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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
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こんにちは、エンリケです。
明治が近づくにつれ、
徐々に本領があらわれてきた感を持つのは私だけでしょうか?
宗像さんが提唱する「日本史と世界史に横串を入れる」手法で
見えてくる事のひとつに、国史上でわが国指導部の対応はいか
なるものだったか?があります。
過去の歴史上で指導部、世論が見せた風景は、今も受け継がれて
いると考えた方がいいです。とくに良くないこと、悪いことに
限ってその傾向は強いものです。
さっそくご覧ください。
エンリケ
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我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(13)
江戸中期以降の我が国周辺情勢と混乱(その2)
宗像久男(元陸将)
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▼ロシアの接近と江戸中期の「海防論」
歴史上、我が国に最初に接近してきたのは、欧州諸国の中では後
進国のロシアでした。ロシアは、中国領土の外満州が“南下”の
障壁となっていた18世紀当初からカムチャッカや千島列島に進
出して来るようになり、我が国との通商も求めて来ました。
これらの情勢を受けて、「四方を海に囲まれた『海国』日本の地
理的特性にふさわしい国防体制が必要である」と主張する林子平
の『海国兵談(かいこくへいだん)』や工藤平助の『赤蝦夷(あ
かえぞ)風説考』などの海防論が盛んになりました。当時、幕府
の実権を握っていた田沼意次(たぬまおきつぐ)は、鋭い感覚で
反応し、蝦夷地開発に乗り出ました。
一方、田沼が失脚した後に実権を握った松平定信は、蝦夷地開発
を中止し、鎖国を遵守したばかりか、「海軍の充実と沿岸砲台の
建設、中でも江戸湾防備が急務」とした『海国兵談』を「人心を
乱すもの」と絶版にし、林に蟄居(ちっきょ)処分を言い渡しま
した(1792年)。
しかし、松平は、蝦夷地近海に頻繁に現れるロシア艦船に不安を
感じ、蝦夷地の天領化や北方警備に重い腰を上げました。そして
ロシア特使が江戸湾での漂流民引き渡しを申し出たことをきっか
けに江戸湾防備の必要性を痛感し、江戸周辺各地に海防奉行所を
新設して旗本や御家人を配置するとの防衛構想を立案しました。
林子平が譜代大名の配置を提案したのに比し、松平が旗本や御家
人を配置しようとした理由は、江戸の至近距離に大名を配置した
場合の謀反を危惧したといわれ、林子平処罰の背景も、外憂を吹
聴されることによる内憂(国内の不安・不満)の拡大を防止した
いとの“幕府の伝統的な安全を優先”する老中・松平の“限界”
が露呈したのでした。
そして松平が辞職し幕政から去ると、この構想もお蔵入りしてし
まいました。ロシアはその後も執拗に通商を求めてきますが、幸
運にも、ロシアがナポレオンに侵略されるなど欧州情勢が緊迫し
て極東への関心がしばらく薄れたのでした。
脅威が眼前に現れないと国防態勢を強化できない“我が国の伝統”
はこの頃から始まったものと考えます。時計の針は戻せませんが、
この時期に最小限の江戸湾防備を手がけていたら、じ後の歴史が
変わったことは容易に想像できます。
▼イギリスの進出と「無二念打払令」の発令
アメリカを諦めたイギリスは、再びインドや中国などアジアに重
点を移します。特に、オランダがナポレオンに征服されると、こ
れを好機としてアジアのオランダ領を攻撃しました。このような
中、1808年、オランダ国旗を掲げた船が長崎の出島に入港し、
オランダ商館員が出迎えようとすると連行され、同時にオランダ
国旗が降ろされてイギリス国旗が掲げられるという事件が発生し
ました。
この船は、イギリスのフェートン号が化けたもので、日本に燃料
や食料を求め、要求が通らない場合は、港内の日本船を焼き払う
と通告してきました(フェートン号事件)。幕府は激怒しました
が、長い太平の世が続いたため、長崎を警備していた幕府や肥前
藩の兵力が激減し、戦える状態ではなかったのでした。
イギリスはその後も何度も日本近海に出没したため、業を煮やし
た幕府は1825年、〝沿岸に近づく外国船を理由いかんにかか
わらず打ち払う〟ことを命じた「無二念打払令(むにねんうちは
らいれい)」(「異国船打払令」とも言われます)を発令しまし
た。
1837年には、日本漂流民を帰還させ、平和的に通商を求めて
きたアメリカの商船に向かって打払令を理由に砲撃を行ない、退
去させるという事件も発生しました(モリソン号事件)。
▼清の「アヘン戦争」敗北
東アジアで覇権を握っていた清の隆盛も長くは続きませんでし
た。18世紀末頃から財政赤字の拡大、政治家や官僚の腐敗、そ
して各地で反乱が頻発するなど繁栄に陰りが見え始めました。腐
敗の一例を挙げれば、ヘシェンという政治家は専横の限りを尽く
し、何と国家予算の15年分も着服していたといわれます。こう
して、清の「長い19世紀」が始まったのでした。
対中貿易戦争に勝ち残ったイギリスは、中国から茶、陶磁器、
絹などを大量に輸入しましたが、中国へ輸出する商品を欠き、毎
年、大幅な貿易赤字になっていました。そこでインドで栽培した
アヘンを中国に輸出することで“三角貿易”を成立させようとし
ました。
1796年、清はアヘンの輸入を禁止しましたが、アヘン貿易は
年々拡大し、アヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほど
になりました。政府はアヘンを没収して処分する施策をとりまし
たが、アヘン密輸で莫大な利益を得ていたイギリスは、1840
年、清国沿岸に侵攻し、「アヘン戦争」を始めました。
清は、イギリス軍の強力な近代兵器に歯が立たず敗北し、184
2年、「南京条約」を締結、香港の割譲、上海など5港の開港、
関税自主権の喪失などを承認しました。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
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【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
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