配信日時 2019/03/13 09:00

【陸軍小火器史(18)】─サンパチと通称された名銃「三十八年式歩兵銃」─ 荒木肇

こんにちは。エンリケです。

陸軍小火器史の十八回目。

38式歩兵銃のメカニズムに関するはなしは
巷に腐るほど満ち溢れていますが、
同銃(というより帝国陸海軍兵器)の
武器輸出に関わる話を見たのはこれが初めてです。

実に面白いです。


エンリケ


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 陸軍小火器史(18)

 ─サンパチと通称された名銃「三十八年式歩兵銃」─
  
 荒木 肇
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▼「サンパチ」とは俗称である

 薬室上部に菊花紋と「三八式」と刻まれている。おかげで「サ
ンパチ」式といわれるが、正しくは「三十八年式(さんじゅうは
ちねんしき)」である。

 30年式は一気に国際標準に達した性能をもつ手動装てん式5
連発銃だったが、戦場では意外な弱点を見せた。それは皮肉なこ
とに、製造公差をとことん少なくしたことから起こった。熟練職
工が丁寧にすり合わせをした遊底、機関部に満洲の細かい砂塵が
入り、潤滑油にくっついたり、目詰まりや焼きつきを起こしたり
したのである。満洲という戦場特有の現象だが、そこを想定主戦
場にする軍隊にとっては致命的な欠陥になった。

 また小さな部品が壊れやすく、強度が足りないことも指摘され
た。そこで全長などの基本的な諸元などは手もつけられないまま、
急いで小銃製造所長南部麒次郎(なんぶ・きじろう)砲兵少佐が
新小銃を設計することになった。

 38年式の機関部はたいへん優れた設計といっていい。遊底止
(ゆうていどめ)を引き上げて銃本体からかんたんに遊底を離す
ことができる。最後部の安全子(あんぜんし)を押しながら、右
へ45度回すと遊底本体(円筒形)から、内部の撃茎(げきけい)
とコイルになっている発条(スプリング)を取り出せた。この円
筒には抽筒子(ちゅうとうし)がついている。エジェクター、つ
まり撃ち殻薬莢のリム(縁)をひっかけて薬室から抽き出す爪の
ことをいう。

 遊底の単純化を行ない、撃茎駐螺(げきけいちゅうら)、副鉄、
撃鉄の3部品を撃茎駐胛(げきけい・ちゅうこう)に一体化し、
遊頭(ゆうとう)も廃止したので、8点の部品数が5つになった。
整備上も、製造上もたいへん大きな改善だった。

 また、薄い金属製の「遊底覆(ゆうていおおい)」が付けられた。
遊底全体を覆うカバーのことである。これによって、砂塵や埃が入
ることを防いだ。逆U字形になっていて、可動部全体をすっぽり
覆った。槓桿を通す穴がついている。動かすと、遊底といっしょ
に動いた。他国の小銃にはない工夫である。おかげで遊底を閉じ
た状態では「三八式」の刻印が隠れてしまう。それでも見分けは
簡単で、万一の事故(薬莢が裂断することなど)のときにガスが
射手に吹き付けないよう小さな穴が2個開いている。

 よく手入れされたボルト・アクションは漫画のように「ガチャ
ガチャ、ジャッキーン」などという音はしない。手入れの良い日
本刀が、構えたときにチャキッなどという音がしないのと同じで
ある。せいぜいシュコンという音がするくらいだ。戦後のリアリ
ティを追及しようといった映像作家たちには悪いが、絵的に、音
声的にリアルに見せたい、聞かせたいというのは事実とは遠ざか
ってしまうといういい例である。

▼弾倉も改められた

 尾筒弾倉式(びとうだんそうしき)がわが小銃に採用されたの
は30年式からである。連発ができるようにするには、上から、
下から、あるいは横から実包を入れるようにしなければならない。
横から装てんするのは管弾倉式の一部のライフルだけだった。こ
れを上から、一気に実包を押しこめるようにしたのがマウザーの
開発した尾筒に弾倉を仕込む型式である。

 尾筒とは薬室の後方にある銃身を閉じている部分をいう。ここ
に仕組まれたのが「函型(はこがた)」弾倉である。固定式と着
脱式があり、多くの国は30年式と同じように固定式5発入りと
いう型式を選んだ。弾倉の位置は引鉄部分に接していて、残弾数
の違いで重心が動かないので照準が簡単というメリットがあった。
22年式村田連発銃のような管弾倉式であると、撃つごとに弾数
が変わり重心の位置が変わってしまう。

 また、装てんに必要とする時間も短く、素早く、慣れてくれば
親指の一挙動で5発を入れることができた。実包5発は挿弾子
(そうだんし)というクリップで1まとめになっている。クリッ
プは使い捨ての消耗品だった。弾倉後部のくぼみに立てて、実包
を押しこむ。弾倉底板には板バネがついていて反発力もあり、実
包は左右ジグザグに2発、3発というように納まった。

 槓桿を前に押すと遊底が閉じる。このとき、役目を終えた挿弾
子ははじき飛ばされる。同時に最上部の実包は薬室に押し込まれ
た。槓桿上部は茄子(なす)形にふくらんだ「槓桿頭(こうかん
とう)」という握りやすくする形状になっている。これは大変堅
いということから、陸軍では柔軟性がない固い頭脳の持ち主を
「槓桿頭」と陰口をたたいたそうだ。

 遊底が前進させられているとき、円筒の中では撃茎が後に残る。
槓桿を右に倒すと撃茎の中のコイルスプリングは圧縮された状態
になる。これで撃発が可能になった。安全装置は30年式の方式
がこの38年式では改良され、尾筒後端の円形の安全子を操作す
るようになっていた。右手の掌(たなごころ)で押しながら左へ
45度回すと、内部機構がロックした。

 この機構も、兵営の内務班のいささかユーモラスな私的制裁の
道具となっていた。「鼻に安全装置をかける」といい、被害者は
直立不動、制裁をする上級者が思い切り掌を鼻に押し付けて左に
ねじった。痛いし、涙は出るしと体験者は語り残しているが、周
囲から笑いも出たというから、安全装置をかける動作にたとえた
ユーモラスな制裁だった。

 この弾倉の底板(ていはん)にはバネがついて、下から押し上
げる圧力になる。30年式では針金を使っていたが、38年式で
は板バネ(毛抜き型)にされた。底板を外すのは簡単で、用心鉄
(トリガーガード)内部の出っ張りを押すことで実行できた。戦
闘が終わった後の弾倉からの「抜弾(ばつだん、たまぬき)」は
安全管理上、とても大切なことであり、その実行はうるさく徹底
されていた。

▼ボルト・アクションの操作と連発

 小銃は右肩にあてて射撃動作を行なう。槓桿を操作し、実包を
装てんし、排莢し、再装てんする。この一連の動作をきっちりと
肩につけたまま行なうのは難しい。やはり1発ごとに肩から外し
て槓桿を操作するしかない。だから、のちにM1ライフルのよう
な半自動装てん式と比べて発射速度が遅いからだめだったと戦後
に非難された。「アメリカ軍は連発だろう、こっちはカチャパン、
カチャパンだ。負けて当たり前だ」という言い方は、軍隊経験者
もそうでない人もよく言っていた。

 ある高名な文学者は、防衛大学校の学生たちにその講話の中で、
科学的精神を軽視するなと38式歩兵銃を例にして語ったほどで
ある。自らも大東亜戦争末期に学生生活を送り、無駄な軍事教練
を受けさせられたと語った。その上で、長大な銃剣格闘重視の歩
兵銃、時代遅れの槓桿式と陸軍装備をあざけり、明治の小銃で第
2次大戦を戦ったという戦前日本の後進性を非難したのである。
これが実は戦後の「誤った定説」であることはすでに30年式歩
兵銃の稿で述べた。明治時代に開発された小銃で戦ったのは、ア
メリカ以外の大国の軍隊、みんなだったからだ。

 もともと当時の歩兵用の小銃は、300から400メートル以
内という距離の撃ち合いが想定されている。肉眼で敵兵を見分け
られる限界がその距離である。地上から1000フィート、約3
30メートルの東京タワーのてっぺんを地上から見上げてほしい。
そんな遠距離での狙撃威力を高めるために、銃腔内の施条も旋転
(せんてん)の度合いを工夫し、弾の長さや形態も工夫されてき
た。中長距離では半自動式であろうとなかろうと、じっくり照準
して的に当てようと思うなら、射撃ごとの照準直しは当たり前で
ある。

 狙撃にはボルト・アクション・ライフルがもっとも向いている。
それは、現在の軍隊でも狙撃兵の多くが槓桿式小銃を使うことで
もわかる。そもそも槓桿式には大きく動く撃鉄がない。引鉄を絞
れば、すぐに撃針が前に進み実包の底部の雷管を打つ。要は銃の
ブレを最小限におさえることができるのである。

 半自動銃も槓桿式銃も、撃発すれば銃口が跳ねあがり、左右の
ぶれも出るのは同じである。だから、射撃ごとに弾着をよくみて、
じっくりと照準を付けなおすのは当然だった。

 どこの国でも半自動式ライフルに関心をもった。じっさい、試
作品を完成したり、購入したりして実験を繰り返した国も多かっ
た。その結論の多くは、効力には大差がないのに、不慣れな兵員
は無駄弾をいっぱい撃つのではないか、構造が複雑すぎて分解、
修理、手入れが大変だというものだった。

 何より各国の陸軍を困惑させたのは小銃弾薬の消費量だろう。
たとえばM1ライフルは8発入りの特殊なクリップを使った。作
動はガス利用式で再装てんをし、クリップ内の実包を撃ち尽くす
と空のクリップ(正確にはエン・ブロック・クリップという)が
飛び出した。エン・ブロックとはフランス語で、もともとは「ひ
とまとめにして」という意味になる。これにはバネも送弾板も入
っていない。8発の弾をジグザグにきっちりつめてあるだけだ。
たいへんユニークな仕組みになっていた。

 もちろん、単発で1発ごとに引鉄を引くことになる。それでも
1分間に70発以上の射撃ができた。槓桿式では熟練した兵士で
も17発ほどだったらしい。敵前で興奮したふつうの兵士は、お
そらくろくに狙いもつけずに乱射するだろう。それは小銃として
は常識外れの至近距離での撃ち合いにしか役に立たない。

 引鉄を絞りっぱなしで連発できるのはオートマチック・ライフ
ルである。アメリカ軍では分隊ごとに1挺の軽機関銃を配備した。
戦後、自衛隊にも供与されたブラウニング・オートマチック・ラ
イフル(BAR)がそれである。引金を引いている限り、弾は連
発された。そこがセミ・オート(半自動)のM1ガーランド小銃
とは異なるところだった。

 セミ・オートのライフルが有利なのは至近距離の戦いである。
数十メートルという距離なら、弾をばらまける発射速度が高い銃
がいい。ガダルカナルでも、フィリピンでも、多くの島嶼戦闘で
も満洲のような広い平原はなかった。ひどく短い距離で撃ちあい
は起きたのだ。そうであると敵に頭を上げさせないためには発射
速度が高く、ろくに狙いをつけなくても短時間に乱射できるセミ・
オートライフルが有利なことは疑えない。

 そのアメリカ兵の乱射を支えたのは、はやばやと軍馬に見切り
をつけてジープを開発した米国の工業力だった。第2次大戦のど
この国の軍隊でも、馬と騾馬(らば)の背に小銃弾薬は載せられ
ていた。騾馬は馬とロバの一代雑種である。頑丈で、我慢強く、
馬よりも丈夫だった。インパールの英軍の槓桿式小銃に弾薬を届
けたのは山地に強い騾馬だったのだ。

 筆者が子供のころ、昭和30年代のわが国は依然として技術大
国ではなかった。世界中の職人が腕を競う技能オリンピックとい
う国際コンテストがあった。そこで優勝するのはたいてい日本人
だと学校の先生は誇らしげに語ってくれた。

 街をさっそうと走る「ガイシャ=外国産」は頑丈で、そのくせ
優美で高価だった。国産車はよく故障したし、悪路に弱かった。
バンパーにはエンジンを起動するクランクの穴があった。バッテ
リーがあがり、クランクを回してエンジンをかけていた姿が目に
浮かぶ。田舎の悪路では、しばしばアクスル(車軸)が折れてエ
ンコする車を見かけた。戦後10年以上経ってもそんな状態だっ
たのだ。

 アメリカのセミ・オートライフルを支えたのは、その高価(槓
桿式の3倍から10倍)であることを許せた豊かさと、何より乱
射された小銃弾の補給能力の差であったといっていい。

▼外貨を稼いだ38式歩兵銃

 1920(大正9)年の「支那駐屯軍司令部」が作成した情報
報告がある。描いている時代は1916(大正5)年の袁世凱
(えん・せいがい)死去による北洋軍閥の分裂期にあたる。この
武力紛争を安直(あんちょく)戦争という。安徽(あんき)派を
率いる段祺瑞(だん・きずい)と直隷(ちょくれい)派の頭領で
ある馮国璋(ひょう・こくしょう)の2人による軍閥の後継者争
いである。段は日本が応援し、馮のことは英・米が後援した。孫
文(そん・ぶん)は南支那から北伐(ほくばつ)を企画していた
頃でもある。

 その中に明治45(1912)年から大正3(1914)まで
の「支那」の輸入銃についての情報がまとめられている。口径
7.92ミリのドイツ製マウザー1888年式と1892年式が
合計で15万8500挺、同カービン1888年式(騎兵銃)
7万8000挺、フランス製ホチキス機関銃207挺、ドイツ製
クルップ野砲259門、同山砲337門である。

 それが精力的な泰平組合(たいへいくみあい)の活動、1916
年からの世界大戦のおかげで数量もシェアも大きくドイツが後退
することになった。小銃については、わが国が首位となり27万
4821挺を輸出し、シェアは49.4%になった。対してドイ
ツは23万6500挺で同じく42.5%である。他にはオース
トリアが2万5000挺(4.5%)、イタリアが1万挺(1.8%)、
フランスが8000挺(1.4%)にロシアが2500挺(0.4%)
という順位になっている。合計が55万6821挺になった。

 機関銃になるとわが国が392挺(60.9%)、ドイツ20
7挺(32.1%)、アメリカ30挺(4.7%)、オーストリ
ア15挺(2.3%)の合計644挺である。火砲になると、日
本749門(55.7%)とドイツ596門(44.3%)だっ
た。合計は1345門にのぼる。いずれもわが国はドイツよりも
中国に火器を売り込んでいることがわかる。

 1917(大正6)年以前では、村田銃などの旧式歩兵銃を3
万9180挺、旧式化した30年式歩兵銃を3万6867挺の合
計7万6047挺を輸出している。また、この他に新制式の38
年式歩兵銃も1万挺、支那に渡していた。外国に新兵器を売り渡
していいのかという一般人に対して南部は語る。「軍隊には教育・
訓練の差がある。同じ兵器を使っても、わが国には十分に勝算が
あるのはそこだ」と答えている。

 事実、この大正前・中期の壮丁(そうてい・徴兵検査受検者)
は、その約40%が4年制尋常小学校を卒業しており、さらに約
20%が2年制高等科の修業もしていた。これは当時の、読み書
きができないのが普通だった「支那」の軍閥兵士とは際立った違
いだった。すでに日本兵の教育程度の高さは列国にも知られてい
たが、世界最高水準の知的軍隊だったことは疑えない。

 38式歩兵銃は推定で約20万挺が中国軍閥に売られた。日支
事変(1937年)が始まってから鹵獲した小銃の中に、わが3
8もあったという。

▼諸外国にも送られた38式歩兵銃

 須川氏の調査によれば、1915~17年までの間に英国に3
0万から50万挺の38年式が輸出されたという。これは日英同
盟に基づいた兵器供給であり、英国では本土に置かれた予備部隊、
海軍などで使われた。大戦後には、英国からフィンランドへ再輸
出され、1939年のソビエト連邦軍侵入を撃退した。また、1
2万8000挺がロシアにも送られた。イギリスの海外部隊や機
関でも使われ、高名な「アラビアのロレンス」が手にして戦った
中にも38式があった。フィンランドは1919(大正8)年に
はエストニアの独立支援のために約1万挺をわが国から購入して、
独立勢力に供給する。

 ロシアの革命には当然、反対勢力がいた。赤い旗の赤軍(せき
ぐん)に対して白軍、白系ロシア軍という組織があった。革命に
干渉したシベリア出兵(1918~22年)では、現地で日本軍
と共同作戦を行なった。この勢力におよそ60万挺が提供された。

 メキシコから発注されたのは同国仕様のマウザー実包7ミリに
拡大された約3万6000挺も有名である。遊底の上にはメキシ
コの鷹の紋章が彫られていた。また当時、日本の友好国だったタ
イ国にも口径7.62ミリ、マウザー実包用とした38式の改造
銃が送られていた。全長1090ミリ、重量3500グラム、6
6年式暹羅(せんら)式歩兵銃という。1925(大正14)年
から4年間で小銃が4万3100挺、銃剣4万8199振(ふり)、
弾薬盒などの付属品1万9999個などがタイ国に送られている。 

 このように輸出総量ではおよそ150万挺近い数になるが、再
輸出による二重計算や、30年式、あるいは35年式海軍銃など
も含まれるようである。そこで須川氏は、新製造された38式歩
兵銃はおよそ100万挺が輸出されたと推計されている。

 それにしても、強力なマウザー7.62ミリ実包用に改造して
も使用に耐えたという38式歩兵銃の頑丈さにも注目したい。そ
の優秀さと、堅牢さについては第2次大戦後のアメリカの公式機
関のトライアルでも、マウザー小銃やスプリングフィールド小銃
の機関部が破壊されるような実験が行なわれ、38式だけは無傷
だったともいう。

▼蛋形(たんけい)弾から尖頭(せんとう)弾へ

 38年式の実包と30年式の実包とは一目で分かる違いがあっ
た。それは蛋系(ラウンドノーズ)といわれた先が丸い弾頭が、
先端が尖り、後部はすぼまる形(ボート・テイル)に変わったか
らである。「蛋」とはもともと卵を意味した。卵は丸みを帯びて
いるからその形から名付けたものだろう。先込め式の時代はまさ
に「弾丸」というように飛翔体は球形で丸かった。過渡期のミニ
エー弾はドングリのようになった。続いて登場したのが蛋形弾で
ある。

 便利な自己完結型弾薬が発明されると、金属薬莢にはめ込まれ
る弾頭は蛋形になって長くなった。これは弾丸断面荷重(セクシ
ョナル・デンシティ=SD)という理論の実現化である。SDは
弾重(ポンド)を最大断面積(平方インチ)で割ることで求める。
この数値が大きいほど弾速は低下せず、威力は保たれ、直進性が
高くなる。口径を小さくしても断面積が大きく、重量もある弾な
ら速度も落ちずに威力が保たれたまま直進しやすいということで
ある。

 そのためには、先端を丸くした鉛の弾頭の口径を小さくする。
その代わりに円筒形にして全長を伸ばせば、断面積もかせげて重
量も増すということになる。30年式歩兵銃に使われたのは、こ
の小口径(6.5ミリ)蛋形弾である30年式実包だった。弾重
は10.4グラムである。同じころ1903(明治36)年にア
メリカ軍が採用した30-03スプリングフィールド実包(口径
7.62ミリ)も同じ蛋形弾で弾重は220グレイン(1グレイ
ンは0.0648グラムだから14.08グラム)である。

 さらに弾は進化する。無煙火薬や飛翔中の空気抵抗や腔綫(ラ
イフリング)、発射後の鉛の残渣(ざんさ・かす)などの研究が
深まり、薄い金属(主に銅)でカバーした尖頭弾(スパイアー)
が主流となった。尖っていた方が空気を切り裂きやすくなり、速
度が落ちにくい。また後部の胴体の形状も上から見てボートのよ
うにすぼまった方が空力上で有利である。これをボート・テイル
型という。アメリカ軍も1906年には尖頭弾30-06を採用
した。この弾重は180グレインだから11.66グラムとなっ
た。

 同じように38式歩兵銃と騎兵銃も、尖頭の40年式実包を採
用した。弾重は30年式の10.4グラムから9グラムと軽くな
り、またまた省資源化に貢献することになった。



(以下次号)


(あらき・はじめ)
 
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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
 
 
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