配信日時 2019/02/20 09:00

【陸軍小火器史(15)】─騎兵装備用の国産第1号拳銃「26年式拳銃」─ 荒木肇

こんにちは。エンリケです。

陸軍小火器史の十五回目。

松本零士先生も応援する
「95式軽戦車を取り戻す計画」
が進んでいます。

この計画の呼びかけ人の
NPO法人「防衛技術博物館を創る会」代表・小林雅彦さんが
実に魅力的です。

こういう軍事ファンでありたいと思わせられます。

他の国には当たり前のようにあるのに、
なぜかわが国にはない戦車博物館を設立するために
奔走する氏とともに、わが軍事の夢を叶えませんか?

荒木先生もおっしゃるとおり、

<貴重な軍事技術史、車輛技術史の大切な史料を取り戻した
いものです。>

目標までまだまだです。
あなたのお力が必要です。
https://readyfor.jp/projects/type95HA-GO



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 陸軍小火器史(15)

 ─騎兵装備用の国産第1号拳銃「26年式拳銃」─
  
 荒木 肇
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□お便りへのお礼

 YH様、またまた嬉しいお便りをありがとうございます。30
年式銃剣の鞘には、先端に円い球状のふくらみがある物がありま
す。おそらく、鞘をかぶせて実銃で、銃剣格闘の訓練をした名残
ではないかという説もあるそうです。また、陸軍初期にはスナイ
ドル銃で着剣した状態で型稽古をしていたと聞いています。「短
剣道」との関係も、貴重なお話とともに勉強になりました。あり
がとうございます。

 MM様、松本零士さんの戦場シリーズでしたか。さまざまな日
本軍兵器が登場したことを覚えています。その中のご指摘ですが、
インパールでの英軍は、おそらくSLMEの更新として1939(昭
和14)年末から量産が始まったNo.4 Mk.1ライフルだったのでし
ょうか。ボルト(遊底)のロッキング・ラグ(噛み合わせ用突起)
のバランスに改良が加えられたそうですが、それ以前のタイプだ
と、遊底が重いという苦情があったといいます。いずれであれ、
遊底覆がついた38式小銃は故障も少なく、作動も良かったと理
解しています。

□お知らせとお願い

 「戦場のポニー」といわれた陸軍九五式軽戦車の里帰り計画をご
存じでしょうか。この運動がいよいよ本格化しました。長い付き
合いの畏友、御殿場市かまどに株式会社カマドの社長であり、N
PO法人「防衛技術博物館を創る会」代表の小林雅彦氏の呼びか
けです。当時のエンジンで走る、世界的に貴重な1台が現在英国
の好事家の手にあり、それを入手しようという計画になります。

 南洋のミクロネシア連邦ポナペ島に眠っていた同車は1981
(昭和56)年にわが国に還ってきました。86年から京都嵐山
美術館に展示され、91年に南紀白浜ゼロパークに移管されまし
たが、同館の閉鎖にともなって、2004年に英国人に買われて
しまいました。

 英国人も大切にしてくれて、10年以上にわたって修復作業を
してくれました。現在、エンジンは軽快に作動しています。これ
を何とか生まれ故郷のわが国に還せないかということで、相手か
らのオファーは約1億円です。それから寄付金を集める苦労が始
まりました。

 ようやく、インターネット上のクラウドファンディングもスタ
ートしました。4月末までが開催期間です。
https://readyfor.jp/projects/type95HA-GO

ぜひ、貴重な軍事技術史、車輛技術史の大切な史料を取り戻した
いものです。ご関心のある方は、特定非営利活動法人・防衛技術
博物館を創る会のHPもご検索ください。

NPO法人 防衛技術博物館を創る会
http://www.tank-museum-japan.com/


▼無煙火薬を使ったリボルバー「二六年式拳銃」

 ダブル・アクション、つまり撃鉄を親指で押しあげる必要がな
く、引鉄を絞るだけで輪胴(シリンダー)が回転し、撃つことが
できる。制式化は1894(明治27)年9月、以来1925
(大正14)年までに約6万挺が造られたという。もとは騎兵幹
部用のサイド・アーム(副武装)であり、騎兵科将校と同下士に、
つづいて憲兵科将校に支給された。騎兵兵卒は騎兵銃と騎兵刀で
武装する。

 軍用拳銃だから決して軽くはなく、口径も9ミリである。リボ
ルバーであるのは、当時の列国の自動拳銃では威力が少なかった
からだろう。騎兵同士の遭遇戦や襲撃のときにはシングル・アク
ション(1発ごとに撃鉄をあげる必要がある。引鉄も軽く、精密
な照準も可能である)より、速射、連射できる方が有利と考えら
れたからである。10メートルもない、接近戦でせいぜい5~6
メートルの敵に当てればいいという考えからだ。フランス騎兵の
拳銃戦闘訓練では「敵の身体に押しつけるようにして撃て」とい
われていたという。

 外観の特徴は、ダブル・アクション専用なのに有鶏頭(ゆうけ
いとう)という型式でハンマー(撃鉄)が露出していることだ。
シングル・アクションならば、親指で撃鉄を引き起こすために指
掛けがついている。それがないから、サック(拳銃嚢)から抜く
ときに引っかかることがなかった。

 全長は260ミリ、銃身長120ミリ、高さは130ミリ。頑
丈なフレームが大きく見える。重量は927グラムもある。それ
でも「一番型」といわれた、銃身長165ミリ、弾丸口径11ミ
リ、制式拳銃S&WのNo.3リボルバーよりも350グラムも軽
かった。構造は「中折れ式」である。フレームの上端をおせば、
銃身は下に向きシリンダー(6つの穴があいている)が全体を見
せる。現在のリボルバー拳銃の弾倉(シリンダー)は、ほとんど
が横に降り出すスイング・アウト式である。これに対して銃を折
るようにして弾倉を出すのでテイク・ダウン方式という。

 フレーム内の構造はきわめて簡単で、左側のサイド・プレート
を開けると見ることができる。開ける道具は不要。撃鉄とハンマ
ー(逆鉤)、撃鉄バネ、支槓(しこう)と押槓(おうこう)、引
鉄(ひきがね)という少ない部品でできている。支槓というのは
シリンダー(輪胴)を回すためのアームであり、押槓は回転を止
めるための部品である。

 頑丈な構造のおかげで、たとえ馬上から落としても壊れない。
また、道具がなくても修理・点検が容易であり軍用にはとてもふ
さわしかった。照星は大きく、半月形で2段になっている。照門
はフレームへの切れ込みである。グリップは後ろから見て、左右
対称ではない。左側はメイン・スプリングが入っているから厚み
がある。凝った造りは他にも見られる。引鉄を保護する用心鉄の
外側には網目(あみめ)模様が刻まれている。馬上での取り扱い
についての配慮だろう。

▼口径9ミリの実包

 実包は9ミリのセンターファイアで、わが国独自の設計である。
弾頭は「陸軍省大日記」によると重量9.8グラムの鉛だったが、
1899(明治32)年にハーグ平和会議の宣言で、ダムダム弾
などが禁止されたことをうけて弾頭すべてを覆うフルメタル・ジ
ャケットになった。無垢の鉛は『不必要ナ苦痛ヲ与フベキ兵器』
にあたることから、軍用拳銃弾も銅などで覆うことになった。こ
れがフルメタル・ジャケットである。

 陸上自衛隊練馬駐屯地には、ニッケル・メッキの白銀色の26
年式拳銃がある。グリップは山毛欅(ぶな)の材で美しい。引鉄
の動く幅が小さいので、だいぶ力が要る。引鉄の動きは「軽い・
重い」と表現するが、かなりの重さに感じる。弾丸の初速は23
0メートル毎秒だから、当時の拳銃としてはふつうになる。

 この9ミリ弾は低威力だったとされる。全長は30ミリ、薬莢
径9.8ミリ、リム1ミリ、全体重量は13.2グラムである。
被銅された弾頭重量は9.8グラムだから、たとえばロシアのナ
ガン拳銃(7.62ミリ)弾の弾頭重量6.29グラムより圧倒
的に重い。ナガン拳銃はロシア革命で、妖僧といわれたラスプー
チンに6発を撃ちこんだことで有名である。この初速は
326.1m/秒だった。

 威力の大きさを運動エネルギーの大きさと結びつけると分かり
やすくなるようだ。弾頭の運動エネルギーは重量と速度の2乗に
比例する。ただし、専門家の多くはこの運動エネルギー=威力と
は単純に認めなかった。そこで、弾頭の客観的パワーを求めるジ
ュールという計算が現在では主流になっている。

 ジュールの計算式は(速度の2乗・m/秒)×(重量・グラム)
÷2000で求めることができる。

 26年式は(230×230)×9.8÷2000=259.21

 ナガン拳銃は(326.1×326.1)×6.29÷200
0=344.44
という数字が出て、たしかに口径こそ9ミリだが、ジュールでは
約75%ということになる。

 さらに比較のためにジュールの話を身近な例であげる。硬式野
球のボールは同じ計算式でジュールを求めれば、重さ145グラ
ムで速度140キロ/時で計算すれば110ジュール。現在の軍
用拳銃で使われる9ミリ・パラベラム弾は8グラムで350メー
トル/秒だから490ジュールにもなる。ちなみに、軍用ライフ
ル弾の代表、64式小銃でも使われている7.62ミリNATO
弾は9.5グラムで840メートル/秒だから3352ジュール
にもなってしまう。ライフル弾の強力さがよくわかる。

 また、別のもっと異なる角度からの意見もある。銃器研究者で
あり陸上自衛隊出身の、かのよしのり氏によれば、「その動物の
体重に『キログラムフォース・メートル(kgf・m)』をつけた運
動エネルギーが、その動物を倒すのに必要な標準エネルギーであ
る」という見方もあるという。

 Kgf・mは、(弾丸の質量×速度の二乗)÷(2×9.8)で
求める。

 そうであると、26年式拳銃弾は、0.0098×230×2
30÷(2×9.8)ということになる。計算すると、26.4
5という数字が出る。同じくナガン拳銃弾は34.12である。
現用の9ミリ・パラベラム弾は同様に50と求められる。いずれ
であれ、70キログラム以上の人体を止めるにはやや不十分なの
だろう。

 こうしてみると、威力が低いかどうかは状況や相手次第という
ことになり、一概にダメな拳銃とは決めつけられないことが分か
る。

▼兵器工業の端境期

 残念ながら日露戦争では使われる場面が起きなかったらしい。
乗馬騎兵戦はほとんど起きなかったのだ。よく知られているよう
に、わが騎兵旅団は「乗馬歩兵」として、機関砲の掩護下によく
戦ったといわれる。騎兵の主武器は30年式騎兵銃であり、ホチ
キス繋駕機関砲が騎兵砲の代わりに、コサック騎兵を撃退し、ロ
シア歩兵を撃ち倒したのである。

 では、歴史上でどのような場面で26年式拳銃は登場するか?
 それは日露戦前の東京砲兵工廠のいわゆる「端境期(はざかい
き)」である。このリボルバー拳銃は清国に輸出されて、外貨を
獲得していたのだった(『日本軍の拳銃』)。この一部軍事史専
門家にはよく知られている「端境期」について説明しておこう。

 陸軍が新兵器を制式にすれば、その調達数が明らかになる。新
装備ですべてが更新されるまで、砲兵工廠では生産計画を立て、
陸軍省が示した期日までに全数を納入し終わらねばならない。日
露戦争まで、陸軍はいつも規模を大きくしてきた。師団数だけで
も日清戦争(1894~5年)は近衛も含めて7個で戦った。そ
れが戦後には、1896(明治29)年から第7から同12まで
の6個師団、騎兵2個旅団、砲兵2個旅団、そして台湾に混成3
個旅団を増設することにした。

 兵器の製造数はうなぎ登りである。新型の30年式歩兵銃、同
騎兵銃、そうして31年式野砲、同山砲、そのた附属品などの製
造で工廠は大騒ぎになった。兵器の性能も向上しているから、工
程数も増え、次々と機械設備と工員を砲兵工廠では増やし続けね
ばならない。そのための予算手当ては陸軍省が行なう。しかし、
その生産予定期間が終わったとたん、工廠にはまるで仕事がなく
なってしまうのである。そうして工廠を維持する経費も、翌年か
らバッサリと削減された。

 問題はそこから起こった。熟練職工の退職である。当時のわが
国には、ごくごく一部しか終身雇用などという考えはなかった。
年金も退職金も、保険もなかった時代である。腕一本で世の中を
渡っていく人も多かったし、職人や職工という人たちは、よりよ
い待遇を求めて職場を渡り歩くのがふつうだった。工廠を辞めて
も、民間企業は大喜びで採用した。性能の低い中古の外国製工作
機械を使いこなして、なんとか外国製兵器と立ち向かう武器を造
っていた腕前だったのだ。

 社会の仕組みは、現在とはまるで違っていた。ほんのごくわず
かの高等教育を受けた人、少数派の中等教育を受けた人、そして
多くの初等教育しか受けていない人々の生活の差は大きく、その
外側にはさらに多くのろくに学校教育を受けていない人たちがい
た。初等の教育を受けただけ、あるいはそれも不十分な人たちの
中では、熟練職工の稼ぎはたいへん大きく、豊かな生活を送る人
も多かった。のちの話になるが、海軍が新しい軍艦を大量発注し
た昭和戦前期の工廠と軍港の町、広島県呉では「職工の奥さま、
士官のおかみさん」という言葉があったほどだそうだ。

 熟練職工はいつも決まった数だけいなければならない。戦時増
産、あるいは戦期は新式兵器の発注があっても、素人工員はすぐ
集められる。ただ問題は熟練工員を抱え続けることだ。日露戦前
の端境期はまさに、開戦数年前に起きた事態だった。逆にいえば、
それほど30年式小銃は十分生産されていたことになる。

▼配付された26年式拳銃

 26年式拳銃のサック(拳銃嚢、けんじゅうのう)については、
須川氏の紹介がある。フランス軍のものをモデルにしたらしい。
厚くて大きな貝殻型(かいがらがた、クラムシェル)といわれる
フラップ式の蓋である。蓋を開けるとポケットがあり、18発の
実包が3段になって入る。それと手入棒(クリーニング・ロッド)
が入るようになっている。

 日華事変中の写真を見ると軽機関銃手が腰に着けていることが
ある。また、輜重兵の班長(下士官)や衛生兵、砲兵の馭兵など
といっしょに写っていることもある。戦記には残念ながら戦闘に
使用されたというものは見たことがない。

 ただ、1936(昭和11)年2月26日の朝、安藤大尉に率
いられた歩兵第1聯隊の決起部隊の下士官たちが、この拳銃をも
っていた。部隊本部用に配布された物だったのだろう。2人の曹
長が寝間着姿の鈴木貫太郎侍従長に至近距離から4発の弾を浴び
せた。出血は多かったが、とどめを刺すことを避けた安藤大尉の
おかげで鈴木は助かることになった。

 鈴木貫太郎は海軍大将であり、のちに敗戦時の首相として、また
国家に尽くすことになった。



(以下次号)


(あらき・はじめ)
 
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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
 
 
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