こんにちは。エンリケです。
陸軍小火器史の九回目。
今年最初の配信となります。
きょうも面白いです。
いまの自分の頭の中にある歴史の姿は、
実態とかけ離れたトンチンカンなものではないか?
改めてそんなことを思わされる内容でした。
さっそくお読みください。
エンリケ
追伸
今上陛下のご退位、ご退位と愚人たちがピーピー言ってるそ
うですw 現実はご譲位なのに、その言葉をつかいたくない、
いや、使えない確固たる理由があるのでしょうね。
ひとことだけいえば、そんな人間にだけはなりたくありませんw
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陸軍小火器史(9)
幕末・維新戦争の銃撃戦(その2)
─金属薬莢の後装銃の登場─
荒木 肇
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□ご挨拶とお礼
新年のお慶びを申し上げます。いよいよ今上陛下がご譲位され
る年になりました。陛下と、支えてこられた皇后陛下が少しでも
お楽になればと存じます。新年の一般参賀でもお元気なお姿を拝
見することができました。心よりお慶びを申し上げます。
明るい気持ちの中で、解決していない問題があります。まるで
海賊のような韓国海軍駆逐艦の行動の真相はどうなのでしょうか。
海賊のようなというのは理由があります。韓国海軍所属を表す
「軍艦旗」も「国旗」も揚げていません。また、二転三転する言
い訳のあげく、照射はなかった、日本が威嚇した、日本が謝罪す
べきだという主張を公にしました。
「火器管制レーダーをわが哨戒機に照射した」。そうした事実
があったかなかったかより、低空飛行で威嚇したと主張を変えて、
論点をずらそうとしています。お粗末な反論動画、しかも大部分
をわが国が公開したものを編集しているというシロモノです。よ
ほど真相、北朝鮮の船と何かしていたことを隠したいのかなと勘
繰ってしまいます。
もっとも「反日無罪」、日本には何をしても構わないという国
ですから、どうしても真相を発表することはないでしょう。やは
りなあと思わされたのが、わが国の政治家や(あっち側の)御用
マスコミの評論家などの一部からは、「事を荒立てるな」「韓国
のメンツを立ててやれ」、はては「海上自衛隊も反省しろ」「安
倍政権の陰謀だ」などという声までも聞こえます。
政治家はおそらくあの「日韓友好なんたら」の議員たちだろう
し、評論家も反日を語ってきた人たちだし・・・、およそ背景の
見当がつくのがたいへん興味深いわけです。わが国の一部の世論
やらを動かしている気分の人たちの、ねらいがよく分かります。
わたしは高尚な政治の話やら経済の話が苦手で、きちんと理解
できない無学な者です。ただ、国際関係でもやってはいけないこ
と、約束を破ってはならないことはあると信じています。同時に、
報復行為や謝罪要求も当然、出さねばならないと考えております。
もう言葉だけの「遺憾」はやめた方がいいですね。
MMさま榴弾の歴史についてのご指摘、たいへん興味深く読みま
した。榴弾が開発された頃には、専門家だけがあつかったことな
ど興味深いご教示でした。ありがとうございます。球形の実体弾
の中をくりぬいて内部に炸薬をこめた時代。時限式の導火システ
ム、導火線の装着、調整などは専門家の出番だったと想像できま
す。ご指摘のように、19世紀の半ばになれば、ナポレオン砲や
四斤山砲といった新しい火砲が生まれ、弾丸も誰もが扱えるよう
になったということでしょう。
▼咫尺(しせき)を弁ぜず
「咫尺(しせき)」とは中国周代の制度で「咫」とは8寸のこと、
「尺」は10寸である。距離が非常に近いことを表現している。
「咫尺を弁(べん)じず」とは視界がきかずに、ごく近い距離も
見わけがつかないことをいう。伏見奉行所で戦った薩摩藩砲兵隊
の指揮官の言葉である。
われわれ無煙火薬の発砲炎と煙に慣れている現代人には想像も
できないほど、黒色火薬は煙を出すのだ。再現ドラマも映画も絶
対に信じてはならない。あるいは、地域の祭りなどで「古銃愛好
会」のグループの演武を見て、あれが火縄銃(黒色火薬)の発砲
の忠実な再現と考えるのは本当の事情を知らない人である。
古銃愛好会の方々が一般にお見せしているのは、現在の法律で
許されている銃砲店が扱う黒色火薬である。それをまた、安全上
から弾丸を入れずに空包で撃っている。射撃の手順や行動を見せ
るのが目的なので発射薬はなるべく少なくしている。競技場など
で許可を得て実弾を撃つときはもっと盛大な煙をあげているはず
だ。
奉行所の北門が突然開かれた。新撰組と会津藩兵は突進してき
た。横300メートルにも広がって、およそ400?500人の集
団である。騎馬の士官が4、5人で指揮を執り、銃を撃ちながら
刀槍をひらめかせて進んできた。
40間から50間(70~90メートル)に近づくと、新政府
軍は装てん(土偏に眞)しておいた3門の山砲から榴弾を撃った。
榴弾の爆発による衝撃波と音響、飛び散る破片による混乱をね
らったのだ。続いて霰弾を浴びせた。前装式の火砲はどれだけ急
いでも、次弾の発射まで30秒以上がかかる。必死の作業が続い
たことだろう。4斤山砲の操作は4人で行なう。照準手1名と砲
手3名である。砲弾の側面には12個の鋲(びょう、スタッド)
がついていて、それを慎重に腔内のライフリングにはめこんでい
く。それから込め矢といわれた棒で砲弾をゆっくりと押し込んで
いった。
問題は腔内に残った前弾の火薬や袋の燃えカスである。それを
たっぷりと水を含んだ海綿(かいめん)を先端につけた棒で拭い
とる。その上で綿製の袋に入った発射薬(薬包という)を詰めこ
んだ。あとは火門(かもん)から垂直に錐(きり)を差して薬包
に穴を開ける。摩擦管(まさつかん)を挿入して発射準備完了。
黒色火薬を使った火砲は現代の我々の想像以上に水を必要とし
た。大きなバケツと水源の確保はなくてはならないものだった。
御香宮には境内に井戸があった。そこを往復して水を運ぶ兵卒の
姿を想像してほしい。
そのあとは砲隊護衛の小銃兵と砲兵も小銃を連発した。轟音、
全身を衝撃波が打つ。あたりは硝煙が地上を覆いつくす。視界と
いえるようなものがない。3門もの山砲がそれぞれ2回、合計で
6発分の煙を吐き出した。そのうえ、100挺余りの小銃の連続
発射である。風もほとんどなかった。硝煙はほとんど動かず、夕
方であることもあり、周りは薄暗くなった。
しばらく何も見えなかった。そのうち少し煙もはれてきたので、
その間から透かし見をした。すると旧幕軍は100メートル余り
先の柵門まで後退していた。数十枚の畳を立て並べて胸檣(きょ
うしょう)にしている。その後は互いに猛烈な銃砲の撃ちあいと
なった。新政府軍が少しでも射撃の密度を下げると、会津兵と新
撰組が、刀槍をひらめかせながら6~70メートル余りにまで接
近してくる。そんなことがたびたびあった。「隊中一同粉骨をつ
くして相働き打ち退け候」というのが原文である(『中原猶介覚
書』による。『鳥羽伏見の戦い』野口武彦)。
『戊辰戦役史』には、密集隊の4列縦隊で前の2列は膝打ち、後
2列は立ち打ちの構えで、後2列だけが交代で発砲したという記
録がある。前の2列は全長2メートル余りになる銃剣をつけたエ
ンフィールド銃を構えつづける。前に紹介したように英国式の第
2列だけが発砲することもあったが、指揮官が臨機応変に命令を
下したものだろう。
▼市街戦-ヒョイヒョイと出てくる指図役
長州藩兵は奉行所西側、つまり正門側の町屋の中で戦った。伏
見の町屋は碁盤の目のように整然とした区画で仕切られている。
軒の低い2階屋が細い道の両側に建っていた。江戸期の絵図を見
ると、荷車がようやくすれ違える幅の道くらいである。いまも弾
痕の跡が残る料理屋もある。車1台が通れるような道に面した木
の表格子に斜めに弾丸の擦過(さっか)した跡がみえる。角度か
ら推測すると向かい側の低い2階屋の窓から撃ちおろしたものだ
ろう。伏見区京町3丁目にある京料理屋「魚三楼」には、それが
今でも残っている。その店は伏見の戦いのとき、薩摩軍の炊き出
し場所になっていたそうだ。
長州兵は藩内抗争で「馬関の戦」を戦っている。すでに市街戦
は経験済みである。伏見の住民はみな避難して無人になっている。
屋内から畳を運び出して、それを道の両側に積みあげた。胸檣の
代わりにするためだ。互い違いに6~7間(11メートル~12
メートルくらい)ごとに左右にそれを置いた。そうすれば身を隠
しながらジグザグに前進できる。
薩摩の部隊との取り決めで長州兵は南に向かって、薩摩兵は西
方向に撃った。十字火である。道路が交差したところに出た旧幕
歩兵は次々と倒された。進撃の先頭に立つのはどこの軍隊でも下
級将校である。軒下や物陰に隠れているばかりの兵を叱咤して、
指揮刀を振りあげながら「ヒョイヒョイと」進んできた。背景は
燃え上がる奉行所である。大きな火炎をバックに黒い影がたいへ
ん目立った。「ピチリピチリ」と撃ち倒したと長州兵の回顧談に
もある。
▼両軍の勝敗の差はどこからきたか?
こうしてみると、兵器は同等。旧幕府軍の訓練もけっして劣っ
ていたわけではなかった。個々の兵士たちの戦闘能力もほぼ同じ
だったのに、なぜ旧幕府軍は敗れたのか。大きく見れば、上級指
揮官の無能・卑怯未練と、中・下級将校の人材不足だったとしか
思えない。将官級はほとんど状況の把握もできないまま、命令も
的確に下せなかった。家柄だけで選ばれた飾り物の将官、勇敢な
者もいたけれど判断力に欠点を見せた佐官・尉官級指揮官たち。
そして何より、政治の小細工が好きだった最高司令官がいた。
旧幕府洋式銃隊は大坂城で一戦もしないうちに、最高指揮官から
見捨てられてしまったのである。有名な徳川慶喜による敵前逃亡
だった。旧幕府洋式兵たちの消息は、その後、働き場所を求めて
さすらった東北、北海道の戦いで聞こえることになった。
▼スナイドル銃が開発される
スナイドル銃は西南戦争の両軍の主力小銃だった単発の後装ラ
イフルである。1866年にエンフィールド・スナイドルといわ
れ英国で制式になった。特徴は金属製の薬莢を使うことである。
もちろん、前に紹介したスペンサーライフルも金属薬莢だったが、
レバーアクションによる連発銃で本格的な高性能の軍用ライフル
にはなれなかった。構造上の限界があり、弾薬も長距離射撃には
向かなかった。
スナイドル銃は陸上自衛隊富士学校資料館に、ほぼ完全な保管
がされている実銃があり、その構造も見ることができる。
1861年に始まったアメリカの南北戦争。その前後に、自己
完結型弾薬が実用化されるようになった。弾丸と発射薬と金属薬
莢を一体化させたものを自己完結型弾薬という。発射薬はもちろ
ん従来の黒色火薬である。ただし紙製薬莢との違いは大きかった。
湿気や衝撃に強く、しかも薬莢が金属の性質上、熱によって膨張
するので火薬ガスを封じこめる性能が飛躍的にのびたのである。
銃口から弾丸をこめる必要がなくなった。姿勢を高くしなくて
も次弾をこめることができる。しかも、それが短時間でできた。
前装ミニエーが1分間で3発のところを、後装スナイドルでは毎
分20発の発射の記録がある。それは火力ではざっと7倍も増え
るということになる。
ただし、後装式は同時に銃尾からのガス漏れをどうするかとい
う問題を抱えている。プロシャのドライゼ銃も、フランスのシャ
スポー銃も塞環(そくかん)を使うことで後部からのガス漏れを
防ぐようにしていた。
その問題を解決したのは金属製薬莢だった。英国のジェイコブ・
スナイダーは1864年に従来の前装エンフィールド銃を改造す
ることに成功する。まず、銃身を銃口から銃尾まで貫通させた筒
にした。銃尾側を少し切りつめて、弾薬をおさえるブロックをは
めこんだ。当初の弾丸はボール紙の薬莢の底部だけを金属にした
ものだった。口径は0.577インチ(約14.7ミリ)という
大型のものである。
この銃尾の開閉形式をわが国では『莨嚢式(ろうのうしき)』
といった。莨とはタバコのことをいい、嚢は袋の意味である。銃
尾の機関部の右側に蝶つがいのような仕組みで、開閉できる蓋が
見える。左側に把手(とって)があり、遊底に固定されたものと、
押しボタン式、ロック式と3種類の作動法がある。把手タイプは
それを上げると、蓋は右側に倒れて薬室が現われる。弾薬を入れ
て蓋をとじ、撃鉄で撃針を叩いて薬莢の雷汞(らいこう)に点火
するシステムである。発射後は逆の操作をして、手前に把手を引
けば、抽筒子(ちゅうとうし・エクストラクター)が撃ち殻薬莢
(以後は空薬莢と表記する)を引き出してくれる。
使用する弾薬筒はボクサー・パトロンと呼ばれる形式だった。
英国人エドワード・ボクサーが開発したものでセンター・ファイ
ア(雷管が中央にある)形式の完成品といえる。金床(アンヴィ
ル)が内蔵されていて、発火した火を発射薬に伝える孔(伝火孔)
が1つある。現在の陸自、米軍もこれを採用している。
薬莢(ケース)は金属製でふつう銅7、亜鉛3の割合で混ぜら
れた真鍮(しんちゅう)、あるいは黄銅(おうどう)といわれる
金属でできている。発射薬、弾丸、雷管をケースに入れたものを
現在では実包、弾薬包、カートリッジといっている。ついでにい
えば散弾銃ではその弾薬を装弾という。原語はシェルである。
同時期にアメリカ人ハイラム・バーダン(ベルダンともいう)
が開発したものはバーダン型とされ、これは金床がなく、伝火孔
は2つになる。両者の比較では、価格的にはボクサー型は工程に
手間がかかり、やや高価だが、薬莢の再利用がしやすい。戦場に
散らばった空薬莢を回収すればリローディングが容易である。こ
れに対してベルダン型は再生が難しい。
多くのミニエーライフルが後装式に改造され、銃の諸元はそれ
ぞれの元の銃によって違ってくる。後装式1866年式歩兵銃
(3ツバンド)は口径14.7ミリ、全長1375ミリ、重量4
キログラム、腔綫3条で照尺は900ヤードである。同じく歩兵
銃だが2ツバンドといわれたものは口径が前者と同じ、ただし全
長が1232ミリと短く、腔綫は5条、そのせいか照尺は125
0ヤードに造られている。また、砲兵銃といわれた口径14.5
ミリのものは砲兵馭兵(ぎょへい)が自衛用に装備する。馬上で
の取り回しがいいように全長が1015ミリとなり、重量も3.3
キロと軽い。照尺は800ヤードだった。
▼日本人の戦闘はどう変わったのか?
薩摩藩軍は1870(明治3)年7月に兵部省(ひょうぶしょ
う)への届出をみても、施条銃1万6015挺、撃針銃(銃種不
明)4267挺、七連発銃1050挺となっている。ほかに短四
斤砲など278門を保有していた(『鹿児島県史』1939年、
鹿児島県)。1868(明治元)年の会津若松城での戦闘では、
主武器はエンフィールド銃で、ほかにシャスポー銃、スペンサー
連発銃などだった。以下、内容の多くを『鉄砲と日本人(鈴木眞
哉、洋泉社、1997年)』に負う。
佐賀藩軍の装備はスペンサー7連発銃2000挺、エンフィー
ルド銃1300挺、さらには1867年にアメリカ軍が採用した
ばかりのレミントン銃300挺も使ったらしい(『会津若松史』
1966年、会津若松市編)。このレミントン銃とは、アメリカ
で1864年に開発されたもので、銃尾の下に閉鎖軸がある底碪
式(ていがんしき)だった。口径は12.7ミリ(0.50イン
チ)、全長1200ミリ、重量は4キロ、腔綫6条、照尺は15
00ヤードである。詳しい説明は省くが、機関の型式をローリン
グ・ブロック式という。後装式のライフルだった。
対して会津藩は鳥羽・伏見の戦いのあとに大急ぎで西洋銃を輸
入したという。ただ多くが前装の燧石銃(フリントロック)だっ
たらしい。降伏時に引き渡したのは洋式銃1170挺、和銃18
11挺といわれる。戦闘中の損耗もあったろうが、旧式で性能も
劣った小銃で戦ったことが推察される。悲劇として語られる二本
松藩も同じようだった。白兵戦に賭けるしかなかっただろう。
▼フランス式の銃剣突撃
旧幕府は恭順の姿勢を貫いたが、その陸海軍の多くは武装解除
を拒んで「脱走」した。1968(慶応4)年、4月のことであ
る。陸軍は大手前(現東京都千代田区)のフランス式装備の伝習
第1大隊700人、同第2大隊400人、歩兵第7聯隊350人、
御料兵200人、旗本士官隊と呼ばれた伝習士官隊700人、ほ
か砲兵、土工兵、桑名藩兵、会津藩伝習隊、これに新撰組などが
加わって、下総国府台(千葉県市川市)に集結した。指揮官は大
鳥圭介歩兵奉行(おおとりけいすけ、1833~1911)だっ
た。
海軍はやはり降伏せず、榎本武揚海軍副総裁(えのもとたけあ
き、1836~1908)が率いた東洋最強といわれた8隻の艦
隊が、多くの陸兵をのせて品川沖から北海道を目指した。
それまでにも、2月初旬には反乱を起こした幕府歩兵たちが兵
営から脱走し、東北を目指して進んでいった。これを指揮下にお
さめたのは歩兵頭並(中佐相当)古屋佐久左衛門(ふるやさくざ
えもん、1833~1869)であり、この後、北越、会津と転
戦し函館で海軍と合流した。
大鳥に率いられた伝習兵は日光東照宮(栃木県日光市)を目指
した。その途中で大鳥軍は東山道を進んできた官軍を一蹴する。
その回顧談がある。4月16日、場所は現在の栃木県小山市付近
だった。この時代、お互いに偵察が行き届かず、いわゆる「不期
遭遇戦(ふきそうぐうせん)」が多かった。出会いがしらに戦闘
が始まるのである。
関東平野の広がった地形。雑木林を利用して30メートル余り
に接近した伝習兵は、官軍に一斉射撃を浴びせた。外れる弾丸は
ほとんどなかった。混乱するところへ銃剣突撃をかけた。背中を
見せて逃げる敵兵を次々と撃ち倒した。フランス教官団に習った
教科書通りの戦闘だった。
教官団の教えは正しかった。数百メートルを隔てていては銃撃
戦が続くばかりで一向にらちがあかない。そこで危険をかえりみ
ず、接近していって射撃をする。敵の混乱をみて、一気に接近戦
にもちこむ。この教えが正しかったことを実感できたと伝習隊の
士官が語り残している。
▼二股口の射撃戦
榎本武揚が首班となった「函館政権」と新政府軍の戦闘があっ
た。多くの戦記が残されているが、そこにスナイドル銃が登場す
る。1868(明治2)年、4月13日から24日まで続いた二
股口の戦闘の描写である。野口氏も紹介されているが、函館軍の
士官の手記の中に『わが方の費やした弾薬は3万5000余発、
敵の多くはスペンセール(スペンサー連発銃)、スナイヅル(ス
ナイドル)等の元込めの銃を用いた。対してわが兵はミニエー銃
を用いる』とある。
また、別の士官の手記、『麦叢録(ばくそうろく)』にも、
『敵兵はスペンセル、スナイドル等を用いたとみえて、銅銃包(ど
うじゅうほう)の殻(から)が数万も地上に散らばっていたとい
う記録が発見できる。函館軍側も当然、撃ち返していたわけで、
たいへんな戦闘だったことが分かる。
新政府軍の装備を新しくする努力はたいへんなものだった。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
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