こんにちは。エンリケです。
「陸軍経理部」第四十三話は、
軍馬をめぐるはなしの最終回です。
さっそくお読みください。
エンリケ
「日本陸軍の兵站戦」バックナンバー
http://okigunnji.com/url/230/
ご意見・ご感想はコチラから
↓
http://okigunnji.com/1tan/lc/toiawase.html
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
陸軍経理部(43)
蒙古襲来と武士たち(6)季長のその後──軍馬の話(29)
荒木 肇
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
□お礼
皆さまからのお便りはほんとうに有り難く思います。
FRさま、いつもご愛読ありがとうございます。過分なお褒めの
言葉にいささか恥ずかしい思いがいたします。歴史の記述はあま
りに「高い目線」で描かれることが多く、細かい、些細な事実の
積み重ねはほとんど無視されてきました。とりわけ、武器、兵器
や戦闘についてはほとんど顧りみられませんでした。それを少し
でも補うために、せいぜい努めております。今後ともよろしくお
願いいたします。
HYさま、おっしゃっていただいたこと、まさにわが意を得たり
という心境です。江戸時代中期以降の素肌戦闘でも、鎧下の「鎖
帷子」「着込み」着用が常識になっていたようです。そのときに、
小さな鎖のほころびも見落とすな、そこから鑓の穂先が入ってく
るぞと組頭が部下を戒めたという話が残っています。
剣道の防具を斬られたとか。なるほどです。幕末の戦闘などで
は、けっこう剣術の竹胴や革胴を着けた人がいますが、それが防
備に有効だったからでしょう。また、近代以降の軍事学の用語な
どで解説すると、戦闘の実相などが浮かび上がってきます。これ
からもお励まし、ご教示のほどをよろしくお願いいたします。
▼鷹島合戦の記録
これまでの通説では、閏7月7日に鷹島(たかしま)で蒙古軍
全軍との決戦が行なわれたとなっていた。しかし、それは誤りだ
った。「神風」の威力を大げさにいう、当時の京都の権力者たち
の伝聞、あるいは利益誘導をねらったウソによる記述を真に受け
たものばかりだったからだ。
5日の博多湾に続いた合戦とは別に、7日に鷹島でも行なわれ
たことが、さまざまな研究から明らかになった。季長は5日の合
戦で敵船に乗り込み、格闘の末に敵の首を獲った。そのときに、
腕を矢で負傷し、鷹島での戦闘には参加していない。したがって
『蒙古襲来絵詞』も博多湾での出来事で終わっている。
鷹島でも激しい戦闘が行なわれたことは明らかである。元の側
のいくつかの資料に、鷹島を「白骨山」、「骸山(むくろやま)」、
「髑髏山(どくろさん)」、「枯髏山(ころさん)」などと表記
してあるものがある。また有名な文章だが、『元史』には、『十
万之衆得還者三人耳(じゅうまんのしゅう、かえりえるもの、さ
んにんのみ)という記述がある。
敗戦の後に発表された元の側の人物評伝や詩文には死体が山積
した様子が描かれている。よほどの激戦場だったということだ。
しかも、戦闘は海上でばかり行なわれたわけではなかった。それ
にしても、中国の歴史書の伝統文化であるオーバーな物言いはい
つものことだが、「十万人のうち帰還者は三人のみ」というのは、
まさに筆を曲げ文が舞うという典型だろう。それほどのことはな
かっただろうが、いずれにせよ、蒙古軍の指揮官たちの継戦意欲
をそぐような損害が出たことは確かだ。
日本側にはいくつか鷹島での戦闘について書かれたものが残っ
ている(服部氏の論文による)。
肥前国御家人黒尾社大宮司(だいぐうじ)藤原資門(すけかど)
の上表文である。
「千崎沖で敵船に乗り移り、資門は傷を負ったが、捕虜を1名、
分取(ぶんどり・首を獲ったこと)1です。また鷹島の棟原でも
進んで攻撃を行い、捕虜を2名得ました」
千崎は現在の長崎県松浦市星鹿町津崎鼻(ほしかちょう・つざ
きはな)の可能性が高い。大きな敵船に勇敢にも小舟で漕ぎ寄せ、
移乗して戦闘を行なった。自分も負傷したが、将校級の首を獲り、
敵兵を1名捕獲したのだろう。また、棟原(位置不明)では2名
の降伏する敵兵を捕えた。
豊後国御家人都甲惟親(とこう・これちか)も次のような報告
をしている。
「閏7月7日、蒙古の兇徒が鷹島に着岸したので、星鹿(ほしか)
に急行し、巳(み・午前10時ころ)の時に惟親が鷹島に上陸し、
東浜で交戦、惟親の子惟遠(これとお)が敵の首を獲りました。
さらに家来の重遠(しげとお)は傷を受け、旗差(はたさし・旗
手)の下人が1人、末守(すえもり)も負傷しました」
薩摩国御家人比志島時範(ひしじま・としのり)の文書には、
「七月七日鷹嶋合戦之時、自陸地馳向事」。すなわち陸地から馳
せ向かった(騎馬で急行した)とある。いずれであれ、出撃したの
は星鹿、千崎(津崎と解釈される)だった。
鷹島には島の東側に西松浦郡星賀という地名と、西には北松浦
郡星鹿という場所がある。千崎に近いのは西側の星鹿になる。地
図で見ると、その距離は南へほぼ1キロである。この千崎と星鹿
から東南にあたるのが伊万里湾(いまりわん)だから、湾の入り
口にあたる。ただ解釈に難しいのは「東浜」で戦ったとある。東
浜に近いのは、逆に東方にあたる西松浦郡の星賀なので、場所を
特定することが難しくなっている。
▼封鎖作戦鷹島での戦闘
蒙古軍の軍船が集結する伊万里湾には、湾口から満ち潮に乗っ
て進入したのだろう。西方の星鹿から鷹島西岸には約4キロ、東
岸まで8キロ。7日だから月齢は6である。満潮が深夜0時と午
後1時、干潮は朝6時30分と夕方の午後6時。深夜0時から、
子、丑、寅、卯、辰、巳だから、巳刻は午前10時になる。つま
り日本戦隊は湾口から奥に向かって満潮の汐に乗って進撃した。
逆に湾内に碇泊する蒙古船は潮に逆らって湾外にはとても出に
くい。千崎と鷹島の間には青島・伊豆島・魚固島(おごのしま)
といった小さな島が点在している。そういう島々の間を潮は流れ
てくる。蒙古軍が湾口に向けて出撃するのは難しい。おそらく馬
は陸上にあげられ、世話をする者たちも船にはいなかっただろう。
戦闘員もまた、風雨に痛められた船や装備品の補修や整備に気を
取られていたにちがいない。
都人(みやこびと)がいうように「神風」で蒙古軍が全滅した
なら、もう攻撃は必要ないだろう。しかし、最前線は戦ったのだ。
そこに異国の兇徒がいるからだ。しかも戦意を失っているように
も見られない。攻勢に移る構えも示している。だからこそ、わが
先人たちは決死の敢闘を挑んでいるのだ。
いま海底調査が進み、松浦市鷹島、神埼沖の海底から多くの遺
物が発見されている。高級将校のもった銅印が出てきたり、近く
の海岸からは漆器の椀などが掘りだされたりした。青磁の椀、官
名が記された物もある。その中に「征日本軍」の存在を示す文字
もあった。2017年までに発見された沈没船は3~4隻と推定
されている。また詳しい調査では沈船の可能性のある場所は約2
0か所もあるようだ。このようなことから服部氏も沈没したのは
20隻くらいではないかと推論される。
▼戦いは終わった
元の将軍たちで帰還した者の名前もわかっている。
「江淮軍戦艦数百艘を領して日本に東征し、『全軍而還』し功績
で養老百戸、衣服、弓矢、鞍、轡(くつわ)を得た」とされるイ
ェスデルという将軍がいた。つまり、一艘も失わずに全軍は無事、
帰還したというのだ。元の記録であるから全面的には信用できな
いが、戦功を認められた高官もいたことがわかる。
張禧(ちょうき)という将軍は、鷹島に70頭の馬を捨ててき
たと記録されている。少しでも多くの人員を乗せ、帰国するには
仕方ない犠牲である。この張は、作戦会議で撤退を提案した范文
虎に対して戦闘継続を主張したことがわかっている。一部にはな
お、戦力に自信をもち、いま一歩だと主張した将官たちもいたの
だろう。しかし、撤退の決定が下された以上、物資も捨て、馬も
捨てたにちがいない。わが武士たちは喜んで馬を捕獲し、自分た
ちのものとしただろう。
博多湾、志賀島を占拠した東路軍は生還率が高かった。これに
対して鷹島にいた江南軍は損害が大きかった。これは元の解釈で
は、高麗で造られた船は堅牢であったのに対し、江南軍の軍船は
もろく、壊れやすかったとある。降伏した宋の海軍の船を修理し、
再整備したものだったからだという。
▼捕虜について
2~3万人が捕虜になったという。先の張成の碑文である(生
還した高麗の高級将校の顕彰碑だからすべてを信用はできないが)。
蒙古、高麗、漢人はみな殺しにあったそうだ。漢人というのは中
国北方の民族で女真族などといわれ、「金」を建国し、元に降伏
した者たちである。「漢語」を話した。華中の出身で「呉音」を
使う宋人は「唐人」とみなされて殺されず、奴隷にされたという。
長い間の友好国だからだろう。
『高麗史』には、日本人は工匠(こうしょう)や田をよく知る農
業技術者は生かし、その他を殺したと書く。ただ、捕虜をそれほ
ど殺したのだろうか。ならば、戦場ですべて「分取(ぶんどり・
首を獲ること)」して殺してしまえばいい。それを多くの御家人
たちは「生け捕り」もしている。抵抗する意思もなく、武器を捨
てて命乞いをする者を、むやみに殺さないのは武士の作法でもあ
った。捕虜は手がかかる。食わせて、怪我をしていれば手当てを
し、逃亡や反抗を防ぐためには監視しなくてはならない。それな
のに、この後も処分が決まらない捕虜たちは、御家人たちが預か
っていたのである。
▼高麗王からの感謝状
捕虜は皆殺しにされたと言いながら、妙な国書が残っている。
それは11年後のことだ。1292(正応5)年のことだった。
高麗から国使がやってきた。耽羅(たんら・済州島)に漂着した
日本人商船員を護送するためだ。「日本国王殿下」への高麗王の
手紙をもってきていた。内容はやはり元との通商を勧めるものだ
った。
大宰府では、鎌倉へこの使者を送った。この国書の内容は、
『高麗史』にも残り、写しは神奈川県の横浜市にある金沢文庫
(かなざわ・ぶんこ)に所蔵されている。
「わが戦艦は、風濤(ふうとう・風波)が激しかったことで、
沈没したものもあり、将兵の中には帰還できなかった者もいる。
ここに耽羅で救助し、送り届ける商人の言葉によれば、貴国では
それらを収容してくれて、養ってくれているとか。まさに殺生を
しない聖徳の行ないに似ている。たいへん有り難く、幸せに思っ
ている」
先人たちは蒙古軍のごとく、あるいは高麗軍のように、無益な
殺生などは好まなかった。
▼季長への褒章
さて、多くの教科書や読み物には、季長が肥後国海東郡の地頭
職に補せられたと書かれてきた。これはほんとうだろうか。とい
うのは、当時、内戦だったなら敗れた者の土地を勝者側の褒美に
使うことができた。ところが、今回は外敵である。奮戦したのは
「合戦に忠した」というように、戦闘行為は奉公のためにしたこ
とだった。損害も受けたし、親類や縁者、部下も死なせてしまっ
た者もいた。それに報いるために土地をあてがおうにも、元にな
る土地は少しもなかった。
服部氏の指摘によると、過去の研究者が信じた「元寇の手柄で
地頭職を得た」というのは、後世の加筆、ニセ文書に騙されたも
のだという。その詳しい推理と考証については服部氏の論文・著
作に詳しい。ここでは、その後の「絵詞」に書かれた季長につい
て紹介しておくことにする。
季長は鎌倉に出かけた。一族はみな反対した。というのも、恩
賞の基準は「分取、討死」だった。分取とは敵の指揮官級の首を
獲ること、討死とは文字通り、戦闘によって勇ましく死ぬことを
指した。一般兵卒の首を獲っても価値はない。季長は敵船に乗り
移り勇戦し、2人を斬り倒し、1人の首を獲ってきていた。しか
し、負傷はしても自分が死んでいるわけではなかった。
大宰府では120人の恩賞を鎌倉に上申した。担当者の少弐氏
からも「今回は残念だった」といわれ、「鎌倉へ行っても希望は
かなわない」ともいわれたらしい。それでも季長は鎌倉へ向かっ
た。安達泰盛(あだち・やすもり、1231~85年)に会いに
行ったのだ。泰盛は若くして幕府引付衆(ひきつけしゅう・議員)
になり、秋田城介(あきた・じょうのすけ)の官名を父親から継
承した。執権北条泰時(ほうじょう・やすとき)の姪を妻として
いた。鎌倉御家人の中でも名家の出身である。季長が面談を求め
たときには「恩賞奉行」だった。
季長は絵詞にも描かれるが、泰盛から褒められ、馬と、その具
足をもらえた。これは当時の勲功に対する褒章としての「勧賞
(かんじょう)」にあたるものだろう。こうした事実から、何が
読み取れるか。まず、季長はやはり御家人の中ではかなり上位の
者だった。恩賞が貰えないことに不満で鎌倉へ出かけ、幕府有力
者に面談できる。そのうえ、私的なものとはいえ、褒美に馬や具
足を貰えたのだ。
また、季長の烏帽子親は長門国守護代の三井芳成である。守護
代と正規守護は深い信頼関係で結ばれている。長門国守護二階堂
行忠(にかいどう・ゆきただ)は幕府評定衆(ひょうじょうしゅ
う・各省大臣のようなもの)の同僚として安達泰盛とは親しい間
柄だった。二階堂の娘は泰盛の異母弟長景(ながかげ)の妻でも
あった。
そうして泰盛は文永9(1272)年から肥後国守護だった。
安達氏はもともと頼朝の挙兵以前からの腹心の家柄であり、関東
が本拠地である。遠い九州、肥後国はなんとも情報が少ない。そ
こで自分の仲間に近い季長を肥後国の安達家所領の中で地頭代に
でも登用したのではないだろうか。
皮肉なことに、この後、安達泰盛は失脚してしまう。1285
(弘安8)年の「霜月騒動(しもつきそうどう)」という。対立
した内管領(うちかんれい)平頼綱(たいらのよりつな)の讒言
(ざんげん)で一族が滅ぼされてしまう。それに協力して挙兵し
た少弐景資(しょうに・かげすけ)も誅滅されてしまった。これ
らの動きに季長は関わらなかった。海東郷の支配者として家を続
けて行くことができた。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
☆「日本陸軍の兵站戦」のバックナンバー
⇒
http://okigunnji.com/url/230/
荒木さんへのメッセージ、ご意見・ご感想は、
このURLからお知らせください。
↓
http://okigunnji.com/1tan/lc/toiawase.html
●著者略歴
荒木 肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
PS
弊マガジンへのご意見、投稿は、投稿者氏名等の個人情報を伏
せたうえで、メルマガ誌上及びメールマガジン「軍事情報」が
主催運営するインターネット上のサービス(携帯サイトを含
む)で紹介させて頂くことがございます。あらかじめご了承く
ださい。
最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝しています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感謝しています。
そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、心から感謝
しています。ありがとうございました。
--------------------------------------------------------
メールマガジン「軍事情報」
発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
メインサイト:
http://okigunnji.com/
問い合わせはこちら:
http://okigunnji.com/url/169/
メールアドレス:okirakumagmag■■gmail.com
(■■を@に置き換えてください)
--------------------------------------------------------
配信停止はこちらから
https://1lejend.com/d.php?t=test&m=example%40example.com
投稿文の著作権は各投稿者に帰属します。
その他すべての文章・記事の著作権は
メールマガジン「軍事情報」発行人に帰
属します。
Copyright(c) 2000-2018 Gunjijouhou.All rights reserved.