配信日時 2018/10/02 20:00

【わが国の情報史(18)】明治最高のインテリジェンス将校 上田篤盛

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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
もあります。
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上田さんの最新刊
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
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は、女性という切り口からインテリジェンスの歴史
(情報戦史)を描き出した作品です。

本編はもちろん、充実したインテリジェンスをめぐる
資料集がすごく面白いです
こんにちは、エンリケです。


きょうの記事は、歴史に残る内容かもしれません。

陸軍中野学校の創設の目的とは?
明治最高の情報将校とは?

に対する答えがあります。

ちなみにその将校ですが、
知る人は多いかもしれませんが、
情報将校と認識している人は
少ない気がします。

彼の生い立ちを記した書を
読んだことがありますが、
本を読んで、あの時ほど
号泣した記憶はありません。


文化や経済、差別やLGBT、共産主義の国史も結構ですが、
特に現代史は、きょうの記事のような内容が
不可欠ではないでしょうか?


さっそくどうぞ



エンリケ




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 「インテリジェンスの匠」
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わが国の情報史(18)

明治最高のインテリジェンス将校

     インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに

 明治時代のオールスターズは戦国時代のオールスターズ同様に、
愛国心、個性、人間的魅力、戦略眼、情報センスなど、なにを
とっても傑出した強者ぞろいです。

 現在、米中関係、米朝関係が変動期にありますが、それにとも
ないわが国も対中政策や対北朝鮮政策をどのように規定していく
のかの岐路に立ちつつあります。

 今の世の中に、彼らの一人でも現存していたならば、わが国は
どうなっただろうか? そして、わが国が直面している難局にい
かなる意思決定を下すのか、実際に見てみたいきがします。

 本日のニュース(9月26日)では韓国大統領の橋渡しで、今度
は日朝首脳会談の開催が開催されるかも知れない、とのニュース
も飛び込んできました。北朝鮮に対する経済制裁を継続しつつ、
拉致問題までを話し合うというのは、いささか“虫の良い話”
(北朝鮮にとってはの意味)という気がしますが、はたしてどう
なるのでしょうか。

 拉致問題という人参をぶらさげられ、不用意な譲歩することに
なりはしないのか、やや心配ではあります。

 今日は日露戦争の原因となった北清事変に焦点を当てますが、
同時に世界に誇る歴史上の日本人として常に、上位ランクに入っ
ている人物、すなわち明治最高のインテリジェンス将校について
のお話しもします。

 それは福島中佐か、明石大佐か? それとも特務機関の生みの
親である青木宣純大佐なのでしょうか?

 では早速お読みください。


▼明治のオールスターズ

まず筆者独自の選択で、最初に明治のかすかずの偉人を列挙したい。

・第一世代(幕末維新の功労者)
 勝海舟(1823~1899)、西郷隆盛(1828~1877)、大久保利通
 (1830~1878)、木戸孝允(1833~1877)、坂本龍馬(1836~
 1867)

・第二世代(日清戦争の功労者)
 山県有朋(1838~1922)、樺山資紀(1837~1922)、大山巌
 (1842~1916)、伊藤博文(1841〜1909)、陸奥宗光(1844~18
 97)

・第三世代(日露戦争の功労者)
 桂太郎(1848~1913)、川上操六(1848〜1899)、乃木希典
 (1849~1912)、山本権兵衛(1852〜1933)、福島安正(185
 2~1919)、児玉源太郎(1852~1906年)、田村恰与造(1854~
 1903)、明石元二郎(1864~1919)

▼日清戦争の功労者

 日清戦争開戦時の組閣の主要メンバー(主として軍政・軍令)
は、総理大臣・伊藤博文(52歳)、外務大臣・陸奥宗光(49歳)
である。戦後の下関条約においても、日本側代表としてこの両名
が清国側の李鴻章との交渉に臨んだ。
 
 他方、陸海軍に目を転じてみると、陸軍省は陸軍大臣・大山巌
(大将、51歳)、陸軍次官・児玉源太郎(少将、42歳)である。
大山は西郷隆盛、従道兄弟の甥にあたり、1884年に桂太郎や川上
操六を引き連れて欧州視察に赴き、その後の陸軍をドイツ流に改
めた人物である。児玉は日露戦争で大活躍することになるが、す
でに42歳の若さで陸軍次官のポストにつき、早くも頭角を現して
いた。

 作戦指揮を司る参謀本部において参謀総長・有栖川宮熾仁親王
(大将、59歳)、参謀次長・川上操六(中将、45歳)という陣容
であった。参謀総長は皇族職であるので、実際に陸軍の指揮運用
は川上が全権を握っていたことになる。

 日清戦争の派遣軍については、第1軍司令官が山県有朋(大将、
56歳)、第2軍司令官が大山巌(兼務)である。当時、桂太郎
(中将、46歳)は第1軍の第3師団長、乃木希典(少将、44歳)
は第2軍の歩兵第1旅団長であった。

 この中では、第1軍司令官の山県が圧倒的な存在感を放ってい
た。彼はすでに陸軍の大御所、陸軍最大の実力者であり、大山や
川上のはるか上にそび立つ存在であった。

 山県は1889年に第1次山県内閣を組閣した内閣総理大臣の経験
者である。そのような山県がなぜ前線の司令官になったか、それ
は山県自らが第一軍司令官に就任することを熱望したからである。
山県は「敵国は極めて残忍の性を有す。生擒となるよりむしろ潔
く一死を遂ぐべし」と訓示しているから、死をかけて戦地に赴い
たのであろう。

 山県が率いる任務は平壌から北京を攻略することであり、大山
率いる、遼東半島から北京を目指す第2軍の側背掩護が任務であ
った。配下の野津道貫が率いる第5師団によって早々に平壌を陥
落させるなど戦果はあげたが、これで満足する山県ではない。

 なんと山県は第2軍よりも先に北京を攻略したくなったのであ
る。山県は優れた戦略家であり、情報政治家であったが、自信過
剰で、功名心にかられた自我意識の強い人物であった。

 川上は、長老の山県が派遣軍の司令官につくことに正面から異
を唱えることはできなかったが、最初から懸念していて、山県が
大本営の方針どおりに動かないことを懸念した。

 結局、山県自身は体調を崩し、1984年11月に明治天皇に「病気
療養のため」という勅命で戦線から呼び返され、12月に帰国して
いるが、実は、これを表向きで、独断専行する山県を川上と、現
地に山県とともに赴いて桂太郎が申し合わせて、退けたという理
由が正しいようである。桂は山県の申し子であったが、これが原
因で以後は関係が悪くなったとされる。

 一方の海軍は海軍大臣・西郷従道(大将、51歳)、海軍軍令部
長・樺山資紀(中将、56歳)、連合艦隊司令長官・伊東祐亨(い
とう ゆうこう、51歳)という陣容であった。

 川上は、大本営が設定されると、海軍軍令部長である同郷の樺
山を事実上統制し、日清戦争における陸海軍の作戦全般の指揮を
担当した。

 日清戦争における勝利の最大功労者・川上は、清国をはじめ全
世界に諜報網を展張し、作戦と情報を一体運用し、これが勝利を
呼んだのである。

▼北進事変が勃発

 日清戦争に勝利したわが国は旅順の割譲を受けるが、これがロ
シアを刺激し、ロシアはフランス・ドイツ両国を誘って同半島の
返還を日本に要求した。いわゆる三国干渉である。

 日本はしぶしぶこの干渉を受け入れたが、臥薪嘗胆を合言葉に、
軍備の拡張に走ることになった。

 一方、日清戦争によって清国の弱体ぶりを知った欧米列強は、
あいついで清国に勢力を設定した(中国分割)。ドイツは山東半
島の膠州湾、ロシアが遼東半島の旅順・大連、イギリスが九龍半
島・威海衛、フランスが広州湾を租借した。

 こうした状況で1900年、清国では「扶清滅洋」をとなえる義和
団を称する秘密結社が勢力をまし、各地で外国人を襲い、北京の
列国公使館を包囲した。清国の西太后がこの叛乱を支持して1900
年6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。
いわゆる北清事変である。
 
 日本を含む列国13カ国は、連合軍を派遣し、義和団を北京から
追って清国を克服させた。この時、わが国は、福島安正少将を指
揮官とする第5師団約8000名を派遣して、欧米諸国との連合軍を
構成して8月には首都北京および紫禁城を制圧した。同年10月、
第5師団の指揮下にあった混成1個旅団により清国駐屯隊を設置
し、在留邦人の保護に当たらせた。これが新たな諜報活動の拠点
になった。

▼ロシアとの対立と日英同盟の締結

 北清事変を機にロシアは中国東北部(満州)を事実上占領し、
同地における独占的権益を清国に承認させた。ロシアの脅威は朝
鮮半島に南下し、やがて日本に及ぶことになる。日露の関係は刻
一刻と深刻化の様相を呈した。

 その牽制の大きな手段となったのが1902年の日英同盟である。
日英同盟はやがて日本がロシアと戦うことを想定して結ばれた軍
事同盟であった。日本はイギリスの後ろ盾によって、中型の「大
国」としての地位を固めることに成功した。

 1904年、わが国はロシアとついに衝突する。そして奇跡的に勝
利する。その最大の成功要因はとりもなおさず日英同盟であった。
そして、その日英同盟を締結した影の功労者が、世界から今日も
称賛されてやまない、明治日本が生んだ傑出した一人のインテリ
ジェンス将校であった。それが「コロネル・シバ」と列強から称
賛された柴五郎である。

▼柴五郎の生い立ち

 陸軍大学を出ずに陸軍大将まで上り詰めたのは後にも先にも柴
しかいない。柴はそれほど傑出した将軍であり、彼のほとんどは
経歴はインテリジェンス将校としてのものである。

 では早速、柴の経歴をみてみよう。柴は1859年1月、会津藩
士・柴佐多蔵の五男として生まれた。会津では藩祖・保科正之
の精神を受け継ぎ、「武士道」が盛んなところであった。

 明治の偉人はいずれも江戸時代の武士道精神の教育により、
傑出した人物へと成長したが、柴もまた武士道によって育てられ
た一人である。さらに会津藩は、1868年1月の鳥羽伏見の戦いで、
薩摩と長州の策略で新政府軍の朝敵となった。こうした会津藩
にあって、柴の反骨精神と負けず魂が育まれたのである。

 その後、柴は藩校・日新館に学び、青森県庁の給仕につくが、
上京の念は断ちがたかった。やがて1873年(明治6年)に陸軍
幼年学校に入校、1877年に陸軍士官学校に進んだ。士官生徒
第3期の同期には、上原勇作元帥や内山小二郎・秋山好古・本郷
房太郎の各大将がいる。彼らとの交流も柴の人生に大きな影響を
与えた。

▼インテリジェンス将校として歩み始める

 1884年、陸軍中尉に進級し、同年10月に清国福州の駐在を命じ
られた。これがインテリジェンス将校としての柴の船出であった。

 当時、清国とフランスとの間で戦争が勃発した。この戦争は仏
領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)と清国との国際
紛争に端を発し、清国軍が仏領深く侵入してフランス軍を破り、
その兵士たちを捕えて虐殺したことから全面戦争に発展していた。
柴は世界の戦争というものに直接接したことで、インテリジェン
ス将校としての大きな財産が築かれることになる。

 柴は福州での3年間の滞在により、軍事に関する知識、清国の
暮らしや考え方を学び、中国語や英語にも精通した。

 1887年4月、柴に対して北京駐在の命令が下った。柴はたちま
ち北京においても民情の収集にあたった。さらには、天津、満州、
朝鮮半島も視察して、地域情報を蓄えていった。

 1894年3月にイギリスの在日本公使館附武官心得を命じられた
が、同年7月に日清戦争が生起した。そこで同年9月に日本帰国
し、大本営で、清国本土上陸作戦の計画に携わることになる。こ
こでは、中国通の柴のインテリジェンスが大いに役立った。

 下関条約締結後の台湾の陸軍参謀に命じられ、さらに柴の対外
インテリジェンスは研ぎ澄まされる。1896年、ふたたびイギリス
公使館附陸軍武官として、イギリスに赴任、1898年(明治31年)
5月の米西戦争においては、観戦武官としてアメリカにも派遣さ
れた。

 柴は、このアメリカ出張で、のちに日露戦争の日本海海戦で大
活躍する秋山真之と会う。真之は柴の陸軍士官学校同期の秋山好
古の実弟である。柴はアメリカ陸軍を、真之はアメリカ海軍を視
察した。彼らのインテリジェンスセンスからして、おそらくは、
ここでアメリカが将来の日本の敵になる可能性を感じ取ったので
あろう。

▼義和団の乱が勃発

 1900年2月、柴にイギリスから清国への転属が命じられた。
そこで直面することになったのが北清事変である。当時、義和団
の狼藉は日増しに高まっていた。同年5月、義和団の乱が起こる。
暴徒が各国の大使館を取り囲み、日本公使館書記生やドイツ公使
が殺害された。

 北京の各公使館の代表者がイギリス公使館に集まり、義和団に
ついての話し合いがもたれた。柴はこの会議に参加した。各国は
北京で籠城して戦うことを決意した。その警備の総指揮官をオー
ストリア公使館附武官のトーマン中佐に決めたが、彼の判断ミス
が続いた。

 そこで、軍人出身のイギリス公使のクロード・マクドナルドが
後任の総指揮官に就任した。そのマクドナルドが関心を持ったの
が、柴五郎であった。マクドナルドは柴を5カ国の指揮官に命じた。

 柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらに
は間者を駆使した情報網を築き上げていたのである。義和団によ
るキリスト教虐殺を逃れてきた総勢3000人を収容確保したのも柴
の判断であった。

▼柴五郎の活躍は各国の称賛

 大松明則『歴史は鏡なり』では、柴の活躍ぶりを以下のように
紹介している。

 イギリス公使館の書記生であったランスロット・ジャイルズは
日記で、「日本軍が最も優秀であることは確かだし、ここにいる
士官のなかでは柴中佐が最優秀と見做されている。日本軍の勇気
と大胆さは驚くべきものだ。わがイギリス水兵が、これに続く。
しかし、日本軍は、ずば抜けて一番だと思う」と記している。

 『北京籠城』を書いたピーター・フレミングは、「日本軍を指
揮していた柴中佐は、籠城軍のどの士官よりも有能で経験も豊か
であった。誰からも好かれ日本の勇気、信頼性、そして、明るく、
籠城者一同の称賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、
直接的にも間接的にも、一言の非難をあびていないのは、日本人
だけである」と書いている。

 さらに、アメリカ人女性・ポリー・C・スミスも、「柴中佐は
小柄で素晴らしい人だった。彼が東交民港で現在の地位をしめる
ようになったのは、一つに彼の智力と実行力によるものです。今
では、すべての国の指揮官が柴中佐の見解と支援を求めるように
なったのです」と語っている。

▼柴の活躍が日英同盟をもたらす

 北清事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府
から勲章を授与された。『ロンドン・タイムス』はその社説で
「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務
を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京
籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。なお、柴自身はアメリ
カ軍人が最も勇敢だったと評している。冷静で謙虚な柴の性格を
うかがわせる。

 イギリス公使マクドナルドは、共に戦った柴と配下の日本兵の
勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ深く信頼するようにな
った。1901年の夏の賜暇(しか)休暇中に英国首相ソールズベリ
ー侯爵と何度も会見し、7月15日には日本公使館に林董(はやした
だす)を訪ねて日英同盟の構想を述べ、以後の交渉のすべてに立
ち会い、日英同盟締結の強力な推進者となった。

 このことから柴は日英同盟のきっかけをつくった影の立役者と
して評価されているのである。

▼柴五郎のその後の活躍

 なお、柴の活躍はとどまらず、陸軍大佐に順調に進級し、日露
戦争では野戦砲兵第15連隊長として出征した。

 1906年3月、イギリス大使館附の辞令が発せられ、7月ロンド
ンに着任した。その後、しばらくは閑職につくが、1914年(大正
3年)5月に第12師団長に栄転し、1919年(大正8年)8月には
陸軍大将に進級し、同年11月、台湾軍司令官に進んだ。

 なお、1945年(昭和20年)、太平洋戦争敗戦後に身辺の整理を
始め、9月15日に自決を図った。自殺は老齢のため果たせなかっ
たが、同年12月13日、その負傷がもとで病死する。最期まで武士
道精神を貫いたインテリジェンス将校、それが柴五郎大将であっ
た。

▼現在の防衛駐在官制度

 柴は中尉から中佐まで海外に勤務した。そこで世界を見て、語
学を学んだ。しかし、大正、昭和と時代が下ると、駐在武官は出
世の一つのキャリアとなり、柴や明石のように長く海外における
情報勤務に就いて、実務を通じて対外インテリジェンスの感性を
練磨するということはなくなった。

 この弊害を是正するため、転属のない駐在武官を輩出する試み
が陸軍中野学校の創設の目的でもあった。しかし、こうした構想
への着手が遅すぎ、結局、陸軍中野学校は本来の目的を達成する
ことなく、大東亜戦争の開戦によって、ゲリラ戦教育へと変化を
遂げた。つまり「戦わずして勝つ」を信条とする秘密戦の教育が
ゲリラ戦へと変わったのである。

 現在の自衛隊もしかりである。2013年のアルジェリア事件によ
り、防衛駐在官が増員されたが、必ずしも情報の経験者が配置さ
れているわけではない。むしろ、防衛駐在官は出世のための
“箔付け”という意味合いが大きい。

 防衛駐在官の増員が「情報収集能力を強化しています」とい
う政府の詭弁以上にするためには、防衛駐在官制度の見直しな
どやるべきことは多々あろう。その一つには、柴や明石のよう
な、明治期のインテリジェンス将校の育成要領、陸軍中野学校
の当初の構想などにも学ぶ必要があるのではないか。

(次号に続く)

 なお、筆者のサイトにても、先の南北首脳会談を見て思った
インテリジェンス雑感などを書いておきましたので、ご覧ください。

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(うえだあつもり)

 
【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関
係論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調
査学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年
にかけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤
務し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教
官をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛
省情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。
2015年定年退官。現在、インテリジェンス研究家としてメルマガ
「軍事情報」に連載中。
 
著書に
『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11月)、
『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』
(蒼蒼社、2008年9月)、
『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引き』
(並木書房、2016年1月)、
『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争―国家戦略に基づく分析』
(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
(並木書房、2018年4月)など。
 
 
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
http://okigunnji.com/url/312/ 
※女性という斬り口から描き出す世界情報史

『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
http://okigunnji.com/url/161/
※兵法をインテリジェンスに活かす
 
『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』
http://okigunnji.com/url/93/
※インテリジェンス戦争に負けない心構えを築く
 
『戦略的インテリジェンス入門』
http://okigunnji.com/url/38/
※キーワードは「成果を出す、一般国民、教科書」
 

■上田さんのホームページ

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