───────────────────
ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官
でもあります。お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気
軽にどうぞ
E-mail
hirafuji@mbr.nifty.com
WEB
http://wos.cool.coocan.jp
───────────────────
こんにちは、エンリケです。
本編二回目となる今回は、
大航海時代がテーマです。
視座が新鮮で、面白いです。
さっそくどうぞ。
エンリケ
追伸
本連載のバックナンバーサイトができました。
こちらです。
⇒
http://munakatahistory.okigunnji.com
宗像さんへの感想や疑問・質問やご意見など、
いつでもどうぞ。
⇒
http://okigunnji.com/url/169/
▼バックナンバーはこちらで
http://munakatahistory.okigunnji.com
──────────────────────────────
我が国の歴史を振り返る
─日本史と世界史に“横串”を入れる─(2)
「「大航海時代」:欧州人と初めての関わり(1)」
宗像久男(元陸将)
──────────────────────────────
□はじめに
笑氏様 貴重なご意見ありがとうございました。私も笑氏様ほ
ど専門家ではありませんが、さまざまな議論があることを調べさ
せていただきました。よって、冒頭に「さまざまな議論が・・・」
と断らせていただきました。私は、あくまで日本民族の相対的な
特性を述べさせていただきましたが、笑氏様の言われるような例
とご指摘はもっともだと思います。一方、古来より、争いにはさ
まざまな要因があることも事実と考えます。争いを好まない民族
が武器をとって彼らの敵に立ち向かった歴史を例示したら限りが
ないでしょう。
本メルマガのメインテーマは、言うなれば、本来争いを好まな
いはずの農耕民族である日本人が、なぜ明治以降にあのような戦
争を経験せざるを得なかったか、などについて、日本の暴挙だっ
たとの一方的な見方だけでなく、世界の動きと日本の動きの両面
から振り返り、(定説の中に隠れているかも知れない)そうなっ
た背景とか要因を考えるなど、虚心坦懐に我が国の歴史を見直す
ことを狙いとしております。
創刊準備号でも申しましたように、歴史は見方によって変わる
ものだと考えます。私は歴史の専門家ではありませんが、国防に
ついては、長く勉強してきました。
そのような視点を持って、歴史の専門家が見落としているかも
知れない「歴史を変えた要因」などをあぶり出したいと考えてお
ります。引き続き、よろしくお願い致します。
2016年10月、「8世紀末の奈良時代、遣唐使に混じって
『破斯(はし)』という名のペルシア人が来日し、天皇に謁見し
たと記してある出土遺物が確認された」とのニュースが流れまし
た。
これまで、最初に我が国を訪れたと記録に残る欧州人は、種子
島へ鉄砲を伝えたポルトガル人(1543年〔42年とする説もあ
る〕)と言われて来ましたので、欧州人ではないものの、母国ペ
ルシアから陸路(シルクロード)を経由して中国に渡ったと推測
される「破斯」の来日が事実であれば、我が国は、8世紀頃から
中国や朝鮮以外の国とも交流があったことになり、「国際色豊か
な平城京の姿を知る史料となりそうだ」と話題になったのでした。
▼ 当初の主役はポルトガルとスペイン
さて今回は、我が国の戦国時代、フランシスコ・ザビエルをは
じめ多くの宣教師や商人などの欧州人の来日を可能にした「大航
海時代」を取り上げます。
「大航海時代」とは15世紀中頃から17世紀中頃まで、欧州人によ
るアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行なわれ
た時代を指します。その主役はポルトガルとスペインです。
15世紀中頃の欧州は、オスマン朝トルコが全盛を極め、地中海
を支配しておりましたが、両国はオスマン帝国から最も離れ、な
おかつ大西洋に面しているという地理的利点がありました。
大航海を可能にしたのは、「キャラック船」とか「キャラベル
船」と呼ばれる大型船が建造されるようになったことでした。我
が国では「南蛮船」と呼ばれるこれらの船は、日本の「和船」と
違って甲板があります。甲板があれば、樽のようにいくら大きな
波に揉まれても元に復元(復原)するので、大海原にこぎ出すこ
とができるのです。
また、大型船なので大量輸送に適した広い船倉を持っておりま
した。そして、「羅針盤」(最初に羅針盤らしきものが使われた
のは3世紀の中国と言われます)が中央アジアやオスマン帝国を
経て欧州に伝わりました。
このような航海技術に加え、両国には強大な権力を持つ王や航
海を支援する出資者たちが出現し、海外進出の体制が整ったので
した。それでも当時の航海は、「一航海の帰還率は20%」と言わ
れる危険極まりないものでしたが、航海が成功し、新しい領土を
獲得したりするものなら莫大な富が飛び込んできました。一攫千
金を狙い、早い者勝ちのような機運が人々の競争心を煽り立て、
航海ブームが吹き荒れたのでした。
話は逸れますが、この帰還率の低さから、出資者たちはリスク
を最小限にするため、「分散投資」を採用しました。これが現在
の「株」の起源と言われ、17世紀になると、「東インド会社」の
ような株式会社に発達していきます。
こうして、「地球球体説」と西回りの航海を信じたコロンブス
(ジェノバ人)がスペインの援助を得て航海し、1492年、新
大陸を発見したことに始まり、バスコ・ダ・ガマ(ポルトガル人)
が1498年、アフリカ大陸の最南端・喜望峰、さらにインドへ
の航路を発見しました。また、スペイン王の信任を得たマゼラン
(ポルトガル人)が1519年、西回りに航海し、太平洋と大西
洋を結ぶ南アメリカ大陸の最南端・マゼラン海峡やフィリピン諸
島を発見、1522年、ついに世界一周に成功しました(マゼラ
ンは1519年、フィリピンで死亡)。
▼「トルデシリャス条約」と「サラゴア条約」
この2つの条約名をすでに知っておられる読者は相当の「歴史
通」と言えるでしょう。新航路発見後、スペインとポルトガルの
間で、発見した土地や島の帰属をめぐる紛争がしばしば発生しま
した。そこで両国は無用な争いを避けるため、1494年、「ト
ルデシリャス条約」を結びました。
本条約は大西洋に浮かぶヴェルデ島の西方370レグワ(約1
770km)、現在の西経45度線付近を「分界線」とし、この
「分界線」の西方全域をスペイン、東方全域をポルトガルの進出
範囲と定めました。驚くなかれ、両国は地球を南北に真っ二つに
してそれぞれの支配地域を決めるという乱暴な企てを行なったの
でした。しかも、当時の教皇・アレクサンデル6世の承認も得た
のでした。 この条約によって、オランダ、イギリス、フランス
など大航海後発国は、領土獲得の優先権から締め出される形とな
ったのでした。
そして1522年、マゼラン艦隊の生き残りが世界一周の航海
を終えてヨーロッパに帰還し、地球が丸いことが実証されました。
両国の間に「もう一本、線を引かないと分割の意味がない」との
議論が沸き上がり、1529年、再び調整して「サラゴア条約」
を結び、地球の反対側の「分界線」を定めました。
その「分界線」は、東経135度付近と言われ、ちょうど日本
列島の真上を分断するものでした(資料によっては東経144度
30分付近との説もありますが、当時の知識や技術から誤差の範
囲内と言えるでしょう)。
(以下次号)
(むなかた・ひさお)
【著者紹介】
宗像久男(むなかた ひさお)
1951年、福島県生まれ。1974年、防衛大学校卒業後、陸
上自衛隊入隊。1978年、米国コロラド大学航空宇宙工学修士
課程卒。
陸上自衛隊の第8高射特科群長、北部方面総監部幕僚副長、第1
高射特科団長、陸上幕僚監部防衛部長、第6師団長、陸上幕僚副
長、東北方面総監等を経て2009年、陸上自衛隊を退職(陸将)。
2018年4月より至誠館大学非常勤講師。『正論』などに投稿
多数。
□バックナンバーはコチラ
http://munakatahistory.okigunnji.com/
■ご意見・ご感想はこちらから
http://okigunnji.com/url/169/
PS
弊マガジンへのご意見、投稿は、投稿者氏名等の個人情報を伏
せたうえで、メルマガ誌上及びメールマガジン「軍事情報」が
主催運営するインターネット上のサービス(携帯サイトを含む)
で紹介させて頂くことがございます。あらかじめご了承くださ
い。
PPS
投稿文の著作権は各投稿者に帰属します。
その他すべての文章・記事の著作権はメールマガジン「軍事情
報」発行人に帰属します。
最後まで読んでくださったあなたに、心から感謝しています。
マガジン作りにご協力いただいた各位に、心から感謝していま
す。そして、メルマガを作る機会を与えてくれた祖国に、心か
ら感謝しています。ありがとうございました。
●配信停止はこちらから
https://1lejend.com/d.php?t=test&m=example%40example.com
---------------------------------------
発行:
おきらく軍事研究会
(代表・エンリケ航海王子)
メインサイト
http://okigunnji.com/
問い合わせはこちら
http://okigunnji.com/url/169/
Copyright(c) 2000-2018 Gunjijouhou.All rights reserved