こんにちは。エンリケです。
陸軍小火器史の四回目です。
面白いです。
さっそくお読みください。
エンリケ
「日本陸軍の兵站戦」バックナンバー
http://okigunnji.com/url/230/
ご意見・ご感想はコチラから
↓
http://okigunnji.com/1tan/lc/toiawase.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
陸軍小火器史(4)
小銃弾薬の発達(その1)
─前装銃の弾薬─
荒木 肇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
?□はじめに
もういつの間にやら師走の声を聞くようになりました。山を行
けば紅葉が深まり、一部からは初雪の声も聞かれます。皆様、い
かがお過ごしでしょうか。
この11月は自衛隊の各種行事に参加させていただき研修の機
会も多くありました。何より素晴らしかったのは、茨城県阿見町
にある土浦駐屯地と、土浦市の霞ヶ浦駐屯地のそれぞれの広報館
の見学でした。
どちらもJR常磐線土浦駅からほど近く、土浦駐屯地は霞ヶ浦に
面して、現在は陸上自衛隊武器学校が所在し、霞ヶ浦駐屯地はや
や内陸に位置して陸上自衛隊関東補給処、同航空学校霞ヶ浦分校
があります。
よく混乱するのが両者の名称と位置関係です。霞ヶ浦に面する
土浦駐屯地、内陸の霞ヶ浦駐屯地。実は、いずれも戦前の海軍航
空隊の跡地で、まず水上機の訓練用に飛行場が発足、そのときに
近隣の有名な地名をとのことで「土浦」航空隊と名づけられまし
た。つづいて、広大な地形を生かして、陸上機の教育・訓練用に
「霞ヶ浦」航空隊がおかれたというのが両航空隊の名称の経緯で
す。
戦後、自衛隊が発足したときには、それぞれ航空のメッカだっ
たことは忘れられ、霞ヶ浦には陸自兵站の要、補給処が置かれ、
土浦には武器学校が開設されました。ただ、ごく一部ですが、現
在でも主に陸自の航空機の整備を学ぶ航空学校分校があり、航
空機のエンジン音が響いています。
先週の研修では、武器学校の豊富な旧陸軍火器、関東補給処広
報館の貴重な海軍資料などを学ぶことができました。とりわけ前
者の幕末・維新からの小火器の発達、後者では巨大なジオラマを
中心に、霞ヶ浦飛行場の広大さを学べました。
手続きをとれば、どちらも一般の方々も見学可能です。両駐屯
地の広報班にお問い合わせください。
また、土浦駐屯地には海軍予科練習生の遺跡が残ります。多く
の若者が国家の危難に殉じた記録が残り、顕彰されています。
□お礼
MMさま、早速のご投稿ありがとうございます。おっしゃるとお
りです。拳銃の反動とはまた違いもありますが、ライフルやおそ
らくゲベールも大きな音響、反動の大きさはご想像の通り、たい
へんなものでした。和式の鉄炮は左手とほほの横での2点支持で、
反動を銃口を上にあげることでそらします。ですから床尾も直線
で構成されません。
これに対して、幕末に入ってきた洋式小銃は、銃床、右手、左
手の3点で反動を受け止めます。とりわけ、まっすぐに反動を受
け止める肩への負担は大きいものでした。まさにご指摘の通りで、
感服いたしました。今後ともよろしくお願いします。
▼鉄炮(てっぽう)の構造について
ふつう、火縄で着火する小型火器を「火縄銃」といっている。
この名称は現在の「銃刀法」に規定された、古式銃一般をいう法
律用語である。したがって、研究者の間では「鉄炮」を使うこと
が常識となっている。この「炮」の字こそが、伝来以来の正式な
歴史用語である。
江戸時代には多くの炮術流派が生まれた。そのため、各部の名
称などは流派ごとに違っていることが多い。ここでは、現在の用
語で解説しながら、読者に鉄炮の知識を増やしてもらいたいと思
う。
まず、基本構造は筒(つつ)と台(だい)である。筒とは銃身
であり、台は銃床である。銃身は鉄製で銃床は木製であった。台
は筒をはめこむ銃架(じゅうか)とカラクリ(発射機構)を付け
ている台尻(だいじり)に分けることがある。台尻は現在では床
尾(しょうび)ともいわれる。
銃口を先口(さきくち)、逆の方を元口(もとぐち)という。
元口は尾栓(びせん)というネジでふさぐが、その頭である立方
体型の部分を捻頭(ねじかぶ)といった。銃身の下には栓差(せ
んさし)という突起を2~3個つけた。これを銃架にはめこんで
目釘(めくぎ)あるいは目貫(めぬき)を差し込んで固定した。
捻頭は台尻に差しこまれ、胴金(どうがね)で固定された。
照準具は2つある。先目当(さきめあて)は銃口に近く、火皿
に近く付けられているのは前目当(まえめあて)である。この前
目当には矢倉(やぐら)を立てる横溝(よこみぞ)もついていた。
この矢倉は遠距離射撃のための補助具である。遠くをねらうには
銃口が上を向く必要がある。矢倉には目盛りがついていて、そこ
を通して先目当(照星)と合わせてねらいをつけた。
弾金(はじきがね・毛抜金ともいう)は引金と連動して上下す
る。これが火縄挟(ひなわばさみ)を動かした。安全装置は蟹目
(かにめ)といわれた。上がった火縄挟はこれにロックされた。
引金を引くことで、ロックは外れて火縄は火皿の上の火薬に点火
した。
弾金、蟹目、火縄挟、引金は発射装置であり、カラクリといわ
れた。一体化した地金(じがね)といわれた細長い板に取り付け
られている。台尻の右側についている。したがって火縄式の鉄炮
は左肩にかついだ。カラクリは銅か鉄で造られ、17世紀になっ
てからは銅と亜鉛の合金である真鍮(しんちゅう・黄銅)が素材
に使われるようになった。また、引金に誤ってふれないように用
心金(ようじんがね)というガードがついているものが多い。
▼火縄銃の射撃
弾丸は球形である。「たま(玉)」という言葉の起こりでもあ
る。素材は鉛(なまり)、鉄、青銅製などがあった。主に鉛が使
われるのはその比重の大きさと加工しやすさが理由である。比重
とは同体積の4℃の水の質量との比率であり、鉛は11.3とい
う大きさになる。パンチ力には重さと速さが関係する。鉛は融解
点も低く(327.5℃)、鉄と比べると低温で融けて加工しや
すい。
玉を造るには、オタマのような鋳鍋(いなべ)で鉛板を溶かし
て、ひしゃくで玉形(たまがた)といわれたペンチのような道具
につぎ込んだ。この玉鋳型には鉄製と土製があった。ペンチのよ
うなものは鉄製である。冷えたらパカッという感じで玉は取り出
せる。バリはやすりで削られて、なるべく球形に近くなるように
した。これらは戦場でも携行されていた。玉の携帯に使われたの
は革製の玉袋(巾着)に入れた。
射撃の手順を説明しよう。まず、火縄に点火する。火縄はヒノ
キや杉の皮や、竹の繊維、木綿糸などを撚(よ)って、これに硝
石の粉を吸い込ませてつくった。火持ちはいいが、それでも時々、
息を吹きかけたり、振り回したりして酸素を補給しなければなら
ない。もし、炎をあげてきたら、吹き消して残火だけにする。戦
国時代の鉄砲隊などは夜間行軍で、振り回す火が遠くからちらち
ら見えたともいう。また、新月の夜などの闇の中での行軍では、
前をゆく兵の背中にこれを付けて進行方向の目印にした。
次に火穴(ひあな)を点検する。火穴は火皿からの導火(みち
び)が通って、発射薬(玉薬)に点火するための孔である。それ
が通じるようにセセリ(竹の串など・現在では針金など)を通し
てみる。ここに前に使ったときの燃えカスがあると、発射薬に口
薬(くちぐすり)の火が届かない。火皿をおおった火蓋(ひぶた)
を開いて銃口から息を吹きいれてみる。火穴の通りを確認するた
めだ。タバコの煙なども入れれば、尾栓(びせん)の締まり具合
も確かめられる。
いよいよ発射準備である。火蓋を閉じて、発射薬を銃口から流
しこむ。その量はおおよそ玉の重量の4割くらいである。6匁玉
(口径15.8ミリ)は重量が22.5グラムだから火薬をおよ
そ9グラム、銃口から入れる。次に玉を投入する。ふつうなら、
かんたんにコロンと入る。次に、木製(樫が多かった)のカルカ、
つまり槊杖(さくじょう・多くは木偏に朔の字を使う)を銃口か
ら差しこんで、火薬と玉を十分に突き固める。
銃を横たえて、火皿の上の火蓋を開く。合戦の用語では、「開
く」ことを「切る」という。今も使われている開戦することを表
現する「火蓋が切られた」という常套句はここから始まる。戦闘
開始のようにいまは使われるが、実際にはまだ発射までには手順
がある。
火穴に細かい口薬を入れるようにしながら、火皿の凹部に口薬
を盛る。そうして火蓋を閉じる。このとき、風が強かったり、雨
が降ってきたり、あるいは霧が立ちこめたりしたら面倒である。
もちろん、雨滴が火皿に入らぬように雨覆(あまおおい)という
部品も付けられていた。
今度は火縄の取り付けになる。火縄の火の先を口で吹いて、灰
を落とす。火先が確実に出るように、火縄を火挟みの龍頭(りゅ
うず)にはさむ。このとき、縄尻(なわじり)は左手の指にはさ
んでおく。ここで目標をねらう。左手で銃を支えながら右手の指
先で、火蓋を開く。そうして初めて目標に照準し、引き金に指を
かける。
引金を引けばバネの力で勢いよく鶏頭(けいとう)は火皿の中
に火縄を撃ちこむ。口薬はパッと燃え、火穴の細かい火薬が発火
し、発射薬に到達する。そこで初めてドドンと発砲ということに
なる。そうして、最後に残火(のこりび)がないか、銃口から息
を吹きこんでおく。万一、火がくすぶってでもいれば、次の装て
ん(そうてん 土偏に眞)のときに暴発してしまうからだ。
このように鉄炮の射撃は、現代から考えるとかなり面倒で、か
つ慎重な配慮を必要とするものだった。しかも、黒色火薬は燃え
カスが多く、数十発ごとに分解しての完全な水洗いを必要とした。
また、射撃時も火皿の上からのアオリ(爆風が射手の目の前にあ
がる)が必ずあり、向かい風で撃てば、当然、呼吸に困難さまで
感じることもある。
こうして考えれば、幕末に雷管式の発火システムが好まれ、さ
らには後装式の小銃弾が愛されたのも理解が容易だろう。
▼早合(はやごう)という工夫もあった
点火用の口薬と、発射用の玉薬はそれぞれ専用の容器に入って
いた。口薬はより細かい粒で印篭(いんろう)型の容器に入れた。
玉薬入れはふつう円形である。どちらも木製で、上部には火薬を
注ぎやすいように細い管がついている。
玉薬を入れて玉を入れる。これをいっぺんにできたら、装て
ん(土偏に眞)が速くなる。そこで玉と玉薬を1発分ずつケー
スに入れる工夫がされた。蓋(ふた)がついた管状の容器で、木
製や張懸製(はりかけせい・革または紙を張り重ねたもの)だっ
た。
いずれも湿気を防ぐ、軽量のものである。これを胴乱(どうら
ん)という革製、あるいは木製のバッグに入れた。腰につける腰
付(こしつけ)胴乱と肩からさげる荷担(にない)胴乱があった。
熟練した射手であると、1分間に2発を確実に撃てたらしい。
▼ゲベール、雷管式の登場
欧米では燧石銃が長い間使われた。ただし、前にも説明したよ
うに命中精度は火縄の鉄炮に比べれば、ひどく低いものだった。
欧州からの渡来にあたって、どこの大名家でも和式炮術家が導入
に反対したのは、その弱点があったからだ。
着火が石を金属に激しくぶつけるものだったから、その衝撃は
ひどく大きかった。日本人が鉄炮に要求する狙撃には向いていな
かったのだ。欧米でも密集隊形同士の撃ち合いに使われるのが主
流だった。
雷管の採用は着火の仕組みを大きく換えた。点火薬をのせた火
皿に火打ち石の火花を落とすやり方はなくなり、点火薬も火皿も
要らなくなった。これをパーカッション・ロックという。パーカ
ッションとは音楽の世界でも打楽器を指すように、打撃とか衝撃
という意味である。
弾薬も紙薬莢(かみやっきょう)の前身といわれるようなもの
となってきた。考え方は早合である。それは1989年のアメリ
カ映画『Glory』の戦闘シーンや訓練シーンで見ることができる。
映画は南北戦争のマサチューセッツ第54志願歩兵聯隊を描いた
ものだ。支給された銃は1857年型スプリングフィールド・マ
スケットという。マスケットというから滑腔(無施条)であろう。
そこでは、紙袋の封を切る。包まれていた弾丸と発射薬を、槊
杖で外装の紙ごと突きいれ、つづいてプライマー(雷管)をニッ
プルという突起(凸)にはめる。このニップルには銃身後部の点
火孔まで穴が貫通していて、ハンマーで叩かれた雷汞の火が発射
薬に点火した。
どこの国の陸軍も1分間に3発まで撃てるように訓練したらし
い。新兵が訓練中に聯隊長が後ろに来て、頭の後ろで拳銃を発砲
する。リボルバー(輪胴式拳銃)であるから、大佐は次々と発砲
した。落ち着いた射撃場の中でいくら早く込められても意味はな
い。このシーンはのちに『ラスト・サムライ』でも全く同じよう
に使われた。
次回は、ミニエー弾の装?、戦いの様子を詳しくみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
☆「日本陸軍の兵站戦」のバックナンバー
⇒
http://okigunnji.com/url/230/
荒木さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
↓
http://okigunnji.com/1tan/lc/toiawase.html
●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
PS
弊マガジンへのご意見、投稿は、投稿者氏名等の個人情報を伏
せたうえで、メルマガ誌上及びメールマガジン「軍事情報」が
主催運営するインターネット上のサービス(携帯サイトを含
む)で紹介させて頂くことがございます。あらかじめご了承く
ださい。
最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝しています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、心から感謝
しています。ありがとうございました。
--------------------------------------------------------
メールマガジン「軍事情報」
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
メインサイト:
http://okigunnji.com/
問い合わせはこちら:
http://okigunnji.com/url/169/
メールアドレス:okirakumagmag■■gmail.com
(■■を@に置き換えてください)
--------------------------------------------------------
配信停止はこちらから
https://1lejend.com/d.php?t=test&m=example%40example.com
投稿文の著作権は各投稿者に帰属します。
その他すべての文章・記事の著作権は
メールマガジン「軍事情報」発行人に帰
属します。
Copyright(c) 2000-2018 Gunjijouhou.All rights reserved.