配信日時 2019/01/16 09:00

【陸軍小火器史(10)】西南戦争(1) ─不統一の小銃装備で戦った西南戦争─ 荒木肇

こんにちは。エンリケです。

陸軍小火器史の十回目。

きょうの記事は、
個人的に実に興味があるテーマなので、
至福の時間でありました。

さっそくお読みください。



エンリケ



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 陸軍小火器史(10)

 西南戦争(1)
  ─不統一の小銃装備で戦った西南戦争─
  
 荒木 肇
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□ご挨拶

 成人の日も過ぎ、1月も半ばをこえました。依然として韓国駆
逐艦による火器管制レーダーの照射問題は進展を見せません。不
法な徴用工の請求裁判について、韓国大統領は「日本側の配慮」
とか「謙虚な姿勢をとれ」などと妄言を弄しています。

 ひとつ分かったことがありました。この韓国の文武の不法行動
について、日頃元気に与党批判をする野党が何もいわないことで
す。たいへんわかりやすい構図になってきました。水面下で折衝
中だといいますが、政府・与党の方々、ここでうやむやにはでき
ません。今までのような「大人の態度」で対応してきた結果がど
うなるのか。国民の多くは十分承知しているところです。いろい
ろな事情もあるかと思いますが、少しでも不透明な部分を少なく
してもらいたい、そう願っています。

□お礼

 MMさま、新年おめでとうございます。さっそくのお便り、あ
りがとうございます。ご指摘の通り、帆船海軍の黒色火薬の砲撃
戦。信号も見えなくなり、フリゲートが圏外から情報も伝達した
ことが思い出されました。


▼政府軍はどのような小銃で戦ったか?

 西南戦争(1877年)は、まだその実態についての研究が行
き届いていない。定説を検討し、その検討結果が定説になると、
また批判されるというのが歴史学の進歩がいまも続いている。研
究が終わっていないというのも、いくらでも例があげられる。た
とえば政府軍、薩摩軍、どちらの参戦者数も不確かでしかない。
また、有名な「田原坂」での戦闘も再検討が進んでいる。司馬遼
太郎の書かれた『翔ぶがごとく』に描写された戦闘も史実とは異
なるという指摘もされるようになった。畏友、長南政義氏の作戦
分析、『歴史群像』の記事などをお奨めしたい。

 西南戦争の経緯や、細かい描写はここではひかえる。小銃など
の装備については、陸上自衛隊富士学校図書室が所蔵する『新編
西南戦史(陸上自衛隊北熊本駐屯地修親会)』に従うことにする。
政府軍の参戦者は5万4138名である。薩摩軍はおおよそ3万
人とされている。圧倒的に政府軍の方が多いが、損害もまた多か
った。ただし、政府軍側が後方兵站の人数もきちんと記録してあ
るのに、薩摩軍の記録にはほとんどないことなどがあるので、こ
れもまた正確ではない。

 政府軍の小銃は4万5281挺とされる。ただし、種類はなん
と12種類にものぼった。

(1)エンフィールド銃(前装ライフル)  2万4480挺
(2)スナイドル銃(銃尾開閉型莨嚢式)    8287挺
(3)アルビニー銃(銃尾開閉活罨式)     3845挺
(4)ドライゼ銃(銃尾開閉回転鎖閂式)    3533挺
(5)ヘンリー・マルチニー銃(銃尾開閉底碪式)2902挺
(6)長スペンサー銃(銃尾開閉底碪式)    1000挺

が主なものである。合計は4万4047挺となるが、ほかにスペ
ンサー・カービンなども投入された結果、合計とは合っていない。
長スペンサー・ライフルが1000挺という丸められた数字にも
なっていることに原因がある。

 幕末以来の前装式ライフルのエンフィールド銃が全体の54%
にもなるが、熊本籠城軍がのちに弾薬不足を恐れたときに、スナ
イドル銃の使用を控えさせたという記録もある。予備銃は多くが
エンフィールド銃だったとも想像される。

(3)のアルビニー銃は後装型ライフルで「活罨(かつあん)」
式という作動法式である。「罨」とは「網」のことをいう。上か
らかぶせて取るものを罨という。槓杆、あるいは把手を上に引き
上げることで遊底が上にあがってくる。薬室は銃尾と一体化して
いて、尾栓の部分が蝶つがいで動くようになっている。このアル
ビニー銃は当時のベルギー軍の制式小銃である。遊底にはバネと
撃針、抽筒子(ちゅうとうし・エジェクター)が組み込まれてい
る。撃鉄は右側にある。引鉄を引くと遊底後部の凹部に撃鉄が入
り、撃針を打つと同時に遊底が外れることを防ぐ。この銃はエン
フィールド銃を後装式に改めるときに、スナイドル銃に改造する
よりも簡単なために、長州の萩や鹿児島で盛んに造られたという。

 使用薬莢はやはり金属製のボクサー型パトロンである。歩兵銃
は口径14.5ミリ、全長1240ミリ、重量4.1キログラム、
腔綫は5条、照尺は1250メートルだった。同騎兵銃は全長9
50ミリ、重量3.1キロと軽くなり、ただし照尺は300メー
トルとなった。

(4)のドライゼ銃は世界最初のボルトアクションによる。口径
は15ミリであり、「針撃ち銃」といわれたことは前にも書いた。

(5)ヘンリー・マルチニー銃については詳しい解説が陸軍兵器
本廠の『兵器廠保管参考兵器沿革書』(昭和4年刊行、『日露戦
争の兵器』佐山二郎、光文社NF文庫、2005年)に載っている。
以下、それにしたがってみる。

 ヘンリー・マルチニーというのは、ヘンリーが考案した腔綫
(ライフリング)とマルチニーが案出した銃尾機関を備えたから
である。銃尾の中央に撃鉄がみえる底碪式(ていがんしき)の後
装銃だった。1874(明治7)年に英国で制式化された。

 わが国では1871(明治4)年に、見本として東京府築地
(つきじ・現中央区)にあったスネル商会から1挺を買い取った。
翌年4月に「酒田縣(さかたけん)」から申し出があり、500
挺を輸入した。1874(明治7)年に廃藩置県が行なわれるま
では、旧大名領は藩とされ、それぞれに自治が行なわれ、藩の軍
隊もまた存続していた。この500挺の新式銃の購入は山形県酒
田藩軍の装備用だったと思われる。

 この当時では、これを新しい国軍の制式小銃に採用しようとい
う意見もあり、明治5年に近衛局(このえきょく)に498挺を
交付した。しかし、すぐにスナイドル銃に交換されたという。中
央政府直属の兵力として「御親兵」が編成された。その装備銃と
されたのだが、スナイドルにすぐに変更されたということになる。
こうした銃も廃棄されたり、海外へ売られたりすることもなく、
西南戦争でも使われたということである。

 1877(明治10)年と翌年には、海軍省から3500挺を
陸軍は譲り受けた。これを再び近衛歩兵に再交付したという。し
かし、明治15年には近衛兵が「村田銃」を装備することになり、
ヘンリー・マルチニー銃はまた海軍に戻された。この銃の評判は
よくなかった。射撃時の反動がひどく大きく、教育上の害もあっ
たといわれる。銃床内に鉛をいれて重量を増やし、反動の軽減化
を図ろうともしたが、うまくいかなかったらしい。反動が大きく
肩が痛かったという経験があると、次の射撃時にはそれを思い出
し、どうしても引鉄がガク引きになる。それで射撃訓練にも影響
が出たということだ。

 銃全長は2種類あり、長い方が1265ミリ、短い方が124
6ミリ。口径はどちらも同じで11.43ミリで、重量はそれぞ
れ4130グラム、3970グラムだった。腔綫数はどちらも7
条であり、職人が手で行なう施条だったから手間もかかったこと
だろう。

(6)の長スペンサー銃というのは、幕末・戊辰戦争で使われた
7連発スペンサー銃の歩兵用である。さすがにその構造の複雑さ
や、装填の時間がかかるなどの批判があり、評判が悪かった。要
目だけをあげておく。歩兵銃は銃身と銃床をつなぐ環帯が3つ、
だから3つバンドといわれた。口径12.5ミリ、全長1187
ミリ、腔綫6条、重量4.6キロ、照尺は900ヤードである。

▼小銃と小銃弾の補給─大阪支廠の活動

 西南戦争の当時、「砲兵第二方面内砲兵支廠」といわれていた
のが、のちの大阪砲兵工廠だった。1875(明治8)年にそれ
までの大砲製造所から名称が変えられた。工廠の歴史については、
『大阪砲兵工廠の研究』(三宅宏司、1993年、思文閣出版)
に詳しい。その西南戦争前後の研究によってみよう。

 まず、砲兵工廠の『沿革史』については、次のような記載があ
る。分かりやすく意訳しておく。

 「2月14日に西南で変事があり、賊(薩摩私学校生徒)が鹿児
島の兵器廠を襲い、そこの器械と火薬を若干奪った。このことより
以前に、1月8日に備え付けのスナイドル銃実包製造器械を当廠
(大阪)に移し、製作を行なえという命令が下った。そこで2月
3日に9等出仕の竹下矩方などを派遣し、同時に廠内にあったス
ナイドル弾薬を当廠に収容するため、1月22日には傭上(やと
いあげ)上野秀誉に汽船赤龍丸に搭乗させて鹿児島に派遣し、そ
の命令を監務(かんむ、監督官)陸軍大尉新納(にいろ)軍八に
伝えさせた。27日に鹿児島湾に船は投錨し、弾薬若干を搭載し
たところ、たちまち私学校党によって襲われ、残りの器械弾薬、
すべてを略奪されてしまった」

 これが有名な薩摩の若手の暴走とされている弾薬庫襲撃事件の
「官軍側」の見方を表したものだろう。

 また、開戦の日、2月24日には山口県萩小銃製作所を大阪支
廠の管轄下に入れて、アルミニー銃を急造させたという記録もあ
る。アルミニー銃は先述の(3)アルビニー銃のことである。
『兵器沿革書』には、1872(明治5)年の「御親兵解散」に
よって近衛兵が編制になったおりに、第1から第3大隊までの装
備銃がこれだったという記述がある。こうしたことから萩にも旧
藩時代からの銃器・弾薬の製造所があったことが理解できる。

 4月6日には火工てん(土偏に眞)実所(かこうてんじつしょ)
と雷汞(らいこう)てん(土偏に眞)実所が開かれ、5月20日
には薬筒(やくとう)製造所が落成した。火工てん(土偏に眞)実
所とは火薬を調合し、薬筒内に発射薬をつめる作業所であり、雷
汞てん(土偏に眞)実所は雷酸第二水銀である小粒の雷汞を製造
する所である。金属製薬莢はこれに弾頭を組みこんで完成される。

 東京の兵器本廠から中継地としての大阪支廠に送られた銃器・
弾薬の数の統計がある。2月22日にはスナイドル弾薬100万
発、同25日、スナイドル弾薬450万発、スペンサー弾薬50
万発。そして26日にはスナイドル銃3000挺となっている。
熊本に籠城する政府軍に、薩摩軍が無造作に攻城戦をしかけたの
が2月21日のことである。この後、3月5日にはサーベル50
0本。3月20日までに、スナイドル銃弾は1050万発、スナ
イドル銃800挺、この他4斤山砲弾、クルップ砲弾などが大阪
に到着している。

 政府軍兵は盛大に射撃をしたらしい。3月9日には現場から
「これまでは1日最大およそ10万発の費消だったが、兵員が増
えて近頃は1日でほとんど20万発の平均になるだろう」という
電報が来たくらいだ。結局、本廠でも製造が追いつかず、外国製
を輸入するような事態になった。

 三宅氏によれば、東京の砲兵本廠から送りだされた小銃・同弾
丸の数量については次のように推定されている。小銃については、
スナイドル銃1万6720挺、エンピール銃2万5870挺、ヘ
ンリー・マルチニー銃4880挺、スペンサー銃2652挺、ツ
ンナール銃1330挺、レカルツ銃1000挺の合計5万245
2挺になる。

 各小銃用弾丸は、スナイドル銃弾3250万発、エンピール同
945万発、ヘンリー・マルチニー同200万発、スペンサー同
146万発、ツンナール同196万発、レカルツ同26万発の合
計4763万発という膨大な数量になった。

▼射耗、銃器の損傷
 
 銃は消耗品である。野外で使えば思わぬ故障も起きる。部品も
壊れる。当時は銃身鋼もあまり堅いものが造れなかった。もっと
も現在でもライフルの銃身は金鋸(かねのこぎり)で切れるくら
いの軟らかさである。銃腔内に施条するから、あまりに堅くても
いけないからだ。照星や照門もぶつけただけで歪むことがある。
甚だしい場合は無理な力がかかると銃身も曲がってしまうことが
あった。

 村田経芳が新小銃研究のために英国のエンフィールド兵器工廠
を訪れたときである。1874(明治7)年のことだった。当時
は工廠の全力をあげて新小銃、ヘンリー・マルチニー銃を製造し
ていた頃である。生産量を聞くと、日産500挺であるという。
ただ有事には1500挺にまで拡充することができるだけの設備
があった。またバーミンガムの中小兵器工場群をフル稼働すると、
日産1万挺の製造能力があると報告書にも驚きをこめて村田は書
いている。

 フランス軍のサンティチェンヌを訪れると、そこの能力は日産
2400挺であるという。フランスの常備軍は当時50万人、
1人あたり5挺を準備すると250万挺を必要とすると説明を受
けている。そうした設備を目の当たりにし、どれほど村田は驚い
たことだろうか。

 小銃は故障する。部品をその場で交換すれば直るものはいい。
それ以上になると、戦場後方の修理所に送られることになる。銃
工兵や技術者が対応した。どうにもならない物は廃棄する。そう
いう間にも、前線には故障がない物を送りだしていかねばならな
い。

 支廠で製造した物は兵器・弾薬だけではなかった。当時、スナ
イドル、エンフィールド銃弾は500発入りの木製弾薬箱に入れ
られた。スナイドル1万1500箱、エンフィールド9000個
である。これらの箱は馬の背に載せられたり、軍夫によってかつ
がれたりして前線に送られた。当然、損耗もあり、壊れたものも
あり、回収にも人の手が使われた。エンフィールドの実包も、6
30万発が生産されている。

 『西南戦史』には銃砲の損傷・廃棄にいたった数量がある。単位
はすべて挺である。スナイドル銃9337、エンフィールド銃2
111、マルチニー銃612、スペンサー銃425、ツンナール
銃4820、アルミニー銃1782、その他小銃556、合計で
1万9743挺になった。ついでに火砲の損耗も書いておこう。
単位はすべて門である。4斤山砲22、同野砲12、クルップ砲
10、アームストロング砲1、各種臼砲、その他の砲が31、合
計76門だった。

 小銃の弾薬消耗数もある。すべて単位は発とする。スナイドル
実包2614万5038、エンフィールド同342万3780、
マルチニー同7万7843、スペンサー同11万5132、ツン
ナール同205万4731、その他は45万6868発。合計で
3227万3392発となった。火砲弾の射耗は4斤山砲弾薬6
万3009発、同野砲6686、各種臼砲同9214、クルップ
砲642、アームストロング43、その他弾薬は2439発で合
計は8万2033発である。

 およその数で理解しておこう。小銃の損廃数は約2万挺、砲兵
本廠(東京)から送りだされた約5万2000挺の38.5%に
ものぼった。もちろん、この中には戦闘中に敗走し、退却する時
に放棄したものも含まれている。当時の鎮台兵はしばしば兵器・
装具を捨てて潰走した。新型のスナイドル銃も薩摩軍に鹵獲され
て、元の主人に向けて撃たれることも多かった。

 このとき、小銃弾薬はどうにか国産でまかなうことができた。
福岡、長崎での部隊が受領した数は約6300万発といわれる。
すでに部隊などで備蓄されていた数量もあっただろうが、およそ
半分の3200万発が消費された。



(以下次号)


(あらき・はじめ)
 
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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
 
 
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