配信日時 2019/01/22 20:00

【わが国の情報史(24)】大正期のインテリジェンス(その2) 上田篤盛

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
もあります。
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WEB http://wos.cool.coocan.jp
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上田さんの最新刊
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
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は、女性という切り口からインテリジェンスの歴史
(情報戦史)を描き出した作品です。

本編はもちろん、充実したインテリジェンスをめぐる
資料集がすごく面白いです


こんにちは、エンリケです。

インテリジェンスの面から見た日韓問題評価
は実に参考になります。


エンリケ


ご意見・ご感想はコチラから
 ↓
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わが国の情報史(24)

 大正期のインテリジェンス(その2)

     インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 1月14日、シンガポールで日韓防衛当局者による協議が行な
われました。あらかたの予想どおり議論の進展はなかったようで
す。

 報道によれば、「日本側は、日本側のレーダー情報の開示と韓
国軍が持つレーダー情報と交換するよう提案したが、韓国側はこ
れを拒否したようです。

 これを受けて15日、韓国国防省報道官は「非常に無礼な要求
である。『一部を公開するから全体を開示してくれ』という話だ
から、わたしたちとしては受け入れられない。わたしたちが求め
る資料を日本側が公開しなかったのは明らかだ」などと述べまし
た。

 結局、第三者が介在しない密室での協議というものは、いかよ
うにも恣意的な判断が下せるということです。日本側は限りなく
決定的証拠に近いものを提示したつもりでも、韓国側はそれを決
定的ではないという。

 逆に、韓国側は日本側が持っているすべてのデータ情報を出せ
という無理難題を吹っかけてきて、自らの情報(おそらく大した
ものはない)の提示を拒否する。こんなことはあらかじめ予想さ
れていたことではないでしょうか?

 海上自衛隊トップの海上幕僚長は「日韓が把握する事実を突き
合わせて何が真実か、どう解決していくかを話し合う必要がある」
と述べ、日韓が事実関係を明らかにするためには日本側のレーダ
ー情報の開示の可能性に言及しているようです。

 しかし、密室の協議において事実関係が明らかになるとは、筆
者には到底思えません。結局は「言った、言ってない」「やった、
やっていない」の応酬です。

 そもそも、双方の協議により事実関係を明らかにできる大前提
は信頼や友好関係が存在していることです。

 これに関して、「日韓の実務者同士には信頼や友好関係が存在
しているが、文在寅大統領に忖度して反日的な対応をとっている
のに過ぎない」との見方があります。これは本当なのでしょうか?
 筆者には疑問です。

 なお、インテリジェンスの視点からの筆者コメントは、筆者運
営サイト『インテリジェンスの匠』にて、1月11日に掲載して
います。ご興味がある方はどうぞ。

 さて、前回に引き続き、大正期のインテリジェンスについて語
ります。今回は、のちの太平洋戦争の遠因ともいうべき、大正期
の日米関係の悪化に焦点をあてます。少し長くなりますが、ご容
赦ください。


▼一時しのぎの「石井・ランシング協定」

 第1次世界大戦は、明治末期からの不況と財政危機とを一挙に
吹き飛ばした。日本は英・仏・露などの連合軍に軍需品を、欧州
列強が撤退したアジア市場には綿織物を、アメリカには生糸を輸
出して大幅な輸出超過となった。

 また、大戦により世界的な船舶不足になり、日本はイギリス・
アメリカに次世界第3位の海運国となった。こうした日本の大躍
進に警戒したのが、ほかならぬアメリカであった。

 第1次世界大戦が開始した頃から、中国大陸における日米両国
の利権問題やアメリカ国内での日本人移民運動の動きなど、日米
間には緊張した空気が流れていた。

 1917(大正6)年11月2日、日本の特命全権大使・石井
菊次郎とアメリカ合衆国国務長官・ランシングとの間で「石井・
ランシング協定」が締結された。

 この協定は、中国の領土保全・門戸開放と、地理的な近接性ゆ
えに日本は中国(満洲・東部内蒙古)に特殊利益をもつとする公
文書であった。さらに付属の秘密協定では、両国は第1次世界大
戦に乗じて中国で新たな特権を求めることはしないことに合意し
た。

 つまり、日米双方は第1次世界大戦の最中であったので、無用
な衝突を回避するために双方の妥協点を見いだすという、一時し
のぎの“苦肉の策”に出たのであった。

▼シベリア出兵によってアメリカの対日警戒が増大

 第1次世界大戦の最中の1917年、レーニンの指導するボリ
シェヴィキにより世界最初の社会主義革命が起き、1918年に
ロシア帝国は崩壊した。

 1918年3月、ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国と講
和条約(ブレスト=リトフスク条約)を結んで戦争から離脱した。
連合国側としてドイツと戦っていたソ連が裏切ったのである。

 そのためドイツは軍事力を東部戦線の兵力を西部戦線に振り向
けた。これに対して連合国は、ドイツに再び東部戦線に目を向け
させるとともに、社会主義国家の誕生を恐れて、シベリアのチェ
コスロバキア軍救援を名目として、内戦下のロシアに干渉戦争を
仕掛けた。

 しかし、英・仏はすでに西部戦線で手一杯で、大部隊をシベリ
アへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、
本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シ
ベリア出兵の主力になるように打診した。

 1918年7月になってアメリカがチェコスロバキア軍救援の
ために日米共同で限定出兵することを定義すると、寺内正毅内閣
は、1918年8月、シベリア・北満洲への派兵を決定した(シ
ベリア出兵)。

 しかし、アメリカと日本の派兵目的は異なっていた。日本は共
産主義の浸透が満洲、朝鮮、そして日本に浸透することを警戒し
ていた。そのため、オムスクに反革命政権を樹立することを目的
に、出兵兵力をどんどんと増大させた。

 一方のアメリカの出兵目的は日本の北満洲とシベリアの進出に
抵抗することであった。アメリカは共産主義を脅威だとは認識し
ていなかった。だから、ロシアの共産主義者と戦う日本軍に協力
せず、かえってボリシェヴィキに好意を示す有様だった。

▼パリ講和条約における日米の軋轢

 第1次世界大戦は1918年11月に休戦が成立した。両国と
も連合国の一員として、戦勝国として1919年のパリ講和会議
に参加した。

 パリ講和会議のヴェルサイユ条約では、日本は、山東省の旧ド
イツ権益の継承が認められ、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委
任統治権を得た。

 しかし、その少し前に朝鮮で起きた「三・一独立運動」の影響
もあって、日本のドイツ利権の継承に対して、北京の学生数千人
が1919年5月4日、ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷
免などを要求してデモ行進をし、デモ隊は暴徒化した(五・四運
動)。

 この五・四運動が中国共産党の設立を促し、やがて泥沼の日中
戦争へとわが国は向かうことになる。

 山東還付問題については会議中からアメリカが反対した。我が
国は戦勝国として臨んだ講和会議であったが、山東還付問題でア
メリカから批判されたことで、講和会議に参加した外交官や新聞
各紙の記者は衝撃を受けた。

▼ペリー来航の目的

 このように大正期において日米対立が顕著になるが、その対立
の歴史はさらに遡る。

 1853年のベリー来航の第一の目的は、アメリカは日本を捕
鯨船団の寄港地にすることであった。当時、太平洋を漁場にした
捕鯨の最盛期でもあった。日本近海には、アメリカの捕鯨船がひ
しめきあい、灯火の燃料にするため盛んにクジラをとっていた。

 しかし、アメリカのもっと大きな狙いは中国(清)利権の獲得
であった。つまり、当時4億人の市場を持つ中国への市場拡大を
狙っていた。そのための寄港地が日本というわけである。

 米国のアジア大陸の進出の目論みは南北戦争(1861~65
年)によって、いったん中断されたが、この戦争が終わり、米国
は本格的にアジア・太平洋の支配を狙いにスペインとの戦争を開
始した。

 1898年にハワイ、次いでフィリピンを獲得し、1902年
までにフィリピン独立戦争に勝利してここを植民地として、加え
てウェーク、サモア、ミッドウェーなどを押さえ、南太平洋上に
日本を取り巻く形で、太平洋の支配に乗り出した。

 そして、いよいよ中国への進出である。しかし、すでに189
8年、イギリス・フランス・ドイツ・ロシアが相次いで租借地を
設けるなど中国分割が進んでいた。

 そこで、アメリカの国務長官ジョン=ヘイは、1899年と1
900年の二度にわたり、「清国において通商権・関税・鉄道料
金・入港税などを平等とし、各国に同等に開放されるべきである」
として、中国に関する門戸開放(もんこかいほう)・機会均等の
原則を求めた(門戸開放宣言)。さらに1900年、ヘイは清国
の領土保全の原則を宣言した。

▼アメリカのオレンジ計画

 1904年、満洲利権をめぐって日露戦争が生起した。この時、
イギリスとアメリカはロシアの満洲占領を反対して、日本支持を
支持したが、日本がロシアに勝利したことで、アメリカは日本に
対する脅威を増大させていった。

 アメリカは1904年、陸海軍の統合会議を開催して、世界戦
略の研究に着手した。ドイツを仮想敵国にしたのがブラックプラ
ン、イギリスに対してはレッドプラン、日本に対してはオレンジ
プランといったように色分けした戦争予定準備計画を策定したの
である。

 オレンジ計画では、日本はフィリピンとグアムに侵略すること
が想定された。つまり、アメリカが占領した太平洋の拠点を防衛
する上で、日本は想定敵国に位置付けられた。日露戦争の日本勝
利によってオレンジ計画はより具体化されていった。

▼白船事件

 オレンジ計画の具体化のひとつともいうべき事象が白船事件で
ある。アメリカは1907年に大西洋艦隊を西海岸のサンフラン
シスコへ回航すると議会で発表した。この時にはまだ世界一周航
海であることは伏せられていた。

 同年12月16日、大西洋艦隊は出港し、翌1908年の3月
11日にメキシコのマグダレナに到着すると、3月13日にルー
ズベルトは航海の目的が世界一周だと発表した。

 つまり、アメリカは大西洋艦隊を大挙して太平洋に回航させ、
日本近海に近づけるということ行動に出たのである。日本の連合
艦隊の2倍の規模もある大艦隊の接近は日本に恐怖をもたらした。
船は白いペンキが塗られていたのでかつての黒船と区別して「白
船」と言われた。

 米国は、海軍力を誇示することでロシアのバルチック艦隊を破
った日本海軍を牽制したのである。

 アメリカのハースト系新聞その他は、日本軍がこれを迎え撃っ
た場合は大戦争が始まるということで、世界に一斉に煽情的な報
道を流した。これに対して、日本政府とマスコミは「白船歓迎作
戦」に出た。この作戦が奏功し、何事もなくアメリカ艦隊はサン
フランシスコへ去っていった。

▼日本人移民排斥運動

 日米関係の悪化のもう一つの背景には、アメリカ国内における
日本人の移民問題があった。

 1848年1月、カルフォルニア州で金鉱山が発見されると、
鉱脈開発や鉄道工事で多数の中国人労働者が受け入れられた。し
かし、中国人労働者の入植で自分たちの地位が奪われるとして、
カルフォルニアの白人労働者が1860年代から脅威を覚えるよ
うになった。そこで、1882年に中国人の移民が禁止された
(排華移民法)。

 他方、日本からのハワイへの移民は明治時代初頭から開始され
ていた。上述の排華移民法の成立と1898年のアメリカによる
ハワイを併合が、日本人による米大陸本土への移民を促した。

 こうして日本人移民は1900年代初頭に急増した。急増に伴
って中国人が排斥されたのと同様の理由で、日本人移民は現地社
会から排斥されるようになり、1905年5月に日本人・韓国人
排斥連盟が結成された。

 1906年4月、サンフランシスコ大地震が発生した。この際、
大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを
口実に、サンフランシスコ当局は公立学校に通学する日本人学童
(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じた
(日本人学童隔離問題)。

 この事件を契機に、アメリカでは「黄禍」は「日禍」として捉
えられるようになった。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト
大統領の異例ともいえる干渉により翌1907年撤回されたが、
その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至
った。

 その後も、アメリカ合衆国の対日感情は強硬になり、1924
年7月(大正13年)、排日移民法が制定されたのであった。

▼ワシントン会議における対日圧力

 1921年11月12日から翌22年2月6日かけて、第1次
世界大戦後のアジア太平洋地域の新秩序を形成するための国際会
議がアメリカのワシントンで行なわれた。

 この会議には、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・
アメリカ・フランス・イタリア・中華民国(中国)・オランダ・
ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加したがソ連は会議に招か
れなかった。

 同会議では、重要な3つの条約が締結された。第1は「四か国
条約」(1921年12月)である。これは米・英・日・仏が参
加した太平洋の平和に関する条約であり、これによって日英同盟
は破棄された。

 第2は「9か国条約」(1922年2月)である。これは中国
問題に関する条約であり、中国の主権尊重、門戸開放、機会均等
などが約束され、「石井・ランシング協定」は破棄された。つま
り、この条約締結により、日本の中国に置ける特殊地位は否認さ
れた。山東省における旧ドイツ権益を中国へ還付することになっ
た。

 第3は「海軍軍縮条約」(1922年2月)であった。この条
約により、主力艦保有はアメリカ・イギリスが各5、日本3、フ
ランス・イタリア各1.67として、今後10年間は老朽化して
も代艦を建造しないことが約束された。

 日本国内では、この軍縮条約をめぐって、海軍軍令部が対英米
7割論を強く主張したが、海軍大臣で全権の加藤友三郎が部内の
不満を押さえて調印した。

▼帝国国防方針の改定

 こうした情勢下、わが国は1918(大正7)年と1923
(大正12)年に帝国国防方針を改定した。

 1918年の第一次改定では、海軍の対米作戦計画は「敵海軍
を日本本土近海沿岸に引き付けて集中攻撃を行なう」こと本旨と
する守勢作戦であった。これがため、米艦隊の現出を硫黄島西方
海域やフィリピン島東方海面に予想し、我が根拠地を奄美大島、
沖縄に求めることにしていた。

 しかし、1923年の第二次改定では「開戦劈頭、まず敵の東
海における海上兵力を掃討し陸軍と協同してその根拠地を攻略し、
西太平洋を制御して帝国の通商貿易を確保するとともに敵艦隊の
作戦を困難にならしめ、然(しか)る後、敵本国艦隊の進出を待
ちこれを邀撃し撃滅する」と改められた。

 つまり、陸海軍は対米戦の場合、フィリピン島攻略を本格的に
取り組むことになった。また、また毎年実施された海軍大演習は
これに準拠して訓練の向上に努力させられたが、陸軍部隊の南洋
委任統治領に使用することなど全然考慮されていなかった。

▼ワシントン条約からの撤退

 1930(昭和5)年に締結されたロンドン海軍軍縮条約は日
本で政治問題化し、海軍内では艦隊派(条約撤退)と条約派の対
立が生起した。当初は条約派が主導して条約締結にこぎ着けたが、
32年からは艦隊派が優勢になった。

 1931年の満洲事件とともに、海軍軍縮条約を締結するかい
なかの重大な案件が持ち上がった。元老、重臣は国力からして国
際協調路線であった。陸軍も満洲国建設や対ソ作戦準備の点から
条約維持を主張した。

 林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、1876~1943年)陸軍大臣
は、大角岑生(おおすみ みねお、1876~1941年)海軍大臣に対
して条約継続を強く希望した。

 岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868~1952年)総理も、軍縮会
議の存続を望み、五相会議で論議されたが、大角大臣は「それで
は部内が収まらない」として、ワシントン会議よりの脱退を主張
した。かくして、海軍出身の岡田総理は1934年12月、ワシ
ントン海軍軍縮条約脱退を米政府に通告した。

 とかく陸軍が引き起こした満洲事変および日中戦争が太平洋戦
争を招いたとの文脈で捉えられるが、太平洋戦争の遠因はペリー
来航から始まっていた。そして、大正期の軍縮条約を是としない
海軍艦艇派は対米戦に向けて準備を進めたのである。

 そこには、陸海軍を統制する国家の情報機関の不在と、国際問
題を大局的に分析するインテリジェンスが欠如していた。


(次回に続く)



(うえだあつもり)

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【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関係
論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査
学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年に
かけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務
し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官
をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省
情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定
年退官。現在、軍事アナリストとしてメルマガ「軍事情報」に連
載中。著書に『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11
月)、『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』(蒼蒼社、
2008年9月)、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引
き』(並木書房、2016年1月)、『中国が仕掛けるインテリジェ
ンス戦争―国家戦略に基づく分析』(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)、『情報戦と女性スパイ─インテリジ
ェンス秘史』(並木書房、2018年4月)など。

ブログ:「インテリジェンスの匠」
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『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
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