配信日時 2018/10/10 09:00

【日本陸軍の兵站戦(110)】 陸軍経理部(40) 蒙古襲来と武士たち(3)──軍馬の話(26)

こんにちは。エンリケです。

「陸軍経理部」第四十話は、

軍馬をめぐるはなしの二十六回目です。

さっそくお読みください。


エンリケ


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 陸軍経理部(40)
 
  蒙古襲来と武士たち(3)──軍馬の話(26)
  
 荒木 肇
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□「旭日旗」への文句と韓国海軍

 近く行なわれる韓国での国際観艦式にわが海上自衛隊は不参加
を決めました。就任したばかりの防衛大臣は決然と韓国の「戦犯
旗である旭日旗の掲揚をやめて、国旗日の丸と韓国旗だけをマス
トに立てよ」という不当な要求を拒みました。どころか、参加そ
のものを取りやめるという厳重な態度を明らかするという快挙を
聞いたところです。

 わが「自衛艦旗」はたしかに帝国海軍の意匠と変わらず、日清・
日露の両戦役、さらには大東亜戦争にもわが艦艇の上にひるがえ
ってきた「軍艦旗」。海軍と国民のシンボルであります。この旗
の下、勇戦敢闘された先人をもち、国家の独立と民族の精神の発
露を象徴するものです。

 韓国人はどうしてこうも分からず屋なのでしょうか。また、韓
国海軍軍人、同陸軍軍人、同空軍軍人、同海兵隊軍人はどう考え
ているのでしょう。わたしは個人的に該国の軍人たちを知ってい
ますが、そうした頑なな、あるいは国際常識を破るような言動を
する人はおりません。観閲式でも彼らは招かれれば、自衛艦旗に
も自衛隊旗(陸自連隊旗)にもきちんと正対して敬礼を送ってい
ます。

 そうしてみると、わが隣国ではほんとうに武官の地位が低いこ
とが分かります。わが国では自衛官は軽んじられている・・・と
いうのも処遇の悪さも含め、あるいは憲法違反だなどという人が
まだまだおられることも含めて、腹の立つことが多いのですが、
大韓民国ほどではありません。

 もちろん、どこかのコントロールを受けていたり、あるいは曲
がった主張に乗っていたりする人々の存在も目立ちます。自衛官
をいつまでも屈辱的な地位に置こう、罵倒しようと画策する人は
いつもおります。

 まあ、それはそうであっても誇り高い隣国のように、国会議員
たちが「旭日旗」を使用禁止にしようなどと与野党共同で法案を
出すというようなことはできません。わが国を2等国、韓国は
1等国だ・・・という言葉は信じられませんね。こうしたことに
国際法についての知識も、国際慣行への常識も備えているはずの
韓国軍人は何も発言できません。お気の毒な立場にあるとしか思
えません。


▼「異時同図法(いじどうずほう)」という描き方

 竹崎季長(たけざき・すえなが)が遺してくれた『蒙古襲来絵詞』。
その中でももっとも有名な戦闘シーンは文永の役、鳥飼浜(とり
かいはま)においてのものである。季長が馬上で蒙古兵と戦って
いる。上空には「てつはう」が炸裂し、馬は前脚をつっぱり、後
ろ脚をはねあげ、馬上の季長は落馬するまいと頑張る。馬の後肢
の付け根にも矢が立ち、季長もまた膝(ひざ)に矢を受け、ひど
く出血している。教科書にも載る有名な絵である。

 この情景は、以前には、謎めいていると論争の的になっていた。
季長の至近距離に立つ3人の蒙古兵がいる。1人は長槍を構え、
2人は弓に矢をつがえてわずか1馬身か2馬身の距離で攻撃の態
勢にある。この3人が後から(おそらく江戸時代かといわれた)
書き加えられたという疑いをもたれたのだ。たしかに3人の様子
はくっきりと描かれ、後方にいて逃げる蒙古兵たちや、さらに後
ろで弓を引き絞る兵たちとは筆致が異なっている。だから江戸時
代かの所有者による補修のときに、あえて書き加えられたと考え
る研究者も多かったのだ。

 ところが、これは服部氏のおっしゃるとおり、当時の絵巻物の
技巧の一つであろう。「異時同図法」というのがこれだ。絵師は
季長を襲う3人の蒙古兵出現以前の様子を、異なる時間帯の出来
ごととして画面の前方、左側に描いている。この3人以外の蒙古
兵はみな背を向けて逃げているところだ。1人の背には矢が立ち、
倒れて動けなくなっている者もいる。

 そして、さらに矢をつがえ、弓を引き絞って迎撃する1人の蒙
古兵も描かれた。その隣には矢を放ったばかりの蒙古兵もいる。
しかし、その矢をまさに放とうとしている兵の左目には長大な矢
が命中している。膝の前にまで滴る鮮血まで見える。これこそが
季長の放った矢によるものだ。その証拠は、矢羽根の模様である。
季長が負う箙(えびら)の矢は本黒(もとぐろ)の切斑(きりふ)
であり、蒙古兵に命中している矢羽根も同じであることは目を凝
らせばすぐに分かる。

▼突撃する季長

 弓の有効射程(ねらって致死、あるいは大きな負傷を与える距離)
はおよそ30メートル余りだろう。さらに精度の高い内兜(うち
かぶと・顔面)への命中を期待できるのは、名手でも10メート
ル。ということは、どれだけ気勢をあげようが、当時の軍隊は5
0メートルも離れれば、まず無害な集団だということだ。街の中
に立つ電信柱の間隔がおよそ20メートル。

 互いに横一線になって押し合いながら少しずつ前進する。一気
に駆けだして孤立すれば、当然、敵の集中攻撃を受ける。蒙古軍
は集団戦術をとっていたといい、銅鑼(どら)や鉦(かね)の合
図で進退したという。これこそが鎌倉御家人団と蒙古軍の大きな
違いだっただろう。蒙古軍将校は馬上、あるいは高地に陣取り、
全体の様子を見渡しながら指揮をとったに違いない。それに比べ
て、わが武士団は主従の小さな集団が、全体を見渡せるわけでは
ない状態で、個々に戦ったということになる。

 いつまでも睨み合ったままではお互いに埒(らち)も明かない。
そこで勇敢な、ほんとうに勇士だけが突進して、そうした均衡状
態を破ることから戦闘は始まる。のちの戦国時代でも「一番駆け」、
「一番鑓(やり)」が名誉になり、褒章も期待できたのはその伝
統だろう。『肥後国御家人の一番となろう』という季長は、猛然
と馬を突進させた。どれだけ頑丈な缶詰でも、まず缶切りによっ
て穴を開けられることから口が開いてゆく。季長は、まずその缶
切りになろうとした。

▼「てつはう」について

 海底から見つかる「てつはう」の残骸。あるいは地上で発見さ
れて保存される「てつはう」は鉄炮(鉄砲)の名の起こりとなっ
た。中空になった、多くは薄い鋳物(いもの)製の爆発物である。
中身には鉄片や陶磁器のかけらが入っていた。導火線がついてい
る。それに点火して投擲すると、空中や落ちた地上で内部の黒色
火薬が爆発する。とどろく爆発音と火花、割れた外殻、さらには
飛び散る内部の鉄片や陶磁器のかけらが敵の殺傷にも有効だった。

 現在、われわれは銃とか鉄砲という場合、筒になっていて弾丸
の発射能力をもっている道具を概念としている。ところが、この
蒙古襲来のときにモンゴル軍が使った「てつはう」は「震天雷
(しんてんらい)」といわれるものだった。中国の古い文献によ
れば、「形は椀を伏せて合わせたもので、てっぺんに穴が開いて
いる。その穴は指が入るくらいのもので、金(きん・王朝の一つ、
女真族が1115年に建国した)が首都である汴(さんずいへん
になべぶたの下に卜 べん)を守った」といわれる。

 原文はさらに続く。『鉄缶に(火)薬を盛り、点火すれば砲挙
(ほうあが)り火発す。その音は雷のようで、百里の外にも届く。
焼夷効果もあり、半畝(はんせ・およそ50平方メートル)以上
も焼いてしまう。着弾すると鉄甲も貫通する』とある(原漢文、
意訳した)。

 つまり、はるか昔には鉄砲は弾丸を射つものではなく、飛ばさ
れる弾丸のことをいった。飛ばすものだけを「砲」といったが、
火薬を使った発射装置ではない。「単梢砲(たんしょうほう)」、
「砲車」、「火砲」、「回回砲(ふいふいほう)」、「旋風砲」
などと後世の文献にも見られるが、すべて槓杆(こうかん)式の
投擲具(とうてきぐ)をいう。要するに、むかしのパチンコ、ス
マートボールのように槓杆(ボルト)を引いて、鉄缶をほおり出
すものだった。

 怪我をした武士、あるいは破片で死傷した兵士もいただろう。
ただ何よりの効果は音響、炸裂音だったというのは、季長の馬を
見れば分かる。近代になっても、軍馬としての訓練が充分でなか
った民間からの徴発馬は、戦場で音に驚き暴れまわった。若駒か
ら軍隊で飼育された軍馬はそういうことはなかった。騎兵隊の馬
はまず、乗馬した騎兵の銃の発射音から慣れるようにした。

 音響だけでも、人は至近距離での突然起こる爆発音にはパニッ
クになるという。警察の機動隊や制圧員がバスや室内に立てこも
った犯人に「音響弾」を投げて、茫然としたところに突入するの
は常道でもある。

▼季長の窮地を救う白石(しろいし)勢

 おそらく季長の下人もいっしょに奮戦していたことだろう。あ
るいはすでに射られていたか。狂奔する馬の上で、膝に矢を受け、
さらにもう一矢(いっし)は馬体に射こまれていたのだろう。画
面の向こう側の描写はない。1人の蒙古兵は季長に狙いをつけ、
もう1人は長い槍で季長を馬上から叩き落そうと構えている。

 その窮地を救ったのが、絵巻のさらに左に描かれる白石六郎通
泰(しろいし・ろくろう・みちやす)の百余騎である。もっとも
絵には疾走し、弓を引き絞って射撃態勢をとる8騎が描かれてい
るだけだ。それらの騎士たちの姿はまさに前下方をねらう「追物
射(おものい)」である。これでは蒙古兵は季長を討ちとっても、
たちまち包囲されて射殺されるに違いない。

 また画面には季長の姉婿、三井資長(みい・すけなが)の奮戦
も描かれている。資長の前には逃げる2騎の蒙古兵と8人の歩兵
がいる。最後尾の1人の腰には矢が当たり、その羽根の模様は資
長のものである。さらに画面は移り、麁原山(そはらやま)の山
裾に陣地を構える蒙古軍の様子も描かれている。

 服部氏の解説によれば、3人の蒙古兵と他の兵たちとの筆致が
違う、それが江戸時代の加筆ではないかという従来の説はやはり
誤りだという。それは絵巻物が、現代でいう工房においての共同
作業で作られたことからだ。棟梁(とうりょう)のような絵師が
いて、背景を専門に描いたり、馬を、鎧を、衣服を描いたりする
それぞれのランクの絵師がいたのが普通だった。だから筆致が違
って当然のことなのだ。

 きわめて迫真的な3人の蒙古兵は、最後に場面の完成を目指し
て棟梁が描きこんだのではないか。だから先に描かれた逃げる蒙
古兵に重なっている。これは経年変化によって透けて見えるよう
になった結果だった。つまり棟梁は職人たちが描いた絵の上から
仕上げとして3人を描いた。決して、後から描き加えられたもの
ではない。

▼文永の役・蒙古軍は一日で船に戻ったか

 第一回戦、文永の役(1274年)の緒戦はほぼ互角、あるい
は蒙古側の辛勝だったか。上陸作戦は一応の成功をみたし、筥崎
の町も宮も焼いた。季長が負傷した鳥飼浜では激戦だったが、海
に追い落とされることもなく、蒙古軍は麁原山(そはらやま)を
占拠した。しかし、補給糧秣や消耗した兵器などの補給は充分に
できたのだろうか。

 当時の博多湾の水深は浅かった。多くの河川が流入し、砂がい
つでも堆積し続けてもいた。全長30メートルから20メートル
級の外洋船だった高麗で建造された軍船は当然、喫水は深い。物
資輸送は手漕ぎのバートル(軽快舟)で海岸と本船を往復するし
かない。現在の福岡市の海岸線は埋め立てによってずいぶんと当
時の沖合に出ている。引潮のときに安全を図れる水深5メートル
余りの位置は、当時の海岸線からおよそ1カイリ(約1.8キロ
メートル)ほども離れていた。

 したがって本船は海岸から2キロ近くも遠いところに碇泊して
いたのだ。のちの15世紀になってからの記録でも、大型船が直
接に博多に入ることはなかった。志賀島(しかのしま)に人はあ
がり、そこで内海用の小型船に乗り換えている。

 後世の歴史家はごく気安く「蒙古兵は夜になって船上に引き揚
げた」などと書いたが、小型舟艇に何人が乗れると思っているの
か。9000人が往復4キロ余りを150隻の手漕ぎの小舟で移
動したとする。湾内には潮の干満もある。わずか一日で行動でき
るわけもない。しかも、そんな混乱を日本軍が見逃すわけもない。
乗船する兵で混乱する水際に矢を放てば妨害には充分になる。

 近現代の研究者たちは軍隊や人の移動、こうしたことさえ常識
で考えることもしてこなかった。伝聞をそのままに、現場に関心
がない人が書いた記録だけを信じるという研究者たちの知的怠慢
には呆れるしかない。
 
▼都への情報は何日ずれるか

 さて蒙古軍は博多に居すわり続けた。たった一日で帰ったとい
うのは『八幡愚童訓』の記述によるでたらめである。すでに大正
時代には「実録にあらず」と指摘する研究者もいたが、学界の多
数はそう考えなかった。その理由は都の官僚の日記、『勘仲記
(かんちゅうき)』の11月6日の日付の記述に、「にわかに逆
風が吹いて、凶族が本国に帰った」とあることからだし、『高麗
史』にも「たまたま大風雨があった」とあるからだ。そのため史
料批判をきちんとせずに、10月20日のことだとされてしまい、
20日の合戦のその日に大風が吹いたことになってしまった。

 この『勘仲記』の作者は広橋勘解由小路兼仲(ひろはし・かで
のこうじ・かねなか)である。別名を『兼仲卿記(かねなかきょ
うき)』としても知られている。文永11年当時は正五位下、治
部少輔(じぶのしょうゆう、治部省の次官)だった。服部氏はこ
の日記の記述を詳細に検討されている。

 10月22日の日記には「13日の対馬合戦」が記されていた。
ところがその実際は3日から5日にかけてのことであり、13日
は報告が届いた日付ではないかと考えられる。というのも、当時
の博多から都までの飛脚の能力が考えられていない。およそ10
日間はかかったと思われる。29日の記載は「異国賊徒、攻めき
たって興隆(こうりゅう・勢いが激しいさま)だということが聞
かれた」となっている。おそらくこれが9日前の20日、すなわ
ち赤坂山、鳥飼浜の激戦を指しているのだろう。

 また服部氏によれば、ほかにも京都政権中枢の官人、吉田経長
(よしだ・つねなが)の日記『吉続記(きつぞくき)』にもこの
事態の記録がある。27日の条に「九国隕滅可憐(きゅうこく・
いんめつ・あわれむべし)」とある。九州はすべて破滅状態であ
り、あわれなことであるというのだ。つづいて、「鎌倉幕府の政
治向きは、あまりにいい加減である。人々はさまざまに悪口をい
うが、あまり口にしてはいけない」という記述もある。このとき、
吉田は政権中枢の太政官(だいじょうがん)の右大弁(うだいべ
ん)であるから、いまでいえば内閣府の局長級だった。治部少輔
より2日ほど早く情報があった。

 博多と京都間はおよそ660キロメートルとすると、法令で定
められた駅ごとに逓伝(ていでん)していけば、1日で100キ
ロあまりは進めただろう。当時の報告は大宰府(だざいふ)の司
令中枢、少弐氏のもとから京都の幕府出張機関、六波羅探題(ろ
くはら・たんだい)に送られた。それを運んだ飛脚便はさらに鎌
倉に急いだだろう。

 また、すべての情報が朝廷に届けられるわけではない。六波羅
探題では情報を吟味し、伝えてよいものだけを朝廷に提出した。
だから、実際は8日から10日後に朝廷官僚たちに伝わったと考
えられる。

 『勘仲記』には11月6日の条に次のような記事がある。
 「ある人が言うには、逆風が吹いて、船は本国に還った。残った
 船は大鞆式部太夫(おおとも・しきぶ・たゆう)が捉えた。捕虜
 は50人以上である。いずれ都に移送する。吹いた逆風は神様の
 ご加護である」

 この「逆風」は『高麗史』の「大風雨」にあたる。南の風だっ
たらしい。この記事からは、船が沈んだわけではなく、座礁した
かで捕虜を50人得たことがわかる。

 幕府の公式記録の『関東評定伝』には、「文永十一年十月五日、
蒙古異賊が寄せてきて、対馬嶋に到着した。少弐氏の代官、宗右
馬允(そう・うめのじょう)が討たれた。24日、大宰府に攻撃
してきて、官軍(幕府軍)と合戦した。異賊は敗北した」と書か
れている。これはほぼ事実の通りで、24日は大宰府にまで攻め
よせようとした蒙古軍を日本軍は敢闘し、これを撃退していた。

▼寒冷前線の大風

 この頃は太陽暦では11月の末頃である。この季節、例年、は
なはだ強い寒冷前線が通過することはよく知られている。おそら
くは滞陣中に蒙古軍は、この嵐に遭遇してしまった。もともとの
軍令では、「大宰府を占領できなければ引き上げるのも可」とい
うものだったから、蒙古軍司令部は動揺したに違いない。

 海峡の天候に詳しい高麗軍人は、このあと季節風の北風がつの
ることも知っていただろう。そうであると兵站基地である対馬、
壱岐との連絡もとりにくくなる。朝鮮半島から対馬への兵站路も
維持しにくくなるだろう。

 高麗側の記録には、「矢も尽きた」、「嵐のおかげでやむなく
戦闘を中止する」といったことが書かれている。

 次回は、さらなる侵攻に備えての幕府軍の取り組みを見てみよ
う。




(以下次号)


(あらき・はじめ)
 
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●著者略歴
 
荒木  肇(あらき・はじめ)
1951年東京生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、同大学院修士
課程修了。専攻は日本近代教育史。日露戦後の社会と教育改革、
大正期の学校教育と陸海軍教育、主に陸軍と学校、社会との関
係の研究を行なう。
横浜市の小学校で勤務するかたわら、横浜市情報処理教育セン
ター研究員、同小学校理科研究会役員、同研修センター委嘱役
員等を歴任。1993年退職。
生涯学習研究センター常任理事、聖ヶ丘教育福祉専門学校講師
(教育原理)などをつとめる。1999年4月から川崎市立学校に
勤務。2000年から横浜市主任児童委員にも委嘱される。2001年
には陸上幕僚長感謝状を受ける。
年間を通して、自衛隊部隊、機関、学校などで講演、講話を行
なっている。
 
著書に『教育改革Q&A(共著)』(パテント社)、『静かに
語れ歴史教育』『日本人はどのようにして軍隊をつくったのか
―安全保障と技術の近代史』(出窓社)、『現代(いま)がわ
かる-学習版現代用語の基礎知識(共著)』(自由国民社)、
『自衛隊という学校』『続自衛隊という学校』『子どもに嫌わ
れる先生』『指揮官は語る』『自衛隊就職ガイド』『学校で教
えない自衛隊』『学校で教えない日本陸軍と自衛隊』『あなた
の習った日本史はもう古い!―昭和と平成の教科書読み比べ』
『東日本大震災と自衛隊―自衛隊は、なぜ頑張れたか?』『脚
気と軍隊─陸海軍医団の対立』(並木書房)がある。
 
 
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