こんにちは。エンリケです。
陸軍小火器史の十七回目。
先日、ヨルダン国王から安倍首相に
帝国陸軍の99式軽機関銃がプレゼント
されました。
それを受けて先週末は、
11式から96式そして99式という
わが軽機の歴史を振り返っていました。
この連載を読んでいると、
その種の話に敏感になって、
国史への真の興味が湧いて来る気がします。
泰平組合の話も実に興味を惹かれますね。
詳細な内容を知りたいものです。
面白いですねえ。
エンリケ
■ご支援おねがいします
松本零士先生も応援する
「95式軽戦車を取り戻す計画」
他の国には当たり前のようにあるのに、
なぜかわが国にはない戦車博物館を設立するために
奔走している呼びかけ人の方とともに、わが軍事の
夢を叶えませんか?
目標まではまだまだ。
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陸軍小火器史(17)
─3年式重機関銃─
荒木 肇
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▼機関銃は頼りになった
防衛研究所所蔵の『明治37・38年戦役死傷別統
計』によれば、歩兵の戦死者の83.1%は銃創、つ
まり機関銃や小銃で撃たれた。戦闘は野戦と要塞戦に
分けられるが、野戦では11万3559人(84.4%)
が銃弾に倒れ、砲弾創は14.2%、白兵創はわずか
1%、爆創(地雷や、手投げ弾などの炸裂する爆発物
による創傷)は0.4%にしか過ぎなかった。要塞戦
でも、銃創が67.7%、砲創は12.3%、爆創が
8%、白兵創にいたっては0.8%にしかならない。
ロシア軍は正確な記録を残していないが、銃弾によ
る傷が同じように多かったことが想像できる。戦闘が
終われば戦場掃除が行なわれた。遺棄死体や動けない
負傷者を収容するが、その場合も銃で撃たれた敵兵が
多かったのである。日本軍の場合は機関銃によるもの
が多かった。とりわけ旅順要塞や、野戦築城された陣
地から撃ちだされたロシア軍機関銃からの被害が多か
ったのである。
興味深いのは、この報告書では、死傷の原因の変化
を日清戦役(1894~5年)、北清事変(1900
年)そして日露戦役(1904~5年)で比較してい
ることだ。結論は、銃創が減り、砲創が増えているこ
とを指摘している。つまり銃創は88.3%から
79.7%に減り、逆に砲創が9%から16.9%に
増えていた。野戦でも明らかに砲弾による被害が増え
ていくことを示している。しかし、だからといって機
関銃や小銃の地位が決定的に下がったわけではなかっ
た。
歩兵にとって機関銃は頼りになる。撃たれれば、発
射音がしている間は誰も頭を上げられなくなる。味方
の機関銃が掩護にまわれば、勇気も百倍になったと経
験者の手記にもある。逆に味方の機関銃の発射音がな
くなると、士気は阻喪(そそう)し、指揮官の声に応
じて前へ進もうとする者もひどく少なかったという。
戦争中、砲弾はいつも足りなかった。榴霰弾がいく
ら敵陣に降り注いでも敵の掩蓋はつぶれない。効果が
あった榴弾は生産数も少なかったし、配付する割合も
榴霰弾の方が高かったのだ。ただし、機関銃弾が足り
なくなることはなかった。小銃弾と共通だったし、機
関砲隊は独自の弾薬馬をもっていたから補給が滞るこ
ともなかったのである。
1904(明治37)年6月の「得利寺」の戦闘で
は、第1騎兵旅団の第1繋駕機関砲隊が2300メー
トルの距離からロシア歩兵の密集縦隊に対して射撃を
開始した。このことは当時、初めて行なわれたことだ
った。陸軍歩兵戦術訓練・教育を行なったのは戸山学
校(現東京都新宿区)だったが、敵前2000メート
ルでは密集隊形で前進し、同500~600メートル
を決戦射撃距離とする戦法を守らせていた。
ところが、3000メートルくらいから野砲の榴霰
弾が隊列を襲った。1000メートルに近づくと機関
銃で射撃をされるようになった。『日露戦史』によれ
ば、歩兵第42聯隊(山口)は敵前1200メートル
で疎開隊形をとらざるを得なかったと報告されている。
1500メートル以内では、機関銃の有無が勝敗に大
きな影響を与えたのだった。
また、連続発射による弾薬の消費が大きいのではな
いかという声に対して、戦場心理から説明があった。
「敵が前進してくると歩兵銃手の緊張と動揺は大きく
なってくる。まず、小銃は当たらなくなり、その点、
冷静な器械である機関砲は照準にすぐれ、結果的に無
駄弾は少なくなる」と説明された。
ただ、ホチキス機関砲を改良した38式機関銃は故
障が多かった。同時に、冷却が不足して銃腔内の摩耗
がひどく、銃身の命数が1万発ほどしかなかった。弾
着はちらばり、命中精度がひどく落ちた。こうした欠
点を克服する改良された機関銃の開発が検討された。
▼大きく外観も変わった3年式重機関銃
日本軍の重機関銃といえば、放熱用のフィンがつき、
左から保弾板が差しこまれ、重厚な音がする。味方に
とってはその「ドッ、ドッ、ドッ」という発射音がた
いへん頼もしかったとされている。太平洋戦線のアメ
リカ軍からは、その発射速度の遅いことから、「ウッ
ドペッカー(啄木鳥・きつつき)」とからかわれたと
いうが、その威力についてはかなり恐れられていた。
たしかに発射速度が遅いと敵に前進する機会を与えて
しまう。発射速度の増減は遊底の重さや複座バネの力
の調整で行なわれたが、450発/分というのは機関
銃としては珍しく遅い。やはり、排莢不良、ジャムを
恐れた結果だろう。
機関銃は火砲と違って、まだ銃身内部の腔圧がひど
く高いときに薬莢を引き出さねばならない。前にも説
明したが、スムースに装てん、撃発、抜莢、蹴出を行
なうには、微妙かつ精密な薬室や遊底まわりの形状、
寸法の工作が必要である。なかでも薬室経始(テーパ
ー)とヘッドスペース(頭隙、とうげき)が決め手に
なった。
薬室に弾薬が入って、ボルトで押さえられる。弾薬
は後退も前進もできなくなる。薬莢のある部分が薬室
のどこかの部分につかえて前進できなくなるのだ。こ
のときに薬莢が薬室につっかえている位置と、弾薬を
押さえているボルトの先端(ボルト・フェイスという)
との間隔、距離のことをヘッドスペース(頭隙)とい
う。
この頭隙には、微妙な公差、つまり「ゆとり」が設
けられる。このゆとりが全くないと異物、たとえば目
にも見えない砂塵などが入ると遊底は完全に閉じ切ら
ない。無理に閉じれば、腔圧が異常に高まって銃身や
機関部が破裂することもある。逆にゆとりがありすぎ
ると撃針が薬莢の底につけられた雷汞(らいこう)に
届かない、また打撃力が不足するといったことで撃発
ができない。そして薬室内の高温のために薬莢が膨張
し、薬室に貼りついてしまう。薬室のテーパーと弾薬
のヘッドスペースが、滑らかな作動に大きく関係する
ことが分かるのは、まだだいぶん後のことである。
陸上自衛隊富士学校に作動可能な3年式機関銃があ
る。口径6.5ミリ、全長1204ミリ、銃身長72
6ミリ、銃本体重量26.6キログラムで、三脚もつ
けた銃全備重量が55.4キログラム。銃のカバーも
あった。牛革製で銃を覆うことができた。その重量は
1.3キログラム。
伏射姿勢で高さが375ミリ、膝射姿勢では555
ミリ。また三脚架の先は「棍(こん)」を差しこむ環
がついており、前方に2本、後方に1本の脚がある。
2キログラムの重さがある「後棍(こうかん)」は後
部の脚に差しこまれるとU字の形になり、2人で持つ
ことができ、合計4人で「臂力搬送(ひりきはんそう)」
を行なうようにもなっていた。
この機関銃には装薬を減らした専用実包があった。
38式小銃実包の装薬2.14グラムを2.05グラ
ムに減装することで、後方への反動を減らし、ガス量
もまた少なくしたのだ。これではせっかくの威力も少
なくなり、弾の低伸(ていしん)性も損なわれたのだ
が、おかげで薬莢がちぎれるような事故も少なくなっ
た。また実用上の制限、200発/分を守っていれば
銃身交換の必要はなかった。
もう1つの解決策は伝統となった「塗油」である。
保弾板挿入口の上部に油壺と塗布用のブラシをつけて
いた。蓋状(前方に軸がある)の板をあげると、少し
も欠けていない短いブラシがみっしりと植わっている。
実包は密着してこの下を滑るから薬莢にきっちりと油
を塗ることができた。
引鉄(ひきがね)方式は、のちの92式重機関銃の
左右の親指で押す「押し鉄(おしがね)」式と違って、
左右の人差し指で引く。銃尾には2本の木製の左右同
形の把握部があり、縦の長さは120ミリ、間隔も
120ミリで当時の兵士の手の大きさに合っていたの
だろう。照準装置は銃身の右側にずれている。照尺は
遊標(ゆうひょう・可動式の標尺)を前方に滑らせて
いくと上へもちあがる。これは接線方式あるいはタン
ジェントともいう独特な方式である。照尺は2200
メートルから300メートルまで、縦100ミリの板
の左右に数字が刻まれていた。
銃身交換は銃身基部をおおう環をゆるめることで、
交換銃身を装着できた。放熱する鰭(ひれ)は25枚
もある。また外部に露出した銃身にも細かい鰭があっ
た。ただの棒状ではない。工作の細やかさを感じさせ
るものである。
機関部左側の保弾板挿入口には転輪部分(ローラー)
がある。銃尾下部の槓桿を右手で手前に引くと、ロー
ラーがおりてくる。左側の排莢口が同時に開く。また
活塞(かっさい、オペレーティングロッド)が後退し、
銃身の下にある活塞筒(チェンバー)から顔を出した。
油缶には300グラムほどの油が入れられていた。
2000~3000発の実包に塗られた。実包の送り
は、組み合わされた板が活塞の運動により横に動く往
復送り(シャトル)様式であり、ホチキス機関砲のよ
うな歯車式と違っていた。
▼散弾銃のような狙撃銃
三脚架に装着されている機関銃は前面に付いている
直径12センチの転把(てんぱ・円形ハンドル)を回
すことで高さが調節できる。左右の振りは右手で方向
緊定桿(きんていかん)というレバーを上に上げると
自由に動いた。角度は60度までの刻みが鉄板に付け
られている。レバーを下にすれば固定される。銃口の
上下も機関部左側の緊定桿を操作することで自由に選
べた。
この優れた固定機能が3年式機関銃を「散弾銃のよ
うな狙撃銃」にしたという。兵頭二十八氏によって、
そのメカニズムが解説されている。上下も左右も固定
された機関銃は連続発射しても、その発射反動はすべ
て重量が引き受ける。理論上、弾道はすべて同じで、
一点に弾着は集中するはずである。ところが、実際は
そうはならない。
なぜなら実包ごとに、工場での装薬充てん量の微妙
な違いや、燃焼速度の差があるからだ。また射撃を重
ねることで銃身は熱せられ、微妙な変化がある。その
ため連射すれば、まるで網をかぶせるように左右縦横
に被弾面が広がったのだ。600メートルの射距離で
は、たとえていえば弾着パターンが広がる散弾銃のよ
うに敵を捉えるわけだ。
▼「貧国弱兵」
明治末期から大正、昭和初期のわが国は「貧国弱兵」
だった。そう著作に書いたのは中原茂敏(なかはら・し
げとし)陸軍大佐である。大佐は陸士第39期生、砲
工学校高等科から東京帝大工学部の員外学生として学
び、軍務局軍事課員、大本営兵站総監部参謀、企画院
調査官、敗戦時には第15方面軍参謀として軍歴を閉
じた。主に後方兵站関係の担当者だった。
1989年に原書房から『国力なき戦争指導』とい
う本を出された。帝国陸海軍の戦争計画の場当たり性、
組織の欠陥などを鋭く説かれている。その中に明治以
来の「富国強兵」の真反対の実態を表すとして使われ
たのが「貧国弱兵」という言葉だった。それを具体的
に見てみよう。
1907(明治40)年から11年までの5年間の
合計で、陸軍予算は5億7000万円、海軍は4億円
だった。11年にはほぼ同額の陸海軍それぞれ約1億
円。国家予算全体のおよそ36%ほどである。
世界大戦の結果を見て、海軍は八八艦隊、8隻の戦
艦と8隻の巡洋戦艦という大主力艦隊を建設しようと
考えた。1920(大正9)年には初めて予算化され、
大正16年に完成させるということだった。1927
(昭和2)年には軍事費が4億9100万円、内訳は
陸軍2億1800万円、海軍2億7300万円で、総
国家予算の28%を占めて、国民所得比の4.2%と
なっていた。
ところがわが国の工業生産の内訳を見れば、重工業
国家への道のりはまだ遠かった。重工業対軽工業の生
産額の比率は、明治40年に33:67、大正末年に
37:63、昭和7年にようやく45:55になって
きていた。鋼材生産量も、明治の末には20万トン、
大正半ばに60万トン、昭和初めには150万トンと
伸びてはいたが、まだまだ欧米並みとはとてもいえな
かった。
機関銃隊を平時陸軍部隊の編制に初めて入れたのは
1917(大正6)年のことだった。1個歩兵聯隊に
1隊(6銃)ずつの配当である。師団は21個、歩兵
聯隊は4×21、84個と台湾駐屯歩兵2個聯隊の合
計86個である。歩兵聯隊は3個大隊(各4個小銃中
隊)の合計12個小銃中隊に1個の機関銃隊を含むこ
とになった。定員表には、大尉1、中・少尉・准尉4、
特務曹長1、曹長1、軍曹・伍長9、上等兵17、
1等卒34、2等卒68、上等看護兵1の合計136
名となっている。ここにある准尉とは昭和期の准尉と
ちがって、少尉相当官の階級をいう。特務曹長がのち
の准尉である。
ただし年に9個隊しか編成されなかった。大正15
年度までの10カ年で改編する計画だった。当初は3
8年式機関銃、大正8年からは3年式重機関銃が配当
されるようになった。
▼輸出もされた機関銃
わが国には泰平(たいへい)組合という兵器輸出団
体があった。1908(明治41)年6月、三井物産、
大倉商事、高田商会という3つの会社が共同出資して
起こした会社である。もとから三井物産は明治の頃、
英国ヴィッカース社の代理店だった。高田商会も英国
アームストロング社の代理店、大倉商事はドイツのク
ルップ社とつながりをもっていた。
泰平組合は、まず余剰兵器、つづいて新兵器につい
ても輸出を目指した。日露戦後には多くの新兵器が制
式化された。38という年式がついたものがそれらに
あたる。歩兵銃、騎兵銃、野砲、12糎榴弾砲、15
糎同、10糎加農などである。ということは30年式
歩兵銃や騎兵銃、30年式速射野砲、同山砲などは払
い下げが可能になった。当座の輸出は中国に指向され
た。中国は長い間のドイツとの付き合いがあり、国内
情勢の不安定のおかげで、いつも兵器不足だった。そ
のドイツ製兵器の牙城に、果敢に挑んだのが泰平組合
だったといえるだろう。
この泰平組合が海外向けに作ったカタログがあった。
『日本陸軍兵器資料集―泰平組合カタログ』(宗像和
弘、兵頭二十八、1999年、並木書房)は宗像、兵
頭両氏の力作である。そこから3年式機関銃について
の記述をみてみよう。
弾薬箱は歩兵用の甲と騎兵用の乙があった。甲は保
弾板入りの紙函が18個、540発入った。乙は25
個入りで弾数750発になる。真鍮製の保弾板は13
5グラムで、30発をつけ紙函に入れると830グラ
ムになった。したがって甲に入る弾薬の重量は14キ
ロ940グラムである。木製の箱の重さと合わせて1
9キログラム。この4箱を駄馬の背に載せた。
運ぶ箱はさらにあった。属品匣(ぞくひんこう)と
いう。分解器、スペアパーツ、工具、洗桿(せんかん)
などを収める箱になる。重量は5.753キログラム。
これは1個分隊(1銃)ごとに配付された。
これに対して大きい器具箱があった。1個機関銃隊
に1組である。したがって6銃で共同使用となった。
歩兵隊用の甲、騎兵隊用の乙、左右2個で1組とした。
左箱の入組品(いりくみひん)は保弾板修正器、万
能ハサミ、万力(まんりき)、金剛砥(こんごうし、
研磨用のザクロ石の粉末を固めた)などの工具類。そ
れに脂肪缶3個(ワセリン1300グラム、複合脂6
50グラム)、油缶5個(常用鉱油2800グラム、
石油700グラム)、携帯測遠器1台である。
右箱には、第一予備品匣2箱(円筒、撃茎、抽筒子、
蹴子などの予備品)、第二予備品匣1箱(撃茎、表尺
板、送弾子坐、槓桿発条などの予備部品)、脂肪缶3
個、油缶5個などである。重量は25キログラムで、
これに予備銃身3本が付けられた。布でくるまれて器
具箱といっしょに駄載された。
これらを軍馬の背に縛着(ばくちゃく)した駄鞍
(だあん)に装着していった。鞍は銃鞍と箱鞍に分か
れ、それぞれ重量16.2キロになった。銃鞍は左側
に銃身、右側には三脚架と属品匣を載せた。機関銃1
個分隊は班長の下士官、射手の上等兵、弾薬手などの
1、2等卒で合計12名である。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
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