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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
軽にどうぞ
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こんにちは、エンリケです。
外満洲に関する話は初めて聞きました。
日本人多数が抱える致命的盲点のひとつでしょう。
さっそくご覧ください。
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(17)
江戸幕府の滅亡(その2)
宗像久男(元陸将)
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▼「日米修好通商条約」締結の真相
前回に続き、「日米修好通商条約」の締結経緯を振り返ります。
ハリスが条約締結を迫ってきた当初、老中首座の堀田正睦(まさ
よし)は、孝明天皇の“勅許”を得て条約締結を企図しようとし
ましたが、攘夷派の少壮公家の抵抗もあって“勅許”は得られま
せんでした。孝明天皇自身も「鎖国・攘夷は歴代天皇の意思で、
神々に申し訳ない」との思いが強かったようです。反面、幕府の
力を頼りにしていたともいわれています。
事態打開のために、堀田は、福井藩主の松平春嶽の大老就任を画
策したようですが、大老が四家に限られたせいもあって、就任し
たのは彦根藩主の井伊直弼(なおすけ)でした。直弼は、文武両
道に秀でた教養人だったといわれています。
その直弼も最後まで“勅許”を優先させることを主張し、即時調
印を主張する幕閣大勢の中で孤立しました。それでも直弼は、交
渉担当の下田奉行・井上清直に出来得る限りの調印延期を指示し
ますが、井上はその意向を無視し、調印してしまった(1858
年)というのが真相のようです。
前回紹介したような周辺環境の激変から、迫りくる“脅威”を
感じ取った幕閣たちは「開国こそが我が国存続のための唯一の方
策」と判断し、条約締結を強行したのでした。このようにして、
幕府は、同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアと
も結びました(「安政の5カ国条約」といわれます)。
▼「安政の大獄」と「桜田門外の変」
しかし、国内的には“勅許”を得ないままの条約締結が問題にな
りましたが、もはや後戻りができません。大老・井伊直弼の苦悩
が目に見えるようですが、加えて、病弱で子供がいなかった第1
3代将軍徳川家定の継嗣(けいし)をめぐって、一橋徳川家当主・
徳川慶喜(よしのぶ)を推す一橋派と紀州藩主・徳川慶福を推す
南紀派が激しく対立しました。直弼は強権を発動して紀州藩主慶
福を後継に決定しました(慶福は家茂:いえもちと改名)。
直弼は、条約反対派や慶喜擁立者などの幕臣、志士、公家衆など
を大量に処罰(安政の大獄)するとともに、一部の条約推進者も
排除し、権威の回復に努めました。しかし、明治維新の精神的指
導者の吉田松陰や橋本左内などの有為な人材まで死刑にしたこと
から、逆に幕府の権威に対する不信感を増大させる結果となりま
した。
そして1860年、井伊直弼は水戸藩士らに暗殺されてしまいま
した。有名な「桜田門外の変」です。幕府最高の重職である大老
が、城の前でわずか20人足らずの浪人らに殺されたのですから、
本事件はこれ以上ない幕府の権威失墜となりました。
▼「尊皇攘夷」運動の広がり
これら一連の事件の背後にあったのが「尊皇攘夷」運動でした。
「尊皇攘夷」運動の流れは複雑でなかなか理解しがたいところが
あります。
そもそもは、中国の周の時代に発生した「徳(王道)をもって支
配する『王』を尊ぶ」との「尊王」思想が、鎌倉時代から南北朝
時代に「尊皇」と置き換えて受容され、鎌倉幕府滅亡の原動力と
なったといわれます。しかしその後、再び武家政権が続き、「尊
皇」は表舞台に出ることはなくなりました。
江戸中期に「天皇の権威」が復活したことは前回取り上げたとお
りですが、同時に、日本独自の精神文化も研究しようとした「国
学」も盛んになり、その影響も受けて「尊皇」が復活し、幕府が
朝廷の権威を政治利用したこともあって、その思想が急速に広ま
ったのでした。皮肉といえば皮肉でした。
「攘夷」については、幕末になって異国の接近にともなう「鎖国」
崩壊の懸念から、外来者を打ち払っても日本を防衛すべしとの国
防意識とナショナリズムがとみに高まりました。そして、“勅許”
を得ずしての開国がきっかけとなり、「尊皇」と「攘夷」が合体
し、「尊皇攘夷」として「倒幕」の政治スローガンになってしま
ったのです。
なお、「尊皇攘夷」の源流(出典)は、徳川御三家の水戸藩で発
達した水戸学だったようです。水戸学は、儒学を中心に国学、史
学、神道など幅広い学問体系を保持し、吉田松陰や西郷隆盛など
幕末の志士らに多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となり
ました。
▼ロシアの“脅威”が顕在化
「桜田門外の変」の1960年、清は英仏と「北京条約」を結び、
さらに天津の開港や九龍半島を割譲するとともに、ロシアとの間
でも「北京条約」を結び、「アイグン条約」で清とロシアの共同管
理地となっていた地域も含め、外満洲のロシア編入を承認しまし
た。清も不平等条約締結を強要されたのでした。
ロシアの“南下”の防波堤になっていた「ネルチンスク条約」
から170年あまり、ロシアは力づくでこの地域の“南下”の障
壁を取り除き、「東方を支配する町」を意味するウラジオストク
の建設に乗り出したのです。ロシアが我が国の“直接の脅威”と
して姿を現した瞬間でした。
現在、中国の習近平は「中華民族の偉大なる復興」を唱えていま
すが、それならば、まず、屈辱的に失ったこの外満洲を取り戻す
努力をすべきと思うのですが、なぜか「外満洲は中国の固有の領
土」との声を聞いたことがありません。相手がロシアだからでし
ょうか、何とも不思議です(いずれこの問題がロシアと中国の間
で再燃すると予測しております)。
ちなみに、我が国は無謀にも(と言うべきでしょう)この外満洲
の沿海州から黒竜江北岸に沿って兵を進めたことがあります。
「シベリア出兵」です。いずれ、このメルマガでも触れましょう。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
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