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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
もあります。
お仕事の依頼など、問い合わせは以下よりお気軽にどうぞ
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hirafuji@mbr.nifty.com
WEB
http://wos.cool.coocan.jp
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上田さんの最新刊
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
http://okigunnji.com/url/312/
は、女性という切り口からインテリジェンスの歴史
(情報戦史)を描き出した作品です。
本編はもちろん、充実したインテリジェンスをめぐる
資料集がすごく面白いです
こんにちは、エンリケです。
きょうの記事も面白いです。
帝国陸軍ではインテリジェンス将校が
多数活躍しましたが、なかでも明治の陸軍はそうでしたね。
トップクラスにインテリジェンスを理解している
人が多かったからのようです。
この背景に、江戸時代の武家が受け継いできた「兵法」が
あったことは間違いなく、当時はその伝統が脈々と息づい
ていたようです。
山縣有朋への評価に
心から共感します。
さっそくどうぞ
エンリケ
追伸
『週刊プレイボーイ』7月2日号に掲載された
上田さんも参加した米朝会談分析インタビューは、
一読の価値ありです。とくに、今の風景はいつか
どこかで見た光景に似ている、と感じている人は
必読でしょう。コンビニ等でぜひお求めください。
■この連載へのご意見・ご感想はこちらから
⇒
http://okigunnji.com/url/169/
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わが国の情報史(16)
明治のインテリジェンス将校
インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに
今回は、念願のホームページを開設したのでそのご報告をします。
タイトルは「インテリジェンスの匠」であり、ドメインは下記で
す。残念ながら、まだ検索エンジンにはかかりません。
http://Atsumori.shop
なぜ、shopなのか? たまたまドメインが空いていたからです。
これには商売をするわけでもないので少し後悔しています。まあ
練習だと思って、しばらくはこれで続けたいと思います。
現在、軍事情報メルマガに投稿した「わが国の情報史」の過去
記事に適度に画像を入れてみたり、色を付けしたり、貼り付けて、
勉強(遊び?)しています。
少し扱いになれたならば、今後は、国内外のニュースなどを取
り上げ、これをインテリジェンスの視点から簡単にコメントした
いな、と考えています。これで、インテリジェンス・リテラシー
向上の一助になればと思っています。
インテリジェンスに興味のある方は、少し立ち寄ってくだされ
ば幸甚です。
なお、最新の「わが国の情報史」の記事は、これまでどおり、
この軍事情報メルマガで発信しますので、引き続きご愛顧くださ
い。
さて、前回は明治維新後の参謀本部制度などについて、主とし
てインテリジェンスの視点からコメントしました。今回は、明治
期の対外インテリジェンス活動について、これに多大な貢献をし
た陸軍軍人の活躍を中心にお話しします。
▼対外インテリジェンス活動の開始
明治の世に入り、わが国は「アジア主義」と「脱亜論」が拮抗
するなか、「領事裁判権なし」と「関税自主権なし」の2つの不
平等条約撤廃を外交目標に掲げつつ、急速にアジアへの接近を強
化した。
まず朝鮮の権益をめぐり清国と対立し、1894年に日清戦争が生
起した。さらに満州・朝鮮の権益をめぐってロシアと対立し、日
露戦争(1904〜1905年)へと突入することになる。
こうした大きな情勢推移のなか、わが国は明治維新直後から朝
鮮半島や清国をはじめとする対外情報収集を開始した。1875年に
は、初の海外公使館付武官となった清国公使館付武官を派遣した。
このほか、ドイツなどの各国に武官を次々と派遣することになる。
日清戦争以前には、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、清
国、韓国の6カ国に武官を派遣していた。
1880年(明治13年)3月、対外関係の正常化を狙いに、初めて
の大(公)使館となる清国大使館を開局した。以降、ここが中国
(シナ)大陸における陸軍諜報の一大拠点となった。ここから参
謀本部直属の諜報員などを朝鮮半島や中国大陸に派遣することに
なる。
▼山県有朋、インテリジェンスを握る
山県有朋(1838~1922)は、日本の軍人にして政治家である。
彼は長州藩の下級武士の家柄の出身でありながら、立身出世を果
たし、内閣総理大臣や陸軍参謀総長などを歴任した。
彼は日本陸軍の基礎を築き、「国軍の父」と称されることも
あるが、それよりも、1877年の西南戦争において、西郷隆盛に対
する討伐軍の長として有名である。しかし、山県がインテリジェ
ンスを重視し、卓越した情報力で一時代を築いたことはあまり知
られていない。
山県は、これから触れる桂太郎、川上操六、福島安正などをよ
く登用した。また、筆者がインテリジェンス大家として崇めてや
まない吉田松陰が継承した山鹿流兵法の門下である乃木希典(の
ぎまれすけ)の上司でもある。
すなわち、山県こそは明治初期の最大のインテリジェンス・フ
ィクサーであるといえよう。
▼乃木希典は山鹿流兵法の門下生
乃木希典(1849~1912、のちに陸軍大将)は長州藩の出身である。
日露戦争において旅順攻囲戦などで活躍するが、明治天皇の後を
慕って殉死したことや、戦後に『坂の上の雲』を書いた司馬遼太
郎によって“愚将”として断定されたことのほうが有名である。
ただし、この愚将説はまったく根拠のない小説であることは、の
ちの歴史家が証明しているところである。
乃木は1864年、13歳にして出身地の長府(現在の下関市)から
70km離れた萩に赴き、吉田松陰の叔父である玉木文之進の弟子
となり、山鹿流兵法を学ぶ。この山鹿流兵法とはわが国の至高の
兵法家である山鹿素行を開祖とする。孫子の兵法と、そして楠木
正成にも影響を与えた我が国の闘戦経の両方の流れを継ぐ江戸期
の兵法であり、幕末維新に多大な影響を与えた。
1865年に第二次長州征討が開始されると、乃木は奇兵隊の山県
有朋の指揮下で戦い、功名を果たす。1868年、陸軍に入営し、18
72年にわずか22歳で大日本帝国陸軍の少佐に任官した。異例の抜
擢であった。
1874年、乃木は山県の伝令使に登用され、1875年12月、熊本鎮
台第14歩兵連隊長心得(小倉)に赴任するが、これは、そののち
に反乱を起こす、前原一誠の動向を探ることが兼務であった。
乃木の前任の連隊長・山田頴太は、のちに叛乱で有名になった
前原一誠の弟である。そして前原党の首脳の一人が乃木の実弟の
乃木真人(玉木正誼)であった。真人は松下村塾の創始者である
玉木文之進の養子になっていた。その前原党の動きを探るため、
山県はあえて乃木を山田の後任に送ったのである。
乃木は、弟たちから得た情報を山県に送った。これにより1876年
10月の前原一誠の乱は拡大することなく、鎮定されたのである。
このように、乃木は諜報員として軍人生活を開始したのであった。
▼桂太郎は情報将校が出発点
桂太郎(1848~1913)は長州出身の政治家である。総理を3回
歴任するなど、明治の政治家の重鎮である。
桂は1870年から3年間ドイツに留学し、帰国後に陸軍大尉に任
官し、第6局(参謀本部の前進)勤務、ついで少佐に進級して参
謀本部設置(参謀長は山県有朋)とともにその諜報堤理(ちょう
ほう)の職に就いた。
そして、1875年から3年間ドイツ公使館附武官として赴任する。
そして、78年7月に帰国し、参謀局諜報堤理の職に復帰した。
つまり、桂の軍人としてのキャリアは情報将校である。
桂家は、孫子などの兵法を管理し、闘戦経を開祖した大江家、
そして大江家の末裔である毛利家を祖先とする。だから、桂に
は兵学、諜報の血が流れていたのかもしれない。
桂がドイツに赴任している間に西南戦争が起こった。山県はこ
の戦争を鎮定し、内戦に備える軍隊から決別し、対外的な脅威、
すなわちロシアによる東方侵攻に備える軍隊に再生させるため
の軍事改革を図ることになる。
この改革の主導的な役割を担ったのが、この桂と次に登場する
川上操六であった。
▼参謀本部創設の父、川上操六
川上操六(かわかみそうろく、1848~1899)は薩摩藩の出身で
あり、1877年の西南戦争では苦渋の選択から陸軍に残り、尊敬す
る薩摩藩の西郷隆盛と戦った。
川上は桂太郎、児玉源太郎とともに「明治陸軍の三羽烏」と呼
称される逸材である。川上は「参謀本部創設の父」と呼ばれ、参
謀本部の発展に多大な貢献をした。おそろく、52歳という若さで
鬼籍に入られなければ、もっと著名な大人物になっていたことは
間違いない。
川上は1870年の普仏戦争に桂と共に観戦武官として派遣された。
その後、国内の連隊長職などを歴任し、頭角を現した。
1884年、川上は桂太郎とともに大山巌・陸軍卿(大臣)に伴っ
て欧州に視察旅行にいく。桂、川上ともに35歳であった。
大山は、今後の陸軍を建設し、近代化するためには、長州の桂
と、薩摩の川上の両大佐が必要であるとして、この欧州視察に大
抜擢した。このとき、二人は「軍政の桂」「軍令の川上」になる
ことを将来の誓いとした。なお軍政とは人事・予算・制度等を主
務とする、軍令は作戦運用を主務とするものである。
1885年1月にドイツから帰国し、山県有朋参謀本部長のもとで、
川上は参謀次長(少将)に就任し、参謀本部の改編に着手する。
わが国は1882年、陸軍はフランス式の兵制からドイツ式に切り替
え、編制・用兵を外征型に改め、ドイツ式の教範整備などを推進
することに決したが、その改革はこれからの課題であった。
この切り替えを決定的なものにしたのが、1885年にドイツから
陸軍大学に招聘されたメッケル少佐である。川上は、桂、児玉源
太郎とともに、メッケル少佐を顧問にドイツ式の兵制を導入する
ことに尽力した。このころ、陸軍ではフランス式かドイツ式かの
議論があったが、川上は「普仏戦争において勝利したドイツを見
習うことが当たり前だ」と忌憚なき意見を述べた。
1887年、川上はふたたびドイツに留学する。ここでは乃木とと
もに、ドイツのモルトケに執事した。また、この時に森鴎外(当
時25歳)に面会して、クラウゼヴィッツの『戦争論』の翻訳と、
その内容を後述する田村怡与造に講義するよう依頼した。
1888年に帰国し、ふたたび参謀次長(名称変更)に就任し、
1890年に陸軍中将に昇任して日清戦争の開戦に大きくかかわるこ
とになる。
日清戦争前の1893年、川上(参謀次長)は清国と朝鮮を視察し、
「先制奇襲すれば清国への勝利は間違いない」と確信を得て帰国
する。この際、田村怡与造(中佐)とともに連れて行ったのが情
報参謀の柴五郎大尉(のちに大将)であった。なお、柴は陸軍大
学を出ずに、情報将校としての活躍で陸軍大将まで上り詰めた希
有な軍人である。柴については次回以降触れることにする。
日清戦争では、川上が推進した陸軍の近代化が勝利に大いに貢
献した。日清戦争以後、わが国の対外情報機能はさらに強化され
ることになる。
1898年1月、川上(中将)は参謀総長に就任する。彼は作戦を
司る第一部長に田村怡与造(当時は大佐、のちに中将)、情報を
司る第二部長に福島安正(当時大佐、のちに大将)を当て、近代
的な参謀部の組織改革を目指した。
その一方で、川上は大陸に対ロ諜報員を派遣して、対外情報網
の構築に尽力した。日露戦争時に活躍する花田仲之助、福島安正
は川上が放った諜報員であつた。
1898年9月、川上は大将に昇任し、日増しに高まるロシアの脅
威に立ち向かうためには、川上はなくてはならない存在になった。
しかし、日露戦争開始前の1899年5月に激務がたたって死亡した。
▼今信玄、田村怡与造
田村怡与造(1854~1903)は山梨県の出身である。その優秀さ
から甲斐の戦国武将・武田信玄にちなんで、川上から「今信玄」
と呼ばれていた。中尉から大尉時代にかけてドイツに留学したド
イツ通である。
1875年、陸軍士官学校に入学(旧2期制)。1883年にドイツに
留学し、ベルリン大学で学ぶ。この時、川上と交流し、軍事研究
に励む。1888年に帰国し、以後は参謀本部に勤務し、陸軍のフラ
ンス式からドイツ式軍制への転換に努め、『野外要務令』『兵站
要務令』の策定などに従事した。
1898年参謀本部第一部長に就任し、川上の右腕として対ロシア
の脅威に備える。同年、川上が死亡したのち、田村はしばらく第
一部長を務めていたが、1902年4月に参謀次長に就任する。
田村は情報将校としての主たる経歴はないが、参謀次長として
インテリジェンスの重要性を認識していた。階級が上の福島を情
報部長として、対ロ情報を強化する一方、ウラジオストックに町
田経宇少佐を派遣するなどした。
日露戦争は、この田村によって指導される運びであったが、彼
もまた川上と同様に無理がたたって日露戦争開戦前に急死するこ
とになる(同日、中将に昇任)。
参謀本部の創設に多大な貢献をした両雄が日露戦争前に急死し
たのだから帝国陸軍の脱力感はいかばかりであったろうか。これ
を見て動いたのが、当時の内務大臣であった児玉源太郎である。
児玉は、“火中の栗”を拾うとばかり、内務大臣から二階級降格
の形で参謀次長に就任する。
▼シベリア単騎横断の福島安正
福島安正(1852~1919)はきっすいの情報将校である。明治維
新後、英語翻訳官から軍人に転換し、情報一筋で大将まで進級し
た最初の軍人である。
福島は長野県で生まれ、1865年、13歳で江戸留学、1869年に東
京の開成高校で英語を学んだことが、のちの出世の登竜門となっ
た。
福島は1874年から陸軍に転籍し、1876年の24歳の時に通訳官と
して西郷従道が率いるアメリカの博覧会視察に随行した。77年の
西南戦争では山県有朋の幕下で伝令使(中尉)として活躍した。
1879年、福島は上海・天津・北京・内蒙古を5か月にわたって
現地調査(当時、中尉)する。これが情報将校としての本格的な
第一歩となった。
その後、陸軍大学校で、ドイツから赴任したメッケル少佐に学
ぶ。この縁で、1887年にドイツ・ベルリン公使館に赴任し、ここ
では公使の西園寺公望(さいおんじきんもち、のちの総理大臣)
とともに、ロシアのシベリア鉄道施設の状況などを報告した。
1892年の帰国に際しては、冒険旅行との名目でポーランドから
東シベリアまでの約18000キロを1年4か月かけて騎馬で横断し
て現地調査を行なった。これが世に有名な「シベリア単騎横断」
と呼ばれるものである。
福島の活躍は、日露戦争において最盛期を迎えるが、これにつ
いては次回以降に述べることとする。
▼このほかの情報将校の活躍
このほか、日清戦争前後においては荒尾精(あらおせい、1858~1896)、
根津一(ねずはじめ、1860~1927)らの傑出した情報将校が活躍した。
一方、ジャーナリストの先駆けといわれる岸田吟香(きしだぎ
んこう、1833~1905)をはじめとする民間有志が商取引などを通
じて大陸深くに情報基盤を展開し、これに応じる参謀本部の若手
参謀が現役を退き、その基盤を拡充し、活動要員の養成に捨身の
努力を払った。このような軍民一体の活動が陸軍の情報活動を支
えていた。
荒尾は1859年に尾張藩士の長子として誕生。外国語学校でフラ
ンス語を修得したのちに、78年に陸軍教導団砲兵科に入学、80年
に陸軍士官学校に入学した。1885年、参謀本部シナ部附に転じ、
86年に清国に赴任した。荒尾が陸軍に入隊したそもそもの理由が
清国の歴史や事情を学び、清国に赴任することであったのであり、
ようやく念願がかなったという訳である。
荒尾は清国で、ジャーナリストの先駆けといわれる岸田吟香の
協力を得て、書籍、薬、雑貨を扱う雑貨屋「楽楽堂」を営み、清
国官憲の監視の目をごまかし、現地調査や諜報組織の設置に着手
する。
1889年に帰国し、黒田清隆首相、松方正義大蔵大臣らの有力者
に対して、「日清貿易研究所」の設立を要請したほか全国行脚し、
清国の事情について講演し、募金を集い、90年に職員と生徒あわ
せて200名程度からなる「日清貿易研究所」を上海に設立し、日中
貿易実務担当者の育成に努力した。また、1892年、日清貿易株式
会社の岡崎栄次郎の資金援助を得て『清国通称総覧』の編集に着
手した。
荒尾は台湾でペストに罹り、38歳の若さで死亡するが、日清貿
易研究所は彼の死後に、東亜同文会会長・近衛篤麿の親友の根津一
らの手によって、東亜同文書院(のちに東亜同文書院大学)に発
展し、日本人のための高等教育機関となった。
他方、根津一は1860年に甲斐国の富家の次男に生まれ、陸軍士
官学校に入学し、荒尾精と知り合い、中国への志を強めた。のち
に陸軍大学への入学を果たし、ここでメッケル少佐に学ぶ。しか
し、彼のドイツ至上主義と日本陸軍蔑視の姿勢に反発し、論旨退
学処分となった。
結局、少佐で予備役に編入、荒尾の招聘で上海に赴任し、日清
貿易研究所の運営、教育活動への従事を経て、1901年に初代の東
亜同文書院の院長に就任した。
こうしたインテリジェンス重視の気風と活動が日清戦争におけ
るわが国の勝利に貢献したのであった。
(以下次号)
(うえだあつもり)
【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関
係論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調
査学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年
にかけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤
務し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教
官をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛
省情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。
2015年定年退官。現在、インテリジェンス研究家としてメルマガ
「軍事情報」に連載中。
著書に
『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11月)、
『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』
(蒼蒼社、2008年9月)、
『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引き』
(並木書房、2016年1月)、
『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争―国家戦略に基づく分析』
(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
(並木書房、2018年4月)など。
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
http://okigunnji.com/url/312/
※女性という斬り口から描き出す世界情報史
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
http://okigunnji.com/url/161/
※兵法をインテリジェンスに活かす
『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』
http://okigunnji.com/url/93/
※インテリジェンス戦争に負けない心構えを築く
『戦略的インテリジェンス入門』
http://okigunnji.com/url/38/
※キーワードは「成果を出す、一般国民、教科書」
■ご意見・ご感想はいつでも受け付けてます
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