配信日時 2019/02/06 09:00

【陸軍小火器史(13)】─時代の制約の中で完成した「村田連発銃」─ 荒木肇

こんにちは。エンリケです。

陸軍小火器史の十三回目。

読みながら、

<兵器の評価は、
最悪の状況下でどれだけの性能を発揮できるか?
にあるんだよ>

と教えられた昔の日を思い起こしました。


エンリケ

追伸
<TNTやダイナマイトは火をつけるだけでは爆発しない>
といった常識知識をふんだんに持っておくと、生きる余裕が
生まれますね。


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 陸軍小火器史(13)

 ─時代の制約の中で完成した「村田連発銃」─
  
 荒木 肇
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▼爆薬と火薬

 爆薬と火薬とはまったく原理が異なる。TNT(トリニトロト
ルエン)などの爆薬はその働きを爆轟(ばくごう、detonation)
という。木炭・硝石・硫黄を混ぜてつくられた黒色火薬はその燃
え方は爆燃(ばくねん、deflagration)といわれる。

 2つの違いはそれぞれの爆速(ばくそく、velocity of  explosion)
による。爆燃とは木炭や薪のように、火薬がだんだんと燃え伝わ
ってゆくことをいう。その速度は毎秒およそ200メートルから
300メートルである。現在でも、ふつうに使われている導火線
は毎秒1センチメートルくらいで燃え進む。

 これに対して、爆轟は、爆薬の塊の中を秒速数千メートルの衝
撃波が走る。このおかげで爆薬の分子構造がゆさぶられて反応を
起こす。だからTNTやダイナマイトは火をつけるだけでは爆発
しない。ただ燃えるだけである。これらの爆薬には雷管をつけて、
雷管が爆発する衝撃で爆轟させる必要がある。

 弾丸の発射薬に使われた黒色火薬は、丈夫な密閉容器にあたる
銃身の中で点火された。密閉が必要なのは圧力を高めるためであ
る。後装式になって銃尾の閉鎖機構の開発・強化に工夫が凝らさ
れたのはここに理由がある。金属薬莢の実用化は、火薬ガスを閉
塞(へいそく)することと銃腔内の圧力を高めることに大きく貢
献した。紙製薬莢の場合、どうしても後部へのガス漏れをなくせ
なかった。薄い金属(真鍮)の薬莢は自身も膨張することで、ぴ
ったりと薬室に貼りつき、ガス漏れを防いだ。

 発射薬の燃焼速度は粒が大きいほどゆっくり燃えて(緩燃・か
んねんという)、小さいほど速く燃えるようになる(速燃・そく
ねんという)。後装式になり、銃身に施条されるようになると、
銃腔(じゅうこう)を弾丸が通り抜けるときの抵抗が大きくなっ
た。弾丸は重く、ライフルにこすりつけられながら進む。その摩
擦が大きくなるからだ。だから、燃焼速度はゆっくりであること
が望ましい。

 また銃身が長いほど、火薬の燃焼ガスが銃弾を押すことが時間
でも距離でも長くなる。結果、弾丸速度は上がる。この弾速(だ
んそく)は速いほど遠くに飛ぶが、同じ速度で発射すると重い弾
丸の方が空気の抵抗を押し分けて遠くに届く。弾丸は太くて、短
い方が細長い銃弾よりも飛翔距離が長くなる。
 
 しかし、同時に長い銃身は内部の圧力を下げてしまう。弾丸が
銃腔内を通る時には大きな摩擦抵抗がかかる。その摩擦に打ち勝
って弾丸を加速させるには十分な圧力がなくてはならない。圧力
がなくなれば弾丸はそれ以上加速しない。この理屈から小銃銃身
の長さは決定される。これを「学理腔長(がくりこうちょう)」
という。現在でも700~800ミリが多い。

 これらのことからも、小銃の設計、製造がいかに面倒なものか
理解できるだろう。十分な弾速が必要なのは、弾丸をなるべく真
っすぐ飛ばさねばならないからだ。地球に重力がある以上、重さ
をもつ弾丸は当然、下に向かって落ちてゆく。遠くを狙うには銃
を上向きにして撃つが、弾丸は山なりにカーブするから途中では
かなり高いところを飛ぶ。この高さをなるべく低くするようにす
る。左右の照準が正しくても、上下に外れては何もならないから
だ。このためにも強力な火薬は必要だった。

▼無煙火薬の採用

 1845年頃(46年という資料もある)、ドイツの人シェー
ンバインが木綿を硝酸と硫酸とを混ぜた混酸で処理した「綿薬(め
んやく)」を合成した。実験すると、黒色火薬の3倍の貫通力を
見せた。なんといっても燃焼圧力が強かった。当時の技術では、
砲を壊すことさえあった。爆発事故も続き、英仏両国では採用を
しなかった。

 さまざまな試行錯誤があり、事故も多かったが、この危険な綿
薬を膠(にかわ)や脂肪、ワックスなどの爆発しない物質で固め
ることに成功した。ドイツでは1865年、オーストリアでは1
871年のことである。

 フランスのポール・ヴィエイユは1884(明治17)年に溶
剤にエーテルとアルコールで綿薬を膠化(こうか)することに成
功した。この綿薬は窒素量13.2~13.4%の強綿薬と、同
じく11.3~12.6%の弱綿薬を混ぜたものである。この強
綿薬はエーテル・アルコールに溶けず、弱綿薬はよく溶けた。強
弱をそれぞれ7:3で混ぜると一部が溶けないので膠化成型性が
高まった。これを圧縮ロールの中を通して高密度で均質な薄板状
に伸ばす。四角に切断して乾燥させ溶剤を蒸発させると餅のよう
になった。綿薬だけを主剤としているので、これをシングル・ベ
ース火薬ともいう(86年にフランス陸軍はこれを採用した)。

 わが国では同年に欧州視察に出かけた大山巌は、フランスから
この火薬を提供された。初めて見て、白い粉末であることに驚い
たという。帰国すると、これをすぐに分析に回した。「弱性の綿
火薬を適量配合して、エーテルとアルコールの混合溶剤で膠化し
たもの」であることを確認した。そうして88(明治21)年に
は少量の試作に成功した。わが国で本格的に無煙火薬の製造が始
まるのは93(明治26)年、ドイツから火薬用綿薬と無煙火薬
製造装置一式が到着してからになる。翌年4月から陸軍板橋火薬
製造所(現東京都北区十条駐屯地)は稼働することになった。

▼連発銃の流行

 無煙火薬を発射薬(装薬)に使うことで小銃開発者たちには明
るい未来が生まれた。弾道をできるだけ低伸(ていしん)させる
には弾丸速度を速くするしかない。それには口径を減らすか、装
薬量を増やすしかなかった。しかし、口径を減らせば打撃力は減
少する。貫通力は小さくなるし、遠距離では横風の影響が大きく
なる。

 では火薬を増やせばどうかというと、機関部や銃全体を頑丈に
造ることが必要になり、そうなると歩兵が携行する小火器として
の重量制限が問題になる。また発射反動の大きさも問題になって
くる。

 それらを解決してくれたのが強力な無煙火薬だった。少量でも
大きな弾速が得られる。口径を小さくすれば銃は軽量化できる。
肩への反動を少なくして弾丸の低伸性が向上する。フランスはた
だちに1886(明治19)年に8ミリ口径のレベル小銃を採用
した。前の制式銃であるシャスポーからすると3ミリも弾丸口径
を減らすことができた。世界でも初めての軍用小口径連発小銃だ
った。この銃の登場で世界中の軍用小銃はすべて時代遅れになっ
てしまったといっていい。

 この小銃はさらに8連発という特徴をもっていた。銃身の下に
管弾倉(チューブ・マガジン)といわれる仕組みがあった。93
年に一部が改良されるが、銃身長は800ミリ、重量が4.28
キログラム、弾丸はしかも鉛の弾頭を薄い金属で覆った被甲弾だ
った。ただし、連発といっても自動装てん、引鉄を引けば次々と
次弾が撃てるという意味ではない。昔の陸軍式にいえば連装であ
る。槓杆を引くことで、弾丸をいちいち込めなくても空薬莢は排
出され、次弾が薬室に送り込まれるという意味の連発である。

 これにすぐ反応したのが隣国のドイツである。88(明治21)
年には口径7.92ミリ、5連発のマウザー(わが国では明治以
来モーゼルと読まれている)Gew88を制式化した。この小銃は5連
発で、尾筒(びとう、遊底直下)内の固定弾倉に5発を装てんす
ることができた。薬莢は射撃後に薬室から引き出しやすいように
リム(縁)がついている。このリムをまとめるように挿弾子(そ
うだんし)といわれる薄い金属製のクリップがあり、5発を縦に
並べていた。

 このとき、日本陸軍はやはり無煙火薬を使った小口径連発銃の
採用を決めた。全軍の装備を18年式村田銃に更新することが終
わってもいない頃である。88(明治21)年1月には審査委員
会が選ばれ、年内には3次試験までが実施されていた。前例もな
い急ぎ方である。それは清帝国の軍備拡張を警戒してのことだっ
た。清帝国はドイツ商社から、次々と新装備を買いこんでいた。
北洋海軍の増強、当時最大最強だった鎮遠・定遠を始めとして、
クルップ社製の火砲、小火器も手に入れていたのである。

▼村田連発銃─精緻な仕組みと戦場

 村田経芳が設計した前床管弾倉の8ミリ連発小銃を「村田連発
銃」という。制式化名には22年式という言葉はつかない。年式
がつくのは有坂成章(ありさか・なりあきら)が設計した「三十
年式小銃・騎兵銃」からである。

 急いで造ったためだっただろう。オーストリアのステアー社製
のクロパチェック1886年型小銃(口径11ミリ)とポルトガ
ル軍が採用したその口径8ミリのバージョンが参考とされた。モ
デルとなった小銃の全長は1320ミリであり、22年式連発銃
の要目は次の通りである。

 全長1215ミリ、銃身長746ミリ、重量4.10キログラ
ム。槓杆で操作するが、撃発には13年式や18年式の松葉型バ
ネではなく、コイル・スプリングを採用している。特徴的な管弾
倉(チューブマガジン)は武器学校展示銃でもよく保存されてい
る。管の素材は真鍮である。銃口まで続いているので、まるで銃
身が2本あるように見える。レバーアクションのウィンチェスタ
ーM73と同じである。

 槓杆を引いて遊底を開けて、尾筒の右下にある小さな「搬筒匙
軸転把(はんとうしじくてんぱ)」を90度上げると、搬筒匙
(後部に支点がある鉄板の板)が押し下げられる。すると銃身下
部の穴が出てくる。そこへ実包を1発ずつこめることになる。実
包は前進するがスプリングが内蔵されているので、実包数が増え
るほど力が必要である。

 万一、前方の実包の底部にある雷管を刺激しないよう、弾丸は
ずいぶんラウンド・ノーズ(蛋形、たんけい)である。つまり尖
っていない。錫が混ぜられた鉛の上に銅で被甲されている。鉛を
露出していると弾丸回転が乱れ、弾道が安定しないからである。
この実包は全長が74.5ミリ、重量30.7グラム、薬莢長は
52.5ミリ、弾丸の長さは30ミリ、重量は15.6グラム、
装薬量は2.2グラムだった。13年式や18年式の口径11ミ
リ弾と比べると、46グラムから30.7グラムに軽量化した。
弾丸重量も27グラムから15.6グラムと半分近い減量である。
装薬量も5.3グラムから2.2グラムだからやはり半分以下に
なった。このことは狙い通り、歩兵の携行する弾数を増やせるこ
とにつながった。

 銃剣も小型化された。また銃身の右横ではなく、銃身の下に装
着することになった。全長は前期型で354ミリ、剣身長278
ミリ、柄長67ミリ、重量430グラムだった。これはのちの太
平洋戦争も通じて使われた30年式銃剣と比べると、全長525
ミリに対して約67%、剣身長でも約70%、重量でも約62%
と全体では3分の2ということになる。装着法は鐔(つば)の環
状の穴を銃身に通し、銃の下部にある「銃剣止(じゅうけんどめ)」
という凸型の部品に剣柄の上部にある溝をはめこむ。この方法は
世界標準であり、現用の軍用小銃も変わらない。

▼実際には単発だったか

 部品の精度と素材の質の悪さが泣き所だった。村田連発銃の採
用した、精緻ともいえるような連発システムは多くの事故を起こ
した。軍用銃の大量生産は19世紀の初めころに、ドイツのよう
な伝統的なマイスター(親方職人)のないアメリカ合衆国で始ま
った。それは一言でいえば、削り出し加工(ミーリング)による
「互換性のある部品(インターチェンジャブル・パーツ)」の製
造である。同じ設計図や仕様書で造られた部品なら、どれを選ぼ
うと同じ性能、機能を発揮するということだ。そこではフライス
盤やタレット旋盤といった工作機械の性能が問題になる。

 明治日本、いや昭和戦前期、あるいは昭和30年代までのわが
国は、そうした工業技術基盤がたいへん劣っていたのだ。そのこ
とは先人たちも十分に理解していた。1932(昭和7)年の陸
軍省が一般向けに発行していたパンフレットにも、「ある町で買
った時計が、隣町で修理ができない。メーカーから取り寄せた部
品が合わないという国が、先進国と対等に戦えるわけがない」と
書いてある。

 村田連発銃の複雑精緻な装てんシステムは、戦場でたちまち欠
陥をみせた。現場では当然のことだが、手入れが悪く、乱暴に槓
杆を操作すると、たちまち弾丸の供給システムが故障した。次の
弾丸がひっかかり、薬室で動かなくなってしまった。また弾倉内
の8発を撃ちつくすと、再装てんには大変な時間がかかったとい
う。また弾倉内のコイルスプリングが弱く、長い間8発を詰めて
おくと反発力が弱ったという記録もある。

 しかし、8発の弾丸をすべて射ちつくすような事態は起きたの
だろうか。兵頭二十八氏も指摘しているように、この連発銃はツ
マミの切り替えで、単発にもできたのだ。搬筒匙軸転把を水平に
すれば、管弾倉による給弾を止めることができる。槓杆をひいて、
1発ずつ装てんすることによって、18年式と同じ発射速度は実
現できた。また、3発撃ったら、その数だけ再装てんすることは
できたのだ。

 実戦で使われたのは日清戦争(1894~95年)の終わった
後の、台湾領収戦争のことだった。大陸の戦闘に参加しなかった
近衛師団と第4師団が、この連発銃で戦った。しかし、ここでの
記録にはほとんど小銃に関するトラブルは報告されていない。ま
た、19世紀最後の大きな武力紛争だった1900(明治33)
年の北清事変でも派遣軍が携帯していったが、故障がそれほど話
題になっていなかった。

 時代の限界、制限の中で懸命の努力がされた証人がこの連発銃
だった。

 

(以下次号)


(あらき・はじめ)
 
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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
 
 
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