こんにちは。エンリケです。
陸軍小火器史の八回目。
今年最後の配信となります。
きょうも面白いです。
伏見の兵要地誌もつかめます。
さっそくお読みください。
次回は来年1/9の配信となります。
エンリケ
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陸軍小火器史(8)
幕末・維新戦争の銃撃戦(その1)
─薩摩軍の先手必勝に敗れた旧幕府歩兵─
荒木 肇
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□お便りへのお礼とお答え
ONさま、お問い合わせありがとうございました。停車場司令部
はおおよそ予備役・後備役の将校(大尉級)が司令官となり、
主に軍用列車の発着の調整や、通過、到着、出発部隊への厚生支
援などを行なっていました。軍用列車には通常のダイヤに組み込
まれる予定軍用列車、それだけでは不足する場合に運行する臨時
軍用列車、そして軍事目的専用に運行する場合の軍用運行表に従
い運行される特別軍用列車の3種に分けられます。停車場司令部
ではそれぞれの指示に合わせたマニュアルで対応しました。現場
の鉄道職員との連絡や調整も必要です。
もちろん、通常業務として貨物、軍用郵便物の受け取りなども
行ないます。その受け渡しも業務に入ります。駅の規模の大小に
より、組織や人員も異なりますが、おおよそそうした業務別に仕
事内容を分担していたと思われます。興味深いのは鉄道専門の輜
重兵科幹部(将校・下士官)がいたかというと、ほとんどそうし
たことはありません。たいていがお祖父様のような、世慣れた、
歴戦の下士官や優秀な兵隊さんが召集されて勤務しています。そ
れも当然で、細かい運輸業務は兵站監隷下の司令部が所管しまし
た。停車場司令部などの最前線の現場では、細かい仕事をきちん
とこなせる方々のほうが有能だったのでしょう。
▼鳥羽の戦い、幕府軍の装備と陣容
1868(慶応4)年1月3日の夕刻5時ころ、京都南方、鳥
羽と伏見で新政府軍と旧幕府軍の間で戦端が開かれた。この日を
含めておよそ4日間の激闘が続き、兵力に劣った薩摩・長州軍が
旧幕府軍を打ち破った。このことを歴史に関する著書が多い半藤
一利氏は、旧幕府軍の敗戦をまとめて、「旧幕府軍は旧式装備で
戦い、それに対して新式の優秀装備をもった薩長軍が勝った」と
主張された。
しかし、それは従来の進歩史観の歴史学者が主張してきたよう
な、実態を調べてこなかった結論である。旧幕府軍の作戦計画が
残っているが、それによれば、入京を意図した部隊の配置は次の
通りである。
(1)鳥羽街道を進み東寺(教王護国寺)へ向かう部隊。
竹中丹後守(陸軍奉行)が総指揮官で、歩兵2個大隊(このう
ち1個が伝習歩兵大隊)、砲2門、騎兵3騎、築造兵40人と、
これに桑名藩兵4個中隊、砲6門、濱田藩兵30人。
(2)伏見へ向かう部隊。
歩兵2個大隊、砲6門、騎兵3騎、築造兵40人。新撰組15
0人。
(3)二条城へ。(1)の部隊と同時進撃する部隊。
歩兵2個大隊、砲4門、騎兵3騎、築造兵40人。京都見廻組
400人、本圀寺勢力200人(水戸藩中の徳川慶喜派)。
(4)方広寺大仏へ向かう部隊。
歩兵2個大隊、騎兵3騎、築造兵40人。会津藩兵400人と
砲兵1座(6門)、志摩国鳥羽藩兵2個小隊。大仏には兵糧の集
積所があった。
(5)黒谷(金戒光明寺・こんかいこうみょうじ)へ向かう部隊。
歩兵2個大隊、砲4門、騎兵3騎、築造兵40人。会津藩兵4
00人と砲兵1座(6門)、讃岐高松藩兵8個小隊。金戒光明寺
は元京都守護職本陣であり、武器・弾薬が集積されていた。
ミニエー・ライフル装備の9個歩兵大隊と、後装シャスポー・
ライフルをもった伝習歩兵1個大隊。合計10個の洋式歩兵大隊
が投入されていた。ほかにライフル装備である。この旧幕府歩兵
隊の編制は、定数40人の小隊が10個、合計400人が大隊と
なった。2個小隊で中隊となる。この2個大隊(4個中隊)で聯
隊ができ、その定数は士官、下士官をあわせて840人だった。
ただし、『陸軍歴史』の慶応4年1月の編制表によると、第1
聯隊と同4聯隊が各1000、同5、7、8聯隊が各800名、
同6聯隊が600名、同11聯隊は900名が兵卒の現員となっ
ている。また、伝習第1大隊800名、同2大隊は600名、そ
して幕府領からの志願兵である御料兵が400人の合計7700
名となっている。このほかに大坂で徴募した第12聯隊があった。
注目したいのは、各部隊に必ず騎兵と築造兵が付属しているこ
とである。幕府騎兵はなかなか整備が進まず、大きな部隊として
の活躍が見られない。ただ、伝令や捜索などに使われたことが明
らかである。
築造兵は土工兵ともいわれた。エンジニア(工兵)部隊のこと
をいう。野戦築城や、台場といわれた胸檣(きょうしょう)など
の構築に働いた。胸檣は前面に溝を掘り、その土を積みあげてい
る。立った執銃兵の肩までの高さのバリケードである。身を隠し
て銃を立てて再装てん(土偏に眞)できる。
また、砲は新政府軍と同じく、フランス式の4斤山砲(しきん
さんぽう・口径86.5ミリ)だった。1斤は160匁(もんめ)
だからおよそ600グラム。したがって4斤は約2.4キログラ
ムの砲弾を発射した。砲弾は3種類で、内部に炸薬を詰めた榴弾、
一定の時間が過ぎてパチンコ玉のような弾子(だんし)をばらま
く榴霰弾(りゅうさんだん)、砲口近くで爆発して弾子をばらま
く霰弾があった。
榴弾は固い目標に撃ちこみ破壊する。榴霰弾は陣地に隠れない
敵の人馬、暴露目標(ばくろもくひょう)に被害を与える。空中
で破裂して、斜め下方に弾子を放射する。霰弾は近距離で突進し
てくる目標を撃つ。散弾銃(ショットガン)と考えればよい。ど
の弾丸にもライフリングに食いこむ「いぼ」がついていた。
幕府は1864(元治元)年頃からこの砲を鋳造していた。国
産のものもあったのだ。66(慶応2)年の初めには、ブリュネ
ー砲兵大尉以下の顧問団が来日し、フランス式砲兵隊が編成され
た。そのとき、フランス政府から四斤野砲と山砲をそれぞれ1個
大隊分(各12門)寄贈されていた。前装ながら滑腔砲ではなく、
施条された初期のライフル砲だった。山砲は分解して運ぶことが
できた。
▼新政府軍の装備と陣容
対して薩摩藩兵は小銃20隊と3個砲隊だった(『戊辰戦役史』
大山柏)。小銃隊の装備は主に英国エンフィールド兵器工廠製の
前装ミニエー銃であり、1隊は80人で1個小隊、それが2個の
半隊に分けられる。これに指揮役、喇叭手、鼓手などが加わった。
20個小隊は出身で分けられ、城下士(じょうかし)10隊、外
城士(とじょうし)4隊、遊撃3隊、番兵・私領・兵具の各1個
隊である。
よく知られているように薩摩藩は、城下士と外城士といわれた
郷士は対立していた。同じ部隊にはまとめにくかったのだ。番兵
といい、私領兵というのも、番兵とは士分でない者をいう。諸藩
でいう鉄炮足軽のことである。私領兵とは大身の藩貴族の家臣、
つまり陪臣のことだった。ただし、指揮官級には城下士がつくこ
とが多く、外城1番隊長はのちの村田銃開発者、村田勇右衛門経
芳(ゆうえもんつねよし)である。
砲隊のうち2個隊が4斤山砲をそれぞれが8門、1個隊が6斤
山砲、携臼砲(けいきゅうほう)を装備していた。携臼砲は砲車
がなく、抱えて運べる。ハンド・モルチールといわれた大口径の
射程が短い砲である。いまでいう迫撃砲のように使われた。1個
砲隊は砲兵が80人、護衛の小銃兵64名、さらに斥候兵や食糧
などを運ぶ小荷駄(こにだ)方などがいる。総員でおよそ300
0名という。
長州藩兵は、奇兵、遊撃、整武、振武などの6個中隊だけであ
る。1個中隊は各90人の2個小隊編制であり、各180人。こ
のほかに斥候兵や小荷駄が114名の合計約1000人で、装備
は1861年式のエンフィールド・ライフル。これも前装銃だっ
た。
土佐藩兵は歩兵4個小隊、約1000名と砲隊200名。装備
は年式不明だが、前装ミニエー・ライフルだったことが分かって
いる。
▼鳥羽街道の戦闘始まる
ケンカは先に手を出した方が負けという。ところが戦争では、
たいていが先手必勝である。しかも、相手が準備もしていないと
ころを不意打ちにする。これこそ必勝の態勢にちがいない。旧幕
府歩兵隊は強行突破の待機隊形のまま、つまり2列側面縦隊で狭
い街道上に停止中のところを榴弾で撃たれ、ライフル弾を浴びて
しまったのである。そのうえ、銃に弾丸もこめていなかったとい
われる。強行突破を意図しているのに、装弾をしていない。この
後も、こうしたちぐはぐな状況が旧幕府軍にはよく起きた。指揮、
統制の不徹底である。最高指揮官の意図が末端まで貫徹していな
い。
夕方の5時ころ、旧暦の1月3日。太陽暦の2月初めである。
天気は晴れ、そろそろ夕暮れになろうかという時だった。薩摩軍
は突然、銃砲撃を始めた。鳥羽街道上に据えられた3門の山砲の
榴弾は旧幕府軍の砲車を直撃した。緒戦では5発ずつの砲撃がさ
れた。それが街道上に行軍態勢のまま棒立ちの歩兵隊にも炸裂砲
弾が浴びせられた。続いて、城南宮の中に置かれていた3門も撃
ちだした。小銃5番隊、6番隊も左右に散開して歩兵隊への側射
を開始した。
入京の名目である「討薩上表文」をもった旧幕府大目付滝川播
磨守(たきがわ・はりまのかみ)の乗馬は狂奔して淀方面に走っ
た。隊列の後方と前方が撃たれた。つづいて中軍の砲車が破壊さ
れた。歩兵たちは左右の田に転がり落ちたり、少ない民家の陰に
隠れたり、負傷者を担いだりしながら大混乱におちいった。のち
に即死した者が20名近くあったということが目撃談にある。
逃げる旧幕府歩兵たちをまとめて反撃をさせようと声をからす
指図役(さしずやく・将校)や見廻組の隊士たち。街道上から左
右の枯れ田に転がり落ちる歩兵もいた。それを狙撃する薩摩小銃
隊。距離はわずかに100メートルほど。指揮官は次々と撃たれ
た。
大規模な敗走にならぬように奮戦したのは、刀槍装備の京都見
廻組(きょうとみまわりぐみ)だった。彼らは幕臣の2・3男で
構成され、西洋銃隊の訓練は受けていない。新撰組と同じく、治
安警察隊、せいぜい警察軍といっていい。それが果敢にも白兵戦
を挑んで、薩摩軍の西洋銃隊に突撃をした。
ところが、英式訓練が行き届いた薩摩小銃隊は4列密集射撃で
対応する。村田経芳の体験談では部下80名を横列にした。横2
0名、縦4列である。
互いの間隔はほぼ1メートルで、正面から見れば約20メート
ルである。第1列は膝撃ちの構えで銃剣を着けたまま発砲する。
そのまま銃尾を地面につけて「折敷(おりしき)」の姿勢をとる。
左膝を立て、右膝は曲げて尻をその上に載せる。第2列が続いて
発砲。右手で第3列から装?済みの銃を受け取り、発砲後の銃を左
手で第3列に渡す。第3列は第4列の兵に渡し、第4列は銃口か
ら弾丸をこめる。撃つのはいつでも第2列の兵だけである。射撃
の成績の良い者が撃つ。装てん(土偏に眞)が巧みな者は最後尾
になる。
およそ50メートルで撃たれた。バタバタと見廻組は倒れる。
せっかく接近しても第1列の銃剣の槍衾(やりぶすま)に刺され
るか、立ち止まるところを至近距離で撃たれた。熟練した銃兵は
1分間に3発の発射速度を守る。武装して接近戦用に鎧・兜や鎖
帷子(くさりかたびら)を着ていれば、50メートルの距離を走
るには20秒以上がかかったことだろう。
▼奮戦するシャスポー銃
そうこうしているうちに当初の混乱から旧幕府軍は立ち直りつ
つあった。洋式装備の桑名藩砲兵の奮戦だった。彼らは果敢にも
数百メートルの距離で薩摩兵に砲弾を浴びせたのである。また、
伝習兵らしい奮戦の様子が薩摩側の記録にもあると野口氏は書く。
そのまま引用しよう(『鳥羽伏見の戦い』中公新書)。
「殊(こと)に不意を打たれ大崩れ相成り、先手(さきて)は蛛
(くも)の子を散らすが如く遁(に)げ去る。しかれども、かね
て名を惜しみ候者(そうろうもの)にやありけん1小隊ばかり味
方の崩れ立つも顧(かえり)みず、殿(しんがり・最後尾)して
道のかたわらなる藪の中より小銃込め替え込め替え打ち立つれど
も・・・」
小銃を「込め替え込め替え」というのは射撃速度が高いことを
いう。味方の敗北する状況の中で撤退せず、薩摩兵の追撃を阻止
しようと竹藪のなかから小銃を撃ちつづけた。実際、夜もふけて
ゆき、薩摩兵はこの小銃小隊の遅滞戦闘に悩まされた。
この夜、7回もの夜襲があった。深追いをせず、小枝橋周辺を
防衛ラインにした薩摩隊はそのすべてを撃退したのである。背景
に燃える民家の炎、それに浮き上がる旧幕府軍、薩摩兵の姿は見
えなかった。せっかくの後装銃をもっていても、その高性能を活
かすことができなかったのだ。
▼伏見奉行所の銃砲戦
まったく同じころ、鳥羽の戦場から南東、伏見の町で両軍は睨
み合っていた。現在でも地勢はほとんど変わらないので、現地を
歩くと戦いの様子をすぐに再現できる。伏見の町は古くからの河
川交通の重要ポイントだった。そこを監視する伏見奉行は旧幕府
では京都・大坂の両町奉行に次ぐ要職である。
現在の地図から当時の様子をうかがってみよう。JR奈良線の桃
山駅前の桃山御陵参道(ももやまごりょうさんどう・桓武天皇陵)
を西に向かうとすぐに奈良へ向かう大和街道とほぼ直角に交差す
る。そのままさらに西に向かうと右に桃山天満宮と御香宮(ごこ
うぐう)神社がある。神社の西端は近鉄奈良線の桃山御稜前駅が
あり、50メートルもいかないうちに京阪電車本線の伏見桃山駅
になる。そこからは道は賑やかな商店街になり、そこを大手町筋
という。
新政府軍は高台にある御香宮に、旧幕府軍はその目の下100
メートルあまりにある伏見奉行所に主力を置いていた。奉行所は
その河川の管理上、南端が堀川の水路から宇治川に接する。奉行
所の正門は西である。石垣が築かれ、長屋門をもち、両端には隅
櫓(すみやぐら)まであげた城郭風のこしらえだった。この正面
には、今につながる町屋がつまった碁盤の目のような市街地が広
がる。そのまま西に進めば新町通りと交差して、すぐに今は黄桜
酒造(きざくらしゅぞう)や寺田屋がある。坂本竜馬が襲われた
宿であり、薩摩藩の急進派が粛清された悲劇の場でも知られる。
近くに京橋があり周辺を京町という。現在、観光客でにぎわう繁
華な場所だが、わずか150年前にはライフル弾が飛びかう激戦
場だった。
奉行所の北、大手町筋に面してやはり門があった。そこから見
ると御香宮の森は200メートルもないような近さである。東側
は人家もまばらで、そのまま桃山御陵まで傾斜地に畑が広がって
いた。旧幕府陸軍総司令官の竹中丹後守はこの奉行所の中に司令
部をおいている。
問題は、すでにやる気満々の薩摩兵はすでに1月3日の朝には、
奉行所を包囲する配備をとり終っていたことだ。まず、桃山の台
地には英国式6ポンド砲2門をおいて、大手町筋を射界におさめ
ていた。台地南端の西雲寺(さいうんじ)に携臼砲2門を配置、
奉行所南端を撃てるようにしている。西雲寺は現存し宇治川のそ
ば、名所観月橋(かんげつきょう)からも近い。攻勢の正面は奉
行所の北である。御香宮には四斤山砲3門と6ポンド砲2門を据
えた。門前町の民家をこえて奉行所に砲弾を撃ち込もうというわ
けだ。
東から攻撃する小銃隊は3個。4番隊、1番隊それに外城4番
の半隊である。北側、大手町筋方面には東から3番隊、2番隊と
加えて外城4番の半隊が並び、まなじりを決していた。そのさら
に東に長州兵2個中隊、これが奉行所外にいた東御堂の会津兵と
向き合い、竹田街道を警戒する土佐藩兵がいる。
伏見奉行所内には司令部のほかに、歩兵第7聯隊の1大隊、第
12聯隊の1大隊と伝習第1大隊がいたと思われる。洋式歩兵は
3個大隊。これに土方歳三(ひじかた・としぞう)が指揮する新
撰組が150名、旧京都町奉行所の与力・同心で編成された遊撃
隊50名である。これらは銃の操作も教えられ、一通りのことは
できただろうが、銃隊の集団戦法などはできなかっただろう。
さらに会津藩兵がいた。この藩は京都守護職として政争に直面
し、莫大な支出を強いられ、おかげで洋式装備が進まなかった。
剣や槍で武装した旧式装備部隊が4隊おり、砲兵隊が8門を備え
た。また勇戦して高名な佐川官兵衛(さがわ・かんべい)が率い
る別選組1隊がいた。これに高松藩、鳥羽藩、濱田藩などの諸藩
兵が加わっている。
ここでも戦端は新政府側が開いた。伏見街道上の関門を通せ、
通さないの押し問答をしているうちに、西から鳥羽の戦場の砲声
が届いたのである。薩摩軍の9門の大砲はすぐに射撃を開始した。
新撰組と遊撃隊はすぐに白兵戦を挑もうと北門をあけて突撃する。
年内はこれが最後のメルマガです。1年間のお付き合いありが
とうございました。
来年は第2週から配信、「硝煙(しょうえん)地を覆(おお)
うて咫尺(しせき)を弁ぜず」という黒色火薬の銃砲戦と市街戦
の様子を紹介します。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
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●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
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