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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
もあります。
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hirafuji@mbr.nifty.com
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http://wos.cool.coocan.jp
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上田さんの最新刊
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
http://okigunnji.com/url/312/
は、女性という切り口からインテリジェンスの歴史
(情報戦史)を描き出した作品です。
本編はもちろん、充実したインテリジェンスをめぐる
資料集がすごく面白いです
こんにちは、エンリケです。
ネットメディアの冷徹な評論を見たことはほとんどありま
せんが、冒頭の上田さんの分析は、その名に値する内容です。
今の時代で特筆される変化のひとつ、
「マスメディアという権力の監視をするネットメディアの誕生」
の流れと背景を、ていねいに腑分けしてくれています。
さっそくどうぞ
エンリケ
ご意見・ご感想はコチラから
↓
http://okigunnji.com/url/169/
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わが国の情報史(21)
日露戦争勝利の要因(その3)
-諜報・謀略工作-
インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに
安田純平氏が無事に解放されました。このことは、日本人の一人
として大いに喜ぶべきことですが、いささかマスメディアによる、
上から目線の物言いには辟易とするものがあります。
なかには、「自己責任」を主張するブログバッシングをとらえ
て、「未熟な民主主義だ」と断じたり、安田氏を「英雄と迎えよ
う」などと主張するコメンティターもいます。
また、あるジャーナリストは次のような論説を展開しています。
・「自己責任」が言われるようになったのは、2004年にイラクで
日本人の若者3人が武装勢力に拘束された事件においてであった。
・当時の小泉政権で環境相だった小池百合子氏が「危ないと言わ
れている所にあえて行くのは、自分自身の責任の部分が多い」と
発言したのを機に、「自己責任」の大合唱となった。
・当時、政府・与党の政治家があえて「自己責任」を持ち出して
3人を非難する世論を誘導したのは、この事件が金目当ての誘拐
事件や遭難などの事故とは異なり、政治的案件だったからだ。
まあ、「当たらずとも、遠からず」ということでしょうが、今
回の「自己責任」論と政府の公的責任回避論を結びつけることで、
少なからぬ反政府批判が展開されつつある気配を感じます。
筆者は1992年から95年まで、在バングラデシュ大使館で邦人保
護の業務に従事しました。当時の外務省の『安全対策マニュアル』
では、海外における安全対策においては「自己責任」が基本的原
則であると明記されていたように記憶しています。筆者もこれに
基づいて邦人の安全対策指導に従事していました。
また、他国の安全対策専門家とも多くの意見交流をしましたが、
彼らは、はっきりと海外における安全対策は自己責任であると、
主張していました。つまり、上述の小池氏が述べたことは、海外
の安全対策においては、至極当たり前のことなのです。
ただし、誤解しないでください。「自己責任」は、政府が邦人
保護の責任を回避するというものではまったくありません。海外
において邦人が不測の事態に遭遇したならば、全力でその生命や
財産を守ることは当然のことです。
しかしながら、海外ではわが国の警察権などは及びません。在
住する外国人の安全を守る一義的責任は任国政府にあります。こ
こが国内とは大いに違います。
だから、邦人が海外で危険に遭遇しても、日本政府ができるこ
とは限定されます。関連情報を収集して、危険な地域に対して、
渡航注意喚起や渡航自粛勧告などを発出する、現地では邦人の安
否を確認し、その救出などの措置を任国政府に要請する、これら
のことしかできないのです。
だから、危険な地域に敢えて行く、行かないの判断を含めて、
海外に行く邦人には、原則は「自己責任」であることを認識して
もらうしかないのです。
私の在バングラデシュの勤務時代には、3カ月以上に及ぶ注意
喚起を継続的に発出し、本省に対しては渡航自粛勧告への引き上
げ要請も行ないました。他方、現地の邦人に対しては、毎日定時
に安全情報の提供を行ない、継続的に緊急連絡網を整備し、現地
邦人の安否確認を行ないました。
しかし、日本からのメディアの方々の入国を禁止することは、
当然できませんでしたし、一部の邦人旅行者や自営業者なども確
実に何人かは入国していました。当時、それら邦人がどこに宿
泊・滞在しているかわからず、現地の安全対策情報をいかにして
提供するのかを思案しました。その時に、渡航注意喚起などがい
かに無力なものかということを、つくづく感じました。
こうした状況下、邦人からのトラブルの通報を受けました。
「それ見たことか」というわけにはいきません。しかし、これに
対応していると、邦人全体に対する保護業務が確実に停滞します。
政府、外務省、現地大使館は国民の血税によって養われていま
す。そもそも、公的機関は日本国民に対してひとしくサービスを
提供しなければなりません。しかし、自らの恣意的な使命感、冒
険心、野心に駆られた一部邦人の予期しない事件が起きれば、全
体としての公的サービスは低下してしまうのです。
今回の安田氏の事件は、残念ながら、利敵行為になってしまい
ました。だから、税金を支払い、公的サービスの受益者たる国民
が、結果的に自分たちに不利益が生じたことに対して、安田氏に
対して「自己責任」を主張することは特段不思議なことでしょう
か? 未熟な民主主義なのでしょうか?
マスメディアは民主主義の“番人”かのように民主主義を連呼
しますが、そこにはある種の驕(おご)りを感じます。
そもそも民主主義に未熟、成熟はあるのか? ほんとうに絶対無
比の民主主義はあるのか? 民主主義とは政府などの権力機構を監
視することなのか?民主主義は国民優先の原則であり、民族、文
化、国家体制の実情に即したさまざまなな形があるではないか?
など、我々はよくよく考えてみる必要があると思います。ちなみ
に朝鮮民主主義人民共和国も「民主主義」をかたっています。
かつてマスメディアはスーパー的な存在でした。ほとんどの国
民が情報発信の手段をまったく持っていないなか、マスメディア
が時の権力構造の腐敗を暴き、社会正義を保持した功績は大であ
ったと思います。他方、一部メディアが誤った歴史認識を国内外
に流布して国益に重大な損害を与えたり、捏造記事に手を染めて
視聴率を稼いだ歴史もあります。
IT化が進展した今日、マスメディアの驕りはもはや許されま
せん。自分たちが特権階級に属しているとの特権意識に立ち、民
主主義や社会正義を振りかざし、“社会の権力悪”と戦っている
ことを自尊しているならば、ますます国民はメディアから離れて
いくと思います。
今日では、わが国のメディアが危険な現地に行かなくても、C
NNなどがほぼ十分すぎることは報道してくれます。おそらく国
民のニーズとしては、それで十分満足なのです。
筆者はわが国が情報収集力や取材力を他国にばかり依存するの
ではなく、独自の能力を持つことが必要だと考えますが、これは
簡単ではありません。人工衛星、インターネットなどが発達し、
世界がグローバル化するなか、さまざまな有力情報が飛び交って
います。しっかりと分析すれば、オシント(公的情報)でも相当
な情報は得られます。繰り返しますが、おそらく国民としてはそ
れで十分なのです。
それでも、マスメディアやジャーナリストが、オシント以上の
情報が必要だというのならば、それを国民に対して説明し、国民
の賛同を得る必要があります。成果の積み上げが必要となります。
そうでなければ、国民は「日本人は世界のことを知るべきだ」的
な“上から目線”の考え方の押しつけばかりを感じてしまいます。
危険地域においてオシント以上の情報を得ようとすれば、諜報
活動と同程程度の情勢判断と慎重な活動が求められます。諜報員
は捕まってしまえば、おそらく殺害されますし、ジャーナリスト
も危険な状況におかれる可能性が大です。
仮に、諜報員のような訓練を受けていないジャーナリスが、情
報入手に成功したとすれば、それは武装集団がメッセンジャーや
広告塔としての価値を見出したからではないか?との疑念も生じ
ます。つまり、読者や視聴者は、かかるジャーナリストからもた
らされた情報の信頼性に対して疑問を持つことになります。これ
に対しての説明も必要となります。
安田氏の本事件について、一部マスメディアは「日本で起きて
いるバッシングは信じられない」といった欧米のメディア人のコ
メントを引き合いにして、わが国の異常性を強調しようとする傾
向にあります。しかし、もはや、これを座視する、あるいは鵜呑
みにして納得する国民世論ではありません。
たしかに、ウェブ上にはさまざまな扇動的、差別的な発言があ
ります。一方でウエブ上には、「群衆の叡智」を反映した秀逸な
論評が多々見られます。一部のコメンティターの勉強不足を“一
刀両断”する鋭い見識があることに、筆者は驚きを隠せません。
今回のブログバッシングは、もう一つ権力集団であるマスメデ
ィアに対する、国民の新たな監視なのです。つまり、これまでは
マスメディアが国家権力を監視していた。今度は、国民、すなわ
ちブログメディアがマスメディアを監視する力を持ち始めたので
す。これは新しい変化です。
さて、今回は少し、余談がすぎました。前回においては、兵法家
の大橋武夫氏の説を取り上げ、以下の6つの勝利の要因のなかで、
(1)英国との同盟(1902年)
(2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作
(3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇
(4)明石元二郎(大佐)の謀略工作
(5)特務機関の活動(青木宣純)
(6)奉天会戦、日本海海戦の勝利
(2)と(3)についてお話ししました。今回は(4)と(5)
についてお話しします。
▼明石大佐による諜報網の構築
明石元二郎は1864年に福岡藩で生まれ、陸軍大学を卒業後、ド
イツ留学などを経て、フランス、ロシアで公館付陸軍武官などを
歴任した。日露戦争後は台湾総督を歴任し、最終的には陸軍大将
になった。
明石は1901年にフランス公館付武官として赴任、1902年にロシ
アのサンクトペテルブルクに転任し、その後、ロシアの膨脹主義
に反発するスウェーデンに駐在武官として移動した。同地にて旧
軍の特務機関の草分け的存在である「明石機関」を設置し、ロシ
ア国内の反体制派「ボルシェビキ」への活動を支援した。
1904年1月12日の御前会議で戦争準備の開始が決定されると、
児玉源太郎参謀次長は、駐ペテルスブルク公使館付陸軍武官の明
石元次郎(当時、中佐)に対し、ロシアの主要都市に非ロシア系
外国人の情報提供者を獲得するよう命じた。
明石大佐は日露戦争では参謀本部からの工作資金100万円を活用
し、地下組織のボスであるシリヤクスと連携し、豊富な資金を反
ロシア勢力にばら撒き、反帝勢力を扇動し、日露戦争の勝利に貢
献したとされる。
当時の国家予算が2億5000万であったことから、渡された工作
資金は単純計算では現在の2000億円を越える額となり、明石の活
動に国家的支持が与えられていたことがうかがえる。
明石の活動について、児玉の後の参謀次長である長岡外史は、
「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評し、ドイツ皇帝
ヴィルヘルム2世も「明石元二郎一人で、満洲の日本軍20万人
に匹敵する戦果を上げている」と称えたと紹介する文献もある。
また一説には、明石がレーニンと会談し、レーニンが率いる社
会主義運動に日本政府が資金援助することを申し出たことや、明
石の工作が内務大臣プレーヴェの暗殺、血の日曜日事件、戦艦ポ
チョムキンの叛乱などに関与し、のちのロシア革命の成功へとつ
ながっていったとされる。また、レーニンが「日本の明石大佐に
は本当に感謝している。感謝状を出したいほどである」と述べた
との説もある。
ただし、こうした明石の活動は、明石自身が著した『落花流水』
や、司馬遼太郎が執筆した小説『坂の上の雲』によるいささか誇
張的な評価のようである。
稲葉千晴『明石工作』(丸善ライブラリー、平成7年5月)に
よれば、明石がレーニンに会談した事実や、レーニンが上記のよ
うな発言を行なった事実は確認されていない、と結論付けた。
また、稲葉氏によれば、現地でも日本のような説は流布してい
ないことが示された上で、ロシア帝国の公安警察であるオフラナ
が明石の行動確認をしており、大半の工作は失敗に終わっていた
とされる。
一方で稲葉氏は、工作(謀略)活動の成果については否定する
ものの、日露戦争における欧州での日本の情報活動が組織的にな
されていたことに注目し、その中で明石の収集した情報が量と質
で優れていたことについて評価している。
稲葉氏によれば、明石による諜報網の構築は、現地の警察当局
のきびしい監視によって阻まれるが、日露開戦までに明石は少な
くとも3名のスパイを獲得することに成功した。
そして明石の諜報網が日露戦争の終戦まで維持されたこと、明
石がロシア革命諸党の扇動工作(謀略工作)に着手することが容
認されたことは、少なくとも明石の設置した諜報が無用ではなか
ったことの証しであるといえよう。
また明石の謀略工作は陸軍中野学校の授業でも題材として取り
上げられるなど、当時の日本軍の秘密工作に大きな影響を及ぼし
たことは間違いない。
▼青木大佐による諜報網の構築
日本が満洲において、ロシア軍に勝利するためには、戦場でロ
シア軍に上回る戦力集中しなければならない。そのためには、極
東ロシア軍の総戦力を正確に判定することが必要となる。
満洲軍総司令部は、敵陣奥深くに蝶者や斥候を派遣するととも
に、欧州駐在の陸軍武官に命じて、唯一の兵站線であるシベリア
鉄道の兵員、物資の輸送量を把握することに決した。
参謀次長・児玉源太郎は、日露戦争が早晩開戦を迎えることは
必至と判断し、主戦場となる北支方面の守備を強化する必要性を
認識した。そこで、参謀本部作戦部長の福島安正に相談したとこ
ろ、袁世凱を説得できる人物として、青木宣純(あおきのりずみ、
1859~1924年)が推薦された。
青木は1897年から90年にかけて、清国公使館付武官として天津
に赴き、ここで袁世凱の要請で軍事顧問に就任し、袁との信頼関
係を構築していたのである。
1904年7月、青木は満洲軍総司令部附として北京に派遣された。
青木は、北京で特別任務班を組織し、袁の配列下にある呉佩孚
(ごはいふ)を動かして満洲とシベリアの国境一帯に諜報網を組
織してロシア軍の動向を監視した。
こうして得られた情報は、青木の後任として袁世凱の軍事顧問
の任にあたった坂西利八郎(ばんざいりはちろう)大佐を通じて、
天津駐屯地司令官の仙波太郎少将に手渡され、そこから東京の参
謀本部に転送されていった。
▼石光真清らの活躍
このほか日露戦争においては、「花大人」こと花田仲之助(は
なだちゅうのすけ、1860~1945年)中佐が、本願寺の僧侶となっ
て1897年にウララジオストクに潜伏、日露戦争時には満洲に潜入
し、スパイ活動に従事した。
石光真清(いしみつまきよ、1868~1942年)大尉は陸軍士官学
校を卒業したものの軍人を退職し、一般人の菊池正三に変装して
1899年にシベリアに渡り、スパイ活動に従事した。石光は花田帰
国後のシベリアの諜報活動において活躍した。
このほか民間人としては、日清戦争時に従軍記者として活動し
た横川省三(よこかわしょうぞう、1865~1904年)が日露戦争の
開戦にあたって、清国公使の内田康哉(うちだこうさい、のちの
外務大臣)に誘われ、特別任務班第六班班長となり、沖禎介(お
きていすけ)とともにスパイ活動に従事した。横川はロシア軍の
輸送鉄道の爆破を試み、ラマ僧に変装して満洲に潜伏するが、ハ
ルビンで捕らわれ、1904年に銃殺刑となった。
▼旧軍随一の女性スパイ「河原操子」
こうした日本軍の特務活動において、河原操子(かわはらみさ
こ、1875~1945年)が多大な活躍をした。
大本営は青木宣純大佐を長とする諜報謀略機関の特別任務班
(計71人)を北京に配置し、次の任務を与えた。
一、日支(日本、中国)協力して敵状をさぐる。
二、敵軍背後の交通線を破壊する。
三、馬賊集団を使って敵の側背(そくはい)を脅威する。
この特別任務班はロシア軍の側背地域を広く、そして縦横に活
躍しているが、その足跡をたどってみると、各班の多くが内蒙古
の喀喇沁(カラチン)王府(北京東北250キロ、承徳と赤峯の
中間)を経由しているのが目をひく。(大橋武夫『統帥綱領』)
なぜならカラチンの宮廷には河原操子がいたからである。彼女
は1875(明治8)年、信州(長野県)松本市で旧松本藩士・河原
忠の長女として生まれた。父親は明治維新後、私塾を開き漢学を
教えていた。父の忠と福島安正は幼なじみという関係にある。
長野県師範学校女子部を卒業したあと、東京女子高等師範学校
(現在のお茶の水女子大学)に入学したが、病のため翌年中退し
帰郷した。1899年に長野県立高等女学校教諭になるが、清国女子
教育に従事したいと思うようになった。
1900年夏、実践女子学園の創設者で教育界の重鎮である下田歌
子が信濃毎日新聞を訪れた時、操子は下田に「日支親善」のため
に清国女子教育への希望を申し述べた。
1900年9月、下田歌子の推薦により、操子は横浜の在日清国人
教育機関「大同学校」の教師となった。ここで2年間の教師生活
を終えて、操子は上海の務本(ウーベン)女学堂に赴任した。こ
こでは彼女は「生徒と起居を共にしてこそ教育がなせる」との信
念のもと、女学堂の衛生環境の改善に取り組みつつ、女生徒の指
導に力を尽くしたのである。
1902年の内国勧業博覧会を視察したカラチン王より、カラチン
で女子教育にあたるべき日本女性の招聘が要請された。操子の上
海での勤務ぶりに注目していた内田公使が、1903年に内蒙古カラ
チンに初めて開設された女学校「毓正(いくせい)女学堂」の教
師として、彼女を派遣した。
操子は1903年12月、驢馬の旅を9日間続けて、カラチンに赴任
した。カラチン王府は、操子の手になる毓正女学堂を支援し、王
妹と後宮(こうぐう)の侍女、官吏の子女を学ばせた。女学堂の
校長は王妃善坤であり、彼女は粛親王善耆(川島芳子の父)の妹
だった。
王妃の授助もあり、女学堂はやがて60人の生徒を数えるまでに
なる。学科は、読書、日本語、算術、歴史、習字、図画、編物、
唱歌(日本、蒙歌)、体操で、読書は日本語、蒙古語、漢語から
なっていた。操子は地理、歴史、習字の一部を除き、その他の全
教科を受け持った。
1907年まで毓正女学堂で教鞭をとり、あとの女子教育を鳥居き
み子(夫は考古学者の鳥居龍蔵)に託し、日露戦後の1906年2月に
帰国。帰国の際には女学堂の生徒3人を連れ、実践女子学園に留
学させている。帰国後、横浜正金銀行ニューヨーク副支店長の一
宮鈴太郎と結婚し渡米。1945年に熱海市で死去した。
操子のカラチン赴任には、内蒙古の戦略的要衝の地に親日勢力
を扶植(ふしょく)する、日本人が常駐せずに生じていた工作網
の間隙を埋めるという日本側の思惑があった。その赴任には北京
からカラチンまでの沿道地図を作成するために参謀本部の軍人が
同道していたように、国家の密命をおびた派遣であった。
日清戦争後の三国干渉によって日本を譲歩させたロシアは、満
洲に軍事力を展開し、さらには朝鮮半島に触手を伸ばし始めてい
た。それに対し、日本はロシアのライバルであるイギリスとの同
盟締結に成功してロシアに備えた。
日露戦争が迫り来る過程で、内蒙古にもロシアの手が伸びてい
たが、日本を訪れたことのあるカラチン王だけは日本に好意的で
あった。カラチンには日本の軍事顧問も派遣されていたが、戦争
が勃発すれば武官の滞在は認められない。そこで、粛親王の顧問
を務める川島浪速(かわしまなにわ、1866〜1945年)や陸軍の福
島安正ら松本の同郷人の思惑が内田公使を動かし、カラチンに民
間人の操子を派遣することになった次第である。
操子は教育活動とは別に、カラチン王府内の親露勢力の動向を
探る「沈」としての使命を果している。諜報・秘密工作の使命を
受けた横川省三などは途中カラチンに立ち寄り、その際は操子が
彼らの世話をした。それぞれ潜入中の特別任務班員とのやりとり
は、王府内に親露派が多くいたので苦心があった。中国名での秘
密の情報交換ほか、操子はカラチン王夫妻にも守られ、任務を果
たすことができた。
操子は、この頃続々と入り込むロシア工作員たちの猛烈な働き
かけを排して、カラチンの親日政策を守りとおし、常にロシア軍
の動静を北京に報告するとともに(彼女には文才があった)、こ
の地を経由する特別任務班員に対し、物心両面にわたる非常な援
助を与えた。(大橋武夫『統帥綱領』)
大橋武夫『統帥綱領』
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▼愛国心の泉「からゆきさん」
そのほか日清・日露戦争時期においては、東アジア・東南アジ
アに渡って娼婦として働いた日本人女性「からゆきさん」が、日
本軍の貴重な情報源となった。
日露戦争では、マダガスカルに入ったバルチック艦隊の所在を
電報で送ったのも遠い異国に送られた「からゆきさん」であった
という。マラッカ海峡を四十数隻のバルチック艦隊が通過してい
るのを見て、「からゆきさん」たちは現地領事館に駆け込み、金
銭、着物、かんざしなどを提供し、「お国のために使って下さい」
と言ったという逸話もある。
前出の石光真清は1899年にシベリアに渡り、90年2月、寄宿先の
コザック連帯騎兵大尉ポポフにともなわれて愛暉に入り、そこで
諜報活動の得難い担い手となる水野花(お花)と出会う。彼女は
馬賊の頭目の妾であった。ハルビンに潜入する際には、お君とい
う女性の計らいで馬賊の頭目増世策に会い、その手引きで中国人
の洗濯夫人に化けてハルビンに到着した。
彼女たちは「シベリアのからゆきさん」で、1883(明治16)年
ごろにウラジオストクに現れたという。九州天草地方の出身者が
多く、その数は増えていった。
お花とお君も馬賊の頭目の妾などとなっていたが、2人とも中
国語、変装術、人事掌握術など、どれをとっても天下一品であっ
た。やがて彼女たちは石光真清のスパイ活動に協力して大活躍す
る。そこには馬賊に対するむごい仕打ちを行なったロシア軍への
反感と、故郷日本に対する愛国心が満ち溢れていた。彼女たちの
交流は石光真清の自伝『曠野の花―石光真清の手記2』(*)に詳
述されている。(*)
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このように日清・日露戦争においては、名もない女性たちの活
躍があった。彼女たちは出自に恵まれず、高等教育を受ける機会
もなく、貧乏がゆえに親元を離れて遠い異国に渡ったが、日本を
愛していた。故国のためなら犠牲もいとわず、その愛国心の泉は
いつも満ち溢れていたのである。
(次号に続く)
(うえだあつもり)
上田さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
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【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関係
論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調査
学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年に
かけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤務
し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教官
をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛省
情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。2015年定
年退官。現在、軍事アナリストとしてメルマガ「軍事情報」に連
載中。著書に『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11
月)、『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』(蒼蒼社、
2008年9月)、『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引
き』(並木書房、2016年1月)、『中国が仕掛けるインテリジェ
ンス戦争―国家戦略に基づく分析』(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)など。
ブログ:「インテリジェンスの匠」
http://Atsumori.shop
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
http://okigunnji.com/url/312/
※女性という斬り口から描き出す世界情報史
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
http://okigunnji.com/url/161/
※兵法をインテリジェンスに活かす
『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』
http://okigunnji.com/url/93/
※インテリジェンス戦争に負けない心構えを築く
『戦略的インテリジェンス入門』
http://okigunnji.com/url/38/
※キーワードは「成果を出す、一般国民、教科書」
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