倉ともで10.2キログラムであ
る。列国の軽機と比べると、少し小柄に見える。実際、チェコZ
B30と比べると、約110ミリ短い。アメリカのBARの121
4ミリと比べても、同じく170ミリも短くなっている。発射速
度は550発/分、初速735メートル/秒、最大射程4000
メートルである。

 制式化されたのは皇紀2596(西暦1936、昭和11)年
なので「九六式」となった。兵器の制式名称は、ふつう元号を冠
した採用年にした。明治38年なら「三八年式」、大正4年なら
ば「四年式」とされた。昭和になると、明治や大正と紛らわしい
ので、わが国独自の皇紀年号を使うようになった。ちなみに陸上
自衛隊は西暦を使い、1989年の小銃を「八九(はちきゅう)
式」、2010年の戦車を「一〇(ひとまる)式」としている。

 九六式軽機が部隊配備された頃には、軽機は十一年式時代とは
違った役割を担うようになった。昭和初期まで十一年式軽機は1
個小隊(50~60名ほど)に2個分隊があった。2挺の軽機が
4個小銃分隊(40人ほど)を掩護したのである。つまり、小隊
を掩護する機関銃だった。九六式軽機が採用されたときには、戦
闘群戦法、分隊戦闘が導入されていたので、小隊は軽機分隊と擲
弾筒分隊で構成されるようになった。「分隊レベルの主火力は軽
機、擲弾筒であり、歩兵銃は撃たない」ということが常識になっ
てきたのである。

 このことはすでに1920(大正9)年に、渡辺錠太郎(わた
なべじょうたろう)少将がヨーロッパから帰朝後、指摘している
ことだった。渡辺は1894(明治27)年に一般徴兵で陸軍に
入った。小学校尋常科も中退したといわれる苦学力行の人だった。
入営4カ月後に陸士に入校した。士官候補生第8期生である。

 陸軍大学校第17期を首席で出て、1904(明治37)年、
旅順攻略戦で歩兵第36聯隊(福井県鯖江市)中隊長として奮戦
し負傷する。帰国後、大本営参謀兼ねて山縣有朋元帥の副官を務
め、07(明治40)年にドイツ駐在武官補佐官(少佐)になっ
た13(大正2)年、中佐で歩兵第3聯隊(東京市麻布)付、参
謀本部外国戦史課長になり、17(大正6)年オランダ公使館付
武官、その後、欧州駐在で3年間、戦中・戦後の状況を直に見る
ことができた。20(大正9)年8月に少将に進み、歩兵第29
旅団長(静岡市)になる。後、参謀本部第4(戦史)部長、中将
になって陸軍大学校長である。

 その最期は悲惨だった。陸軍教育総監だった1936(昭和1
1)年2月26日、昭和維新を叫ぶ決起部隊に私宅を襲われて拳
銃で反撃、軽機で乱射され亡くなった。

 欧州戦場を観察し、ドイツの将軍たちから聞き取りを精力的に
行なった。1920(大正9)年10月、「世界戦争の経験に基
き歩兵戦術の変化に関するドイツ軍事界の趨勢(すうせい)」と
いう報告書を出した。その内容は次の通りである。

 「戦術は常に武器の進歩に伴いて変化するものにして、世界戦争
中に於ける武器の変化は実に驚くべきものあり。歩兵の如き、現
今其主兵器は機関銃となり、従来の小銃は単に補助兵器にたるに
過ぎざるに至れり」(前原透「日本陸軍用兵思想史」所収)

 1937(昭和12)年5月、新しい『歩兵操典草案』が配付
された。草案とはいいながら、のちに発布される操典と同じよう
に、拘束力をもつものだった。

 支那駐屯歩兵第1聯隊の佐藤軍曹の証言をみよう(『昭和史の
天皇』15、読売新聞社)。

 「分隊は←印のように、カサが半開きの恰好に散開します。・・・」。
以下、要約する。
右肩の部分に分隊長が位置し、最先端部には機関銃手、その左側
の傘の骨にあたるところに2人の弾薬手が伏せた。傘の柄に当た
るのは小銃手だが、状況次第で右にも左にも移動した。小銃手の
うち射撃がうまい2人が狙撃手になった。各分隊が敵前7~80
0メートルに接近すると、狙撃手に撃たせて敵の指揮官を倒す。
距離が300~400メートルに近付くと、擲弾筒を敵の火点に
撃ちこみ、軽機を撃たせる。このあと突撃して白兵戦に移るが、
軽機の射手もいっしょに突進するようになった。

▼九六式軽機の特徴

 耐久試験を行なった結果、銃腔の中にクロームメッキを施すこ
とにした。これはずいぶん贅沢なことだったが、おかげで銃身命
数はたいへん伸びた。このことは、世界中どこの陸軍も採用して
いなかった。また銃身の厚さを増やしたり、腔径を100分の7
ミリ小さくするなどの改修をし、弾の直径も100分の3ミリ大
きくもしたりした。このように、自動装?式火器の設計、製造は
難しいものだった。

 外観では十一年式になかった銃身上のキャリング・ハンドルが
付いた。これで熱い銃身を直につかまなくてよくなった。照門の
上下装置は、ZB26によく似た円盤型である。尾筒の左側に円
い円盤がついていて、それを回すことで照尺の覗き穴が上下した。
弾倉は30発の箱弾倉で湾曲している。バナナ弾倉ともいう。小
銃実包にはテーパーが付いているので、30発も入れると湾曲さ
せなくてはならなかった。

 もう一つ贅沢な装備があった。倍率2.5倍の照準眼鏡である。
遠くへ正確な射弾を送るためであったが、視野を明るくし、薄暮
や夕暮れでは照準が容易だったと現場は語っている。プリズムを
使って全長を短くしているのも工夫だった。銃身前方につけられ
た二脚は意外なことにぶらぶらしている。これは地形が斜めにな
っていても安定させやすいという工夫らしい。興味深いのはアメ
リカ軍のBARも後期型ではこのぶらぶら動く二脚を付けたが、
九六式と異なって、折り畳むことができなかった。

 銃剣を着けられるようになっている。「軽機に銃剣とは」と、
これまた白兵重視思想といわれそうだが、別にそういうわけでも
ない。後方からの掩護射撃だけではなく、小銃兵の突撃と同行す
るためのものだ。支那事変(1937年)からの戦闘では軽機は
分隊の先頭に位置して射撃を行なった。副射手と弾薬手がそばに
いて、小銃班は左右に下がっていた。上から見ると、傘の形にな
るので傘型隊形といった。十一年式軽機の射手は銃剣を右手に握
って、左手で軽機を肩から吊り下げ走らねばならなかった。もち
ろん、副武装として拳銃を支給されたが、軽機にも銃剣があるの
は心強かったに違いない。

 九六式軽機にはバレル(銃身)から発射ガスを導くガス・ポー
ト(ガス漏孔)には規制子(きせいし)がついていた。1~5ま
での5段階でガス量を調整できた。これは回転速度の調整のため
とされていることが多い。しかし、無故障機関銃といわれたチェ
コのZB30にはこれがなく、中国戦線でこれを鹵獲した報告に
はしばしば回転不良を起こしたというものがある。原因はおそら
く装薬が少ない実包を使ったためだろう。ZBには強力な7.9
2ミリのオリジナル実包の場合、調整などしなくてすむ頑丈さが
あったのだ。

 ガス量の調節は孔の大きさが1.5ミリ、1.8ミリ、2ミリ、
2.2ミリ、2.5ミリになっていた(須川薫雄『日本の機関
銃』)。同じように英国ブレン軽機にも、原型のZB30になか
ったのに、レギュレター(規制子)がついている。「発射速度を
変化でき、機関部の汚れやゴミによる作動不良の排除もできる」
とジョン・ウィークスの前掲書にもある。九六式軽機は発射を続
けるにしたがって、ガス圧を強くしていった。おかげで回転不良
がかなり減らせたのだと思う。

▼射撃と弾薬運搬

 構えてみると、尾筒の左側には目視用の照準装置と右側には照
準眼鏡がついている。銃身の前の左側には照星座と照星がある。
照尺のつまみは大きな転輪で、回すことができる。照準眼鏡は
2.5倍のプリズム内蔵型で短い。視野はかなり明るくなって、
これは世界で初めての試みである。

 銃床は十一年式の曲がった形式と変わって、銃のセンターにあ
る。とはいえ、大きな弾倉が立っているので真ん中で照準を合わ
せるわけにはいかなかった。左は左目、右は右目で狙ったのだ。
二脚を使って銃を立てた。箱型弾倉には30発の実包が入る。前
から装てん(土偏に眞)口に入れて、後部をあとから押し込んだ。
弾倉止めがカチッという感じで作動して、はずすときには前にこ
れを押せばいい。

 装てん(土偏に眞)は内蔵されたバネのおかげで、後になるほ
ど力を必要とした。ただし、弾薬装てん(土偏に眞)器という道
具があった。5発がまとまった保弾子から一気に入れることがで
きた。左手の人差し指で、横にした実包をおさえ跳び出しを防ぐ。
親指で駐鉤というロックを押しながら、柄をもった右手で「一挙
ニ力ヲ加フ」と図にある。この装てん(土偏に眞)器は帆布製の
収容嚢に入れて、副射手などが帯革(ベルト)に通して腰につけ
た。

 左側の槓桿を手前に引いて初弾を薬室に送り込む。30発はお
よそ4秒で撃ち切ってしまう。弾倉の後部の下には円形の窓があ
って、残弾が4発から1発まで表示される。細かい配慮だと思う
が、実戦で射撃中にこれを確認したのだろうか。熟練した射手な
ら、数発ずつの点射の感覚で、およその残弾の見当がついたに違
いない。

 厳寒の満洲での使用が前提に設計されたのが分かるのが、手袋
をつけたまま操作できる配慮である。用心鉄と引鉄が大きい。用
心鉄の内部を測ると縦30ミリ、横が54ミリもあった。引鉄は
40ミリと長い。そのため、用心鉄には窓が開いており、そこに
引鉄の先端が入っている。手袋が引っかかったり、はさまれたり
するのを防ぐためだった。

 弾薬手は弾倉をその収容嚢に入れて運んだ。2個がまとまって
直方体の嚢に入った。肩かけである。蓋の部分が長く、2個の金
具で閉じる。高さは250ミリ、幅105ミリ、厚さは65ミリ
で、重さは350グラムである。素材はゴム引きの帆布、ふつう
の帆布、皮革などだった。現存する遺物はたいへん頑丈だった。
拳銃嚢などと同じくハードケースになっていたのは、射撃戦中に
銃手に投げることもあったからだろう。8個の収容嚢を運ぶのが
ふつうだったから、副銃手、弾薬手2名だけではとても無理だっ
たはずだ。

 6.5ミリ弾が30発で約600グラム、それに金属製弾倉が
540グラムあった。2個入りの嚢は合計で約2.6キログラム
になる。弾倉を8個となると、その4倍だからざっと10キログ
ラム、軽機とほぼ同じ重さになる計算だ。この他に手入れ用具を
運搬したのだから、多くを人力に頼ったのだから大変だった。


(以下次号)


(あらき・はじめ)
 
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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
 
 
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