配信日時 2018/10/30 20:00

【わが国の情報史(20)】日露戦争勝利の要因(その2) -戦略的インテリジェンスとシビリアンコントロール- 上田篤盛

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
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こんにちは、エンリケです。

必死になって祖国を守ってくれた方々の話に接し、
思わず視野がぼやけるのは私だけでしょうか?

さっそくどうぞ


エンリケ



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わが国の情報史(20)

日露戦争勝利の要因(その2)

-戦略的インテリジェンスとシビリアンコントロール-

     インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 さて、今回は少し長編になりましたので、早速本題に入ります。
前回から日露戦争における勝利の要因についてインテリジェンス
の視点から考察しています。

 前回においては、兵法家の大橋武夫氏の説を取り上げ、以下の
6つの勝利の要因を挙げ、なかでも(1)の英国との同盟に焦点
を当てました。

(1)英国との同盟(1902年)
(2)開戦から始められた金子堅太郎の終戦工作
(3)高橋是清の資金獲得とロシアに対する資金枯渇
(4)明石元二郎(大佐)の謀略工作
(5)特務機関の活動(青木宣純)
(6)奉天会戦、日本海海戦の勝利

 今回は、(2)の金子堅太郎の活躍を中心に、若干(3)の高
橋是清の活躍についても触れつつ、日露戦争の勝利の要因を考察
したいと思います。

▼日露戦争に向けた政治指導体制

 日清戦争後、桂太郎(1848~1913年)は第三次伊藤内閣(1898
年1月~同年6月)で陸軍大臣として初入閣し、その後も出世街
道を驀進した。そして明治34年(1901年)6月、第一次桂太郎
内閣が誕生することになる。

 この内閣は、海軍大臣・山本権兵衛(1852~1933年)と陸軍大
臣・児玉源太郎(1852~1906年)の留任を除いては、そのほかは
初めて大臣になるという官僚が大半であった。しかも、その多く
が内務省出身の山県(有朋)閥の官僚であったため、世人は「小
山県内閣」「第二流内閣」と揶揄した。しかし、この桂内閣が日
露戦争を戦い、わが国の歴史上の大勝利をもたらしたのである。

 桂は1901年9月に小村寿太郎を外相に起用して日英同盟の
締結を目指した。二人にとって、その先にあるものはロシア問題
の解決にほかならなかった。当時、ロシア問題をめぐっては日本
政府内では山県、桂、小村らの対露主戦派と、伊藤、井上馨らの
戦争回避派との論争が続いていた。桂はこれらの元老たちの意向
を汲み、微妙に調整しつつ、わが国の生存・発展戦略を模索しな
ければならなかった。
 
 1902年に成立した日英同盟を背景に山県・桂らの主戦派は、
伊藤らの戦争回避派に対する分裂工作を仕掛けるなど、政界にお
ける影響力の増大に努めた。1903年(明治36年)4月21
日に京都にあった山県の別荘で両派による対ロ方針に関する会議
が行なわれた。

 この会議において桂は、満洲に対してはロシアの優越権を認め
る、そのかわりに、朝鮮においては日本の優越権を認めさせる、
これらが貫徹できなければ戦争も辞さない、との対ロ交渉方針を
掲げ伊藤と山県の同意を得た。

 しかしながら、桂の予測どおりともいうべきか、ロシアの南下
政策は一向にとどまることない。ついに1904年(明治37年)、
桂内閣はロシアとの開戦を決意し、同年2月4日に日露戦争の火
ぶたが切って落とされることになる。

▼日露戦争に向けた軍事指導体制

 他方、日露戦争までの軍事指導体制に焦点をあててみることに
しよう。1998年に川上操六(1848~1899年)が参謀総長に就
任し、作戦を司る第1部長に田村怡与造(1854~1903年)、情報
を司る第2部長に福島安正(1852~1919年)を登用した。これに
より作戦と情報の両輪体制が整い、ロシアとの対立を視野におい
た軍事指導体制が確立された。

 しかし、1899年5月に頼みの綱であった川上操六が急死す
る。まさに日本は“飛車堕ち”の危機的状況に瀕した。その応急
的措置として、長老の大山巌(1842~1916年)が参謀総長に就任
し、同次長には寺内正毅(てらうち まさたけ、1852~1919年)が
就任した。

 ただし、参謀本部の実権は徐々に川上の申し子である田村へと
移っていく。田村は1900年4月に陸軍少将に進級し、第1部
長兼ねて参謀本部総務部長となり、その存在感を陸軍内にとどろ
かせていた。

 一方、第一次桂内閣において陸軍大臣に留任した児玉は、19
02年3月に陸軍大臣の職を解かれ、まもなくして内務大臣に転
任した。その陸軍大臣の後任には参謀本部次長の寺内が就任した。
これにより、1902年4月、田村が寺内の後任として参謀本部
次長に就任した。つまり、ロシアに対する軍事作戦の責任が田村
に任されたのである。

 田村自身は、大山総参謀長と同じく日露開戦には慎重であった
が、ロシアとの戦争を想定して戦略・戦術を練った。これが、ま
もなく生起する日露戦争において功を奏したことはいうまでもな
い。

 しかし、その田村も川上と同様に過労のため、日露戦争開戦の
前年の1903年10月に死去してしまうのであった。享年50
歳であった。なお、田村は同日に陸軍中将に進級した。

 川上、田村という陸軍の英傑を相次いで失ったわが軍の憔悴ぶ
りは、いかばかりであったろうか?

 この“火中の栗”を拾うとばかりに立ち上がったのが児玉であ
る。児玉は内務大臣から二階級降格(親任官から勅任官の下の奏
任官)の形で(ただし、親任官の台湾総督を兼任したままであっ
たので実質的な降格ではなかった)参謀本部次長に就任した。

 田村と違って児玉は日露開戦の積極派である。当時、田村と海
軍の山本権兵衛はそりが合わなかったが、児玉が参謀本部次長に
就任したことで、陸・海において協同の気風が生まれ、日露開戦
へと一歩近づくことになる。

 日露戦争の開戦の直後の1904年2月11日、陸軍参謀本部
のほぼそのままの陣営を維持して、戦時大本営が設置された。大
本営参謀総長には参謀総長の大山(元帥)、同次長には児玉(大
将)が就任した。

 一方、現地の作戦指揮を一元的に行なうことを狙いに1904
年6月に満洲軍総司令部が設置された。その総司令官には参謀総
長であった大山があてられ、満洲軍総参謀長には児玉が就任した。

 そして、高級参謀として作戦を司る第1課の課長に松川敏胤
(参謀本部第1部長、歩兵大佐)、同主任に田中義一(歩兵少佐、
のちの総理大臣)、情報を司る第2課の課長に福島安正(同第2
部長、少将)、後方を担当する第3課の課長に井口省吾(同総務
部長、少将)が就任した。

 また、大山および児玉の満洲軍への派遣により、大本営総参謀
長には山県有朋(1838~1922年)、同次長には新たに長岡外史
(1858~1933年)が就任した。

▼わが国は「6分4分」の勝負を戦略とする

 事前に「勝利は間違いなし」と判断した日清戦争とは異なり、
日露戦争では明治天皇は戦争決断に際して落涙されたと伝えられ
ている。当時のロシアは、日本の約10倍の国家予算と軍事力を
誇り、国際の見方はロシアの圧倒的な有利であった。

 相澤邦衛『「クラウゼヴィッツの戦争論」と日露戦争の勝利』
では、次のように述べている。

 「日露戦争当時のわが国の指導者は、ロシアと日本との国力差を
 認識し、完全勝利はできないし、長期戦になれば、日本に勝ち目
 がないと判断していた。そこで、ロシア軍の情勢を分析するなか
 で、開戦時期を『シベリア鉄道が完全に完成せず、欧州ロシアか
 ら送られてくる同国の満州派遣軍の主力が到着する以前とする』
 とした。
 そして日本側の条件は、『武器弾薬の自前生産が可能な大阪砲
兵工廠などの軍需工場の完成、八幡製鉄所等工業力の充実、袁世
凱の協力を得ての豊富な資源を埋蔵する満州からの石炭の調達、
など戦闘準備を終えてから日本軍は一挙に大軍を韓半島・満州へ
兵力を送るべく、戦場予定地への動員体制をとっていく。そして
満州において日本軍が優勢な内に、宣戦布告と同時に緒戦におい
て一気に満州在住のロシア軍を撃破しておく』という練りに練っ
た作戦構想を立てた。」

 つまりわが国は、敵の準備未完の好機を捕捉し、ロシア側を上
回る大軍を要事要点に集中して緒戦において勝利する。これによ
り、国際世論において日本の地位を高めて、戦争遂行に必要な外
債募集を容易にすることを狙ったのである。

 児玉源太郎・満州軍総参謀長の腹積もりは短期決戦、すなわち
「6分4分」の勝負に持ち込むというものであった。そこで児玉
は、開戦と同時に盟友の杉山茂丸や中島久万吉(桂太郎首相秘書
官)に終戦工作を依頼した。奉天会戦の勝利後は、児玉は元老や
閣僚たちに対して終戦を説いて回った。

▼戦略的インテリジェンスの勝利

 開戦とともにわが陸軍は連戦連勝して北進し、1905年3月
には奉天会戦で大勝利を得た。しかしながら、大局的にみれば、
ロシア軍は外国領内を約300キロ後退させたにすぎず、軍その
ものも致命的な打撃は受けていない。

 1905年5月27日の日本海海戦の完勝により、わが海軍は見
事に大挙来攻するバルチック艦隊の進撃を粉砕して、ロシアの戦
意を挫折させた。しかし、進んでその首都を占領するまでの力は
わが国にはなかった。

 つまり、わが国はロシア領土内に一寸も進攻しておらず、米国
による和解仲介によってやっとのことで辛勝したのである。

 そのため、戦争の緒戦に勝利して有利な体制で終戦に持ち込む、
それが、わが国の国家戦略であった。ここには「戦わずして勝つ」
「計量的思考」「速戦即決」を信条とする『孫子兵法』が縦横無
尽に応用されたとみるべきであろう。

 それにもまして、こうした戦略を可能にならしめたのが的確な
情勢判断であった。当時の指導者はロシアを取り巻く国際情勢を
知悉し、「世界列強は日露両国のいずれが勝ちすぎても、負けす
ぎても困る」という事情を的確に判断していた(大橋武夫『統帥
綱領』)。

 的確な情勢判断を支える唯一無比なものが戦略的インテリジェ
ンスである。わが国は、そのインテリジェンス能力を過分なく発
揮し、英国との同盟をよく維持し、米国を和解仲介へと引きずり
込んだのであった。

▼金子賢太郎の終戦工作

 政治と軍事の連携という点では、金子堅太郎(かねこ けんた
ろう、1853~1942年)の活躍が特筆される。

 金子は明治の官僚・政治家である。彼は1871年、岩倉使節
団に同行した藩主・黒田長知の随行員となり、のちの三井財閥の
総帥となる團琢磨(だんたくま、1858~1932年)とともに米国に
留学した。彼が18歳の時のことである。

 1878年9月、金子は25歳で帰国する。その後まもなくし
て、内閣総理大臣・伊藤博文の秘書官として、伊東巳代治(いと
うみよじ,1857~1934年)、井上毅(いのうえこわし,1844~18
95年)らとともに大日本帝国憲法の起草に尽力した。彼は伊藤博
文から厚く信頼され、第2次伊藤内閣の農商務次官、第3次伊藤
内閣の農商務大臣、第4次伊藤内閣の司法大臣を歴任した。また
教育者でもあり、日本法律学校(現・日本大学)の初代校長を歴
任した。

 金子は米国に留学して、はじめはボストンの小学校に入学する
が、飛び級で中学に進学し、最終的にハーバー大学で法学士の学
位を受領した。ハーバードにおける修学では、のちの外務大臣と
なる小村壽太郎(1855〜1911年)と同宿し勉学に励んだ。

 またハーバード大学における修学が縁で、日露戦争時の米大統
領となるセオドア・ルーズベルト(1858~1919年)の知己を得る
ことができた。ルーズベルトも同大学の卒業生であり、のちに彼
が弁護士となり日本を訪れた時に二人は知り合い、金子が議会制
度調査のために再び渡米するなどして、両者は厚く親交を結ぶよ
うになった。

 上述のようにわが国の戦略は「緒戦勝利、早期終戦」であった
ため、第三国に終戦工作を行なわせることが課題であった。その
命運を枢密院議長の伊藤博文によって託されたのが、ルーズベル
ト大統領にもっとも親しい日本人であった金子であった。
 
 金子は、伊藤の説得を受けて日露戦争勃発の直後に単独で渡米
した。彼は日露戦争終結後のポーツマス講和会議(1905年8月)
が終了する1905年10月までずっと米国に滞在して、ルーズ
ベルト大統領に常に接触し、戦争遂行を有利に進めるべく親日世
論工作を展開した。

 ポーツマス会議においては、償金問題と樺太割譲問題で日露双
方の意見が対立して交渉が暗礁に乗り上げたとき、外相でもあっ
た小村壽太郎全権より依頼を受け、ルーズベルト大統領と会見し
てその援助を求めて講和の成立に貢献した。

▼金子の米国における大活躍

 この時の金子の活躍ぶりは、前坂俊之著『明治三七年のインテ
リジェンス外交』(祥伝社新書))に詳述されている。そのなか
からいくつかのエピソードを拾ってみたい。
 
・日露戦争の開戦を決定した御前会議を終えた伊藤博文は、官邸
に帰ると、すぐ電語で腹心の金子堅太郎(前農商務大臣、貴族院
議員)を呼んだ。
 伊藤は「ついに開戦が決まった。戦争は何年続くかわからない。
私も鉄砲かついでロシア兵と戦う覚悟だ。君は直ちにアメリカに
とび、親友のルーズベルト大統領に和平調停に乗り出すよう説得
してもらいたい」と告げた。

・密命を帯びた金子は(1904年)3月26日、ホワイトハウスに大
領を訪ねた。数十人の客が待っていたが、大統領は自ら廊下を走
って出てきて「君はなぜもっと早く来なかったか。僕は待ってい
たのに」と肩を抱きあって大喜びし、執務室へ招き入れた。開口
一番、「今回の戦争で米国民は日本に対して満腔の同情を寄せて
いる。軍事力を比較研究した結果、必ず日本が勝つ」と断言した
のには金子の方が驚いた。

・金子はルーズベルト大統領、ハーバード人脈をフルに活用して、
全米各地を回って世論工作、外債募集にと獅子奮迅の活躍が見せ
た。ルーズベルト大統領も「日本の最良の友!」として努力する
ことを金子に約束した。

・全米での日露戦争への関心は高く、金子は政治家、財界人、弁
護士、大学人らのパーティーなどに引っ張りだこで、講演依頼が
殺到する。英語スピーチの達人の金子は大聴衆を前に日本軍の強
さ、武士道精神を説明して感銘をあたえ、日本びいきを増やして
いった。

・“勝った、勝った”の日露戦争も明治38年3月10日、奉天
での勝利までが限界。弾薬も尽き果てて、兵隊も金もなく、戦争
継続はもはや困難な状況となった。一方、ロシアは強大な兵力、
武器を温存、これ以上戦えば日本はひとたまりもない。
 参謀総長・山県有朋は絶体絶命のピンチを桂首相へ報告し、ル
ーズベルト大統領の和平調停に望みを託した。大統領はここぞと
腰を上げて仲介、ポーツマス会議となった。仲介役の大統領は
「日本の弁護士のようだ」といわれるほど交渉の秘密文書も金子
に自由に見せるなど逐一情報をいれて、交渉決裂寸前に「条件に
金銭を要求せず、名誉を重んずる」講和条件で、何とか平和にこ
ぎつけた。

▼金子堅太郎の思想的背景に武士道精神あり

 実際、日露戦争末期、日本の国家財政は軍事費の圧迫により破
綻寸前であった。日露戦争には19億円の戦費を費やしたが、こ
れは当時の国家予算の約3倍にも上った。

 日本兵の死傷者数も甚大であった。とくに陸軍では士官クラス
がほとんど戦死するという壮絶な状況まで追い込まれていた。と
ても組織的な戦闘継続は不可能に近い状態となっていた。

 金子は終戦工作を成功裏に収めることができたのは、彼が米国
留学の経験から米国民の国民性をよく理解していたことや、彼の
英語能力と弁術の優秀さがあげられる。それにもまして、武士道
精神を体現した金子の言動が多くの米国人の信頼を得たのである。

 ルーズベルト大統領は「日本人の精神がわかる本を教えてほし
い」と依頼し、金子は新渡戸稲造の『武士道』の英訳本を贈った。
大統領はこれを読んで感激し、30冊を購入して知人に配布し、
5人の子供にも熟読するように指示するなど、一層、日本びいき
になった、という。(前述、前坂『明治三七年のインテリジェン
ス外交』)

▼高橋是清の資金獲得

 軍事と経済との連携においては高橋是清の活躍が特筆される。
いうまでもなく、戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠である。
この資金を調達したのが、当時の日本銀行副総裁の高橋是清であ
る。

 高橋は、日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨
調達に非常に苦心した。日清戦争において相当の戦費が海外に流
失したので、その穴埋めのための膨大な外貨調達が必要であった。
しかし、開戦とともに日本の外債は暴落しており、外債発行もま
ったく引き受け手が現れない状況であった。

 日露戦争が勃発した直後の1904年2月24日、高橋是清は
まず米国に向かった。高橋はニューヨークに直行して、数人の銀
行家に外債募集の可能性を諮ったが、米国自体が産業発展のため
に外国資本を誘致しなければならない状態で、とうてい起債は無
理とのことであった。

 そこで、高橋は米国を飛び立ち英国に向かった。しかし、ロン
ドン市場での日本公債に対する人気は非常に悪かった。一方、ロ
シア政府の方は同盟国フランスの銀行家の後援を受けて、その公
債の価格はむしろ上昇気味だった。

 英国の銀行家は、日本がロシアに勝利する可能性は極めて低い
と分析して日本公債の引き受けに躊躇していたのである。また、
英国はわが国の同盟国ではあったが、建前としては局外中立の立
場をとっており、公債引受での軍費提供を行なえば中立違反とな
るのではないかと懸念していた。

 それを知った高橋は、日本にも勝ち目があることを英国側に理
解させるよう、宣伝戦略に打って出た。つまり、このたびの戦争
は自衛のためやむを得ず始めたものであり、日本は万世一系の皇
室の下で一致団結し、最後の一人まで闘い抜く所存であることを
主張した。中立問題については米国の南北戦争中に中立国が公債
を引き受けた事例があることを説いた。

 高橋の説得が徐々に浸透して、1か月もするとロンドンの銀行
家たちが相談の上、公債引き受けの条件をまとめてきた。ただし、
関税担保において英国人を日本に派遣して税関管理する案を出し
てきた。これに対して高橋は、「日本国は過去に外債・内国債で
一度も利払いを遅延したことがない」ときっぱりと拒絶した。交
渉の結果、英国は妥協して、高橋の公債募集は成功し、戦費調達
が出来た。

▼クラウゼヴィッツの『戦争論』の影響とシビリアンコントロール

 わが国の勝利は政治、経済、軍事が一体となってロシアに立ち
向かったことである。そこには、政治が軍事を統制するシビリア
ンコントロールが機能したといえよう。

 そのシビリアンコントロールの思想的底流にはドイツから流入
したクラウゼヴィッツの『戦争論』の影響があったとみられる。

 『戦争論』では、「戦争とは他の手段をもって行なう政治の継
 続である」「戦争は政治の表現である。政治が軍事よりも優先
 し、政治を軍事に従属させるのは不合理である。政治は知性で
 あり、戦争はその手段である。戦争の大綱は常に政府によって、
 軍事機構によるのではなく決定されるべきである」と述べられ
 ている。

 つまり、政治が軍事に優先すること、すなわちシビリアンコン
トロールが強調されている。

 前述の川上や田村はドイツにおいてクラウゼヴィッツの思想を
学んだ。これが日露戦争前の帝国陸軍の戦略・戦術思想を形成し
ていったとみられる。このことから、大筋において、当時の一流
の軍人がシビリアンコントロールの重要性を理解したのではない
だろうか。

 総理の桂太郎も軍人であり、元老の山県有朋も軍人であった。
いわば当時の軍政は軍人と文人が混在していたが、そこには政治
優位の思想が確立され、時には軍事優先による日露開戦論が先走
ったが、大筋において抑制がきいていた。

 つまり、明治期の一流の軍人は、大局的な物の見方と、国家レ
ベルの情勢判断力、政治優位の底流思想を持っていたとみられる。
児玉らのインテリジェンス能力に長けた軍人が、国家レベルの視
点から物事を判断して、シビリアンコントロール(政治優先)を
維持していった。

 この点が、軍事という狭い了見から情勢判断を行ない、政治を
軽視し、軍事の独断専行に走った昭和期の軍人との最大の相違で
はないだろうか?


(次号に続く)



(うえだあつもり)

 
【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関
係論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調
査学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年
にかけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤
務し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教
官をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛
省情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。
2015年定年退官。現在、インテリジェンス研究家としてメルマガ
「軍事情報」に連載中。

ブログ:「インテリジェンスの匠」
http://Atsumori.shop

 
著書に
『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11月)、
『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』
(蒼蒼社、2008年9月)、
『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引き』
(並木書房、2016年1月)、
『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争―国家戦略に基づく分析』
(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
(並木書房、2018年4月)など。
 
 
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
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