配信日時 2019/04/02 20:00

【わが国の情報史(29)】昭和のインテリジェンス(その5) ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(1)─ 上田篤盛

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
もあります。
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上田さんの最新刊
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
は、女性という切り口からインテリジェンスの歴史
(情報戦史)を描き出した作品です。

本編はもちろん、充実したインテリジェンスをめぐる
資料集がすごく面白いです


こんにちは、エンリケです。

私のような人間にとって
「歴史からいかにエキス・養分を吸収するか?」
というテーマは一番関心があります。

今日の記事はまさにドンピシャの内容です。

とくに、インテリジェンスのプロの視座を
そっくりまねできることは非常にありがたい貴重な機会です。
他ではまず手に入りません。

これからわたしは、
この記事を印刷して赤線を引きながら読み込むでしょう。
嬉しいことです。


エンリケ


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わが国の情報史(29)

 昭和のインテリジェンス(その5)
  ─張作霖爆殺事件から何を学ぶか(1)─


     インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 まもなく平成から新たな年を迎えます。このメルマガが配信さ
れる頃には新たな元号が発表されている予定です。
 
 以下は、東京大学史料編纂所教授の山本博文氏の講座から学ん
だ内容です。

・元号は前漢に始まり、日本への導入は645年の「大化」が始めと
される。
・日本の元号は、ほとんど全てが中国古典を出典としているが、
最も多く引用されたのは『書経』である。
・これまで247の元号があるが、漢字の数は72文字しかない。
うち21文字は10回以上使われている。最も多いのは「永」で
あり、「天」「元」と続く。いずれにしても吉兆の漢字である。

・昭和54年に「元号法」が制定され、大平内閣は元号選定の具
体的な要領を策定した。これによれば、国民の理想としてふさわ
しい、よい意味を持つ漢字2字、読みやすくて書きやすい、これ
までに元号やおくり名(諡号)として用いられていない、俗用さ
れていないことが定められている。

 さて、どのような元号となりますか。楽しみです。

 今回から3回にわたって張作霖事件をインテリジェンスの視点
から取り上げます。この事件をめぐっては、最近、新たな説が登
場し、侃侃諤々の論議が行なわれています。かの有名な『田母神
論文』も、定説である河本大作犯行説に異を唱えるものです。

 筆者にとっての歴史は、真実を追い求め、そのための論争をす
ることではありません。そこから現代の教訓を取り出すことです。
つまり“真実を決めつけ”るのではなく、異なる仮説を同時に受
け入れ、そこから、対象国などの行動などの未来予測を行なうた
めの尺度を得るというスタンスです。いわば「いずれも真実とは
言えない」との前提で物事を考える、この点をご理解いだき、お
読みいただければと思います。

▼張作霖爆殺事件

 1928年6月4日、中華民国・奉天(瀋陽)近郊で、奉天軍
閥の指導者である張作霖が暗殺された。当時、事件の真相は国民
に知らされず、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれてい
た。

 国民革命軍との決戦を断念した張は6月4日早朝、北京を退去
して特別編成の列車で満洲に引き上げた。途中、奉天近郊の京奉
線が満鉄線と交差する陸橋付近にさしかかった際、線路に仕掛け
られていた火薬が爆発(?)、列車ごと吹き飛ばされ張は重傷を
負い、まもなく死亡した。

 その事件の扱いをめぐって、山川出版の高校教科書『詳説 日
本史B』によれば、以下のとおりである。

 「田中首相は当初、真相の公表と厳重処分を決意し、その旨を天
皇に上奏した。しかし、閣僚や陸軍から反対されたため、首謀者
の河本大作(こうもとだいさく)大佐を停職にしただけで一件落
着とした。この方針転換をめぐって田中首相は天皇の不興をかい、
1929年総辞職した」

▼河本大作について

 河本とはどんな人物か、簡単に経歴を言及する。大阪陸軍地方
幼年学校、中央幼年学校を経て、1903(明治36)年に陸軍
士官学校を卒業して翌年日露戦争に出征している。1914(大
正3)年に陸軍大学校を卒業した。

 陸士の卒業順位97番、陸大の卒業順位が24番であるが、大
佐昇任が17番であるので、実務において実力を発揮した有能な
人物であったとみられる。

 そして、彼が関東軍の高級参謀であった時に、張作霖爆殺事件
の首謀者とされた。しかし、軍法会議にかけられることはなく、
停職処分を受けて、予備役編入された。

 その後、河本は関東軍時代の人脈を用いて、1932(昭和7)
年に南満洲鉄道の理事となり、満洲炭坑の理事長、南満洲鉄道の
経済調査会委員長などを歴任する。太平洋戦争中の1942(昭
和17)年、日支経済連携を目的として設立された北支那開発株
式会社傘下の山西産業株式会社社長にした。

 戦後、山西産業が中華民国政府に接収されたが、中華民国政府
の指示により河本は同社の最高顧問に就任し、引き続き会社の運
営にあたった。

 戦後、河本は閻錫山(えんしゃくざん)の中国国民党山西軍に
協力して中国共産党軍と戦ったが、1949(昭和24)年に中国
共産党軍によって河本は捕虜となり、戦犯として太原収容所に収
監された。そして1955年に同収容所にて病死する。

▼関東軍と張作霖との関係

 当初日本の新聞では、張作霖爆殺事件は、蒋介石率いる中国国
民党軍のスパイ(便衣隊)の犯行の可能性も指摘され「満洲某重
大事件」と呼称されていた。

 しかし、事件当初から関東軍の関与も噂された。奉天総領事か
ら外相宛の報告では、現地の日本人記者の中に関東軍の仕業であ
ると考えるものも多かったと記されている。

 関東軍関与説の背景には、現地の関東軍と張作霖の対立があっ
た。1927年に4月に設立した田中義一内閣は、北伐を進める
蒋介石軍に対しては強硬策を採用した。しかし、張作霖への間接
的援助による満洲利権の間接的確保を指向していた。

 これに対して、関東軍司令官の村岡中太郎中将は、張作霖に対
しての不審感を募らせており、満洲を独立させようと画策してい
た。これに対し、田中首相が関東軍の行動にブレーキをかけてい
たのである。また河本は、この事件前から、周囲に対して張作霖
殺害を匂わせるような発言もしていたようである。

▼河本犯行説に至った経緯

 田中首相はすぐに「関東軍の仕業ではないか」との疑惑をもっ
た。そして西園寺公望を訪ねたところ、西園寺は「(犯人は)ど
うも日本の軍人らしい」と応じた。昭和天皇の側近である西園寺
は、ある筋から、そのような情報を入手していた。

 西園寺は田中に、「断然断罪して軍の綱紀を粛正しなければな
らない。一時は評判が悪くても、それが国際的信用を維持する所
以である」と励ました。

 田中は、事件の3か月後になって、白川義則陸相に指示して憲
兵司令官を現地に派遣した。9月22日に外務省、陸軍省、関東
庁の担当者らで構成する調査特別委員会を設置し、10月中に報
告書を作成するよう命じた。

 10月23日、調査特別委から、事件は関東軍高級参謀の河本
が計画し、実行したとの報告があった。同月8日に帰国した憲兵
司令官も、河本の犯行とする調査結果を提出した。

 しかしながら、この過程において河本はずっと犯行を否認した。
河本の犯行を裏付ける直接証拠は見つからず、関係者の発言など
の状況証拠によって河本犯行説が判断されたのである。

▼昭和天皇による叱責

 10月10日には即位の礼が執り行なわれた。それから2か月
後の12月24日、田中は昭和天皇(陛下)の御前で、張作霖事
件において帝国軍人の関与が明らかとなった場合には、法に照ら
して厳然たる処分を行なう旨を述べた。

 陛下は、関東軍の謀略を嘆きつつ、田中の厳罰方針に深くうな
ずいた、とされる。

 ところが、河本犯行説の調査結果を受けて、田中首相が閣議を
開くと厳罰主義に同調する者はいなかった。小川(平吉)鉄道相、
白川(義則)陸相、鈴木(荘六)参謀総長が穏便に処理するよう
田中に要求した。

奥保鞏(おくやすかた)、閑院宮(載仁親王:ことひとしんのう)、
上原(勇作)による、天皇の最高軍事顧問である元帥会議におい
ても、上原がリードして事件の真相の公表、責任者の軍法会議送
致に強く反対した。
 
 このため、河本は軍法会議にかけられることなく、予備役編入
という軽い処分で終わった。

 こうした経緯について、昭和天皇は田中首相を激しく叱責した。
『昭和天皇独白録』は以下のとおりである。

 「たとえ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるか
ら、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、
と云ふ事であつた。そして田中は牧野(信顕)内大臣、西園寺(公
望)元老、鈴木(貫太郎)侍従長に対してはこの事件に付ては、
軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考えだと云つたそう
である。
……田中は再び私の処にやつて来て、この問題はうやむやの中に
葬りたいと云う事であつた。……私は田中に対し、それでは前と
話が違うではないか、辞表を出してどうかと強い語気で云つた」
(引用終わり)

▼河本犯行説の裏付けとなった資料

 今日、張作霖事件はわが国が日中戦争に突入する契機となった
事件として認識されている。

 また、定説は、先述の山川出版の高校教科書が記述するとおり
であり、「河本の犯行であり、張作霖の殺害と、それに引き続く
武力発動によって満洲を占領し、懸案であつた満蒙問題を一挙に
解決しようとする計画的な謀略である」と認識されている。

 これに対して、「計画的な謀略ではなく、河本の恣意的な判断
による無計画な犯行」との対立説はあるが、いずれにせよ、最近
になるまで河本犯行説には揺るぎはなかった。

 しかしながら、前述のように河本犯行説を裏付ける直接的な証
拠はない。河本自身の自白もなかった。河本が極東裁判に呼ばれ
て、彼の口からこの事件について発言する機会は与えられなかっ
たのである。

 河本犯行説の大きな根拠となっているものは、戦後に発表され
た『河本大佐の手記』「私が張作霖を殺した」(文芸春秋・19
54年12月号)である。しかしながら、「手記」とは名ばかり
で、これは河本の自筆ではない。

 これは、河本の義弟で作家の平野零児が口述をもとに筆記した
ものである。平野は1918年に東京日日新聞(毎日新聞)入社、
その後、中央公論社(現在の中央公論新社)と文藝春秋社の特派
員として中国に渡った。このころから作家として活動し始めた。
現地に詳しい文筆家である。

 平野は、終戦直前に河本を頼り中華民国山東省太原に身を寄せ
た。そこで、河本とともに閻錫山の中国国民党の山西軍に協力し
て反共活動に従事して、中国共産党に逮捕され政治犯収容所に投
獄された。彼は、河本の死亡1年後の1956年に帰国した。

 平野は、河本の発言を知り、彼の発言も得る立場にはいたが、
他方で収容所において中国共産党からの洗脳を受けていた可能性
も指摘されている。また、1955年に河本は病死しているので、
1954年12月のこの手記に対して、河本がコメントする機会
はなかった。

▼第二次情報源の危うさ

 最初の情報源のことを第一次情報源という。第一次情報源から
情報を受けた情報源を数次情報源という。また第一次情報源から
の情報を第一次情報、数次情報源からの情報を数次情報と呼称す
る。一般的には数次情報をまとめて第二次情報として区分してい
る。

 第一次情報とは主として本人が実際に直接、目にした耳にした
情報である。これに対し、第二次情報は第三者を介して得た、あ
るいは第三者の思考や判断が加味された情報である。

 ここでの第一次情報とは、河本本人による極東裁判などにおけ
る発言、あるいは河本自身が直接書いたものであった。しかし、
残念ながら、それは存在していない。

 平野が書いたとされる『河本大佐の手記』は第二次情報である。
インテリジェンスの視点からは、かかる第二次情報は、どのよう
に外堀を固めようとも、情報としての欠陥があるという前提に立
たなければならない。物語を作る、解釈する歴史学とはこの点が
異なる。

 現在では、張作霖事件についてソ連のGRU犯行説などが出て
いる(なお、筆者は、この説を無批判に受け入れるものではない。
これについては次回に触れる)。しかし、『河本大佐の手記』と
いう第二次情報を根拠にして、GRU犯行説を大上段に否定する
のは、著しく説得力を欠くといわざるを得ない。つまり、歴史論
争には自説を裏付けるためのバイアスがある。

 最後に、できる限り第一次情報源に接するのがインテリジェン
スの原則であるが、常に第一次情報が正しくて、第二次情報が誤
っているというわけではないことは、注意を要する。



(次回に続く)



(うえだあつもり)

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【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関係
論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査
学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年に
かけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務
し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官
をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省
情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定
年退官。現在、軍事アナリストとしてメルマガ「軍事情報」に連
載中。著書に『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11
月)、『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』(蒼蒼社、
2008年9月)、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引
き』(並木書房、2016年1月)、『中国が仕掛けるインテリジェ
ンス戦争―国家戦略に基づく分析』(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)、『情報戦と女性スパイ─インテリジ
ェンス秘史』(並木書房、2018年4月)など。

ブログ:「インテリジェンスの匠」
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