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ライターの平藤清刀です。陸自を満期除隊した即応予備自衛官で
もあります。
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上田さんの最新刊
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
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は、女性という切り口からインテリジェンスの歴史
(情報戦史)を描き出した作品です。
本編はもちろん、充実したインテリジェンスをめぐる
資料集がすごく面白いです
こんにちは、エンリケです。
明治の建軍期のはなしです。
非常に興味深く、
「そういうことだったか」
と膝を打つ箇所もありました。
さっそくどうぞ
エンリケ
追伸
『週刊プレイボーイ』7月2日号に掲載された
上田さんも参加した米朝会談分析インタビューは、
一読の価値ありです。とくに、今の風景はいつか
どこかで見た光景に似ている、と感じている人は
必読でしょう。コンビニ等でぜひお求めください。
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わが国の情報史(15)
軍事制度の改革と参謀本部
インテリジェンス研究家・上田篤盛(あつもり)
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□はじめに
先日、私の娘が近隣国に旅行に行きました。当初の帰国予定は
8日(水)夕でしたが、天気予報の台風の影響を警戒して旅客機
が運航中止となり、翌日の昼頃帰ってきました。テレビの天気予
報では、さんざん影響性について報道していましたが、今回の台
風はたいしたことがなかったという印象です。まことに天気予報
とは難しいものです。
ここ最近、ゲリラ豪雨などによって深刻な被害が発生していま
すので、天気予報も被害が大きくなって、市民から批判を受けな
いように、リスク管理の視点から事前の警報をやや誇張的に報道
する傾向にあるのかもしれません。まあ、「備えあれば憂いなし」
であり、住民のリスク意識が高まることは悪いことではありませ
ん。
他方、リスクを管理する側は警告をどの程度発すべきかという
ジレンマにさいなまれます。2009年の中国・九州北部豪雨では、
山口県防府市の防災担当者は「これまでに土砂災害警戒情報が出
ても、土砂崩れは起きなかった。安易な勧告はかえって危険を招
くこともあると考え、現場を見るまで出せないとの認識でいたが、
甘かった」(7月24日付け読売新聞)と反省の弁を述べています 。
2012年5月に茨城・栃木両県での竜巻発生の際も、「自治体の
担当者は『認識が甘かった面はあるが、頻繁に情報を流すと警戒
感が薄れるかもしれない』と対応に頭を悩ませている(5月8日付
け日本経済新聞夕刊)」と述べています。
これは、オオカミ少年症候群という問題です。たびたび警告し
ても、たいしたことが起こらなければ、誰もその警告を「またか」
といって信じなくなる。すなわち、警告の効果がなくなるという
問題です。
とくに国際情勢においてはオオカミ少年症候群がよく問題とな
ります。前回、筆者は横浜の軍学講座に出かけて、フォークラン
ド戦争について講義したとお話ししましたが、この戦争において
もオオカミ少年症候群の失敗がありました。
アルゼンチンの在英大使館からは、事前に貴重な戦争予告の報
告があったにもかかわらず、在英大使館からはずっと同様な報告
があり、実際に何も起きなかったので、「またか」という倦怠感
が生じていました。これが、イギリスが最後までアルゼンチンの
フォークランド島への軍事侵攻を判断できなかった原因の一つで
した。
いまだ朝鮮半島情勢、東シナ海情勢など、われわれの地政学的
リスクが盛んに報道されては、結局のところ、大きな事態には至
っていません。しかし、リスクがなくなったわけではありません。
オオカミ少年症候群が蔓延しないことを祈るばかりです。
さて、前回はわが国が尊皇攘夷を断念し、鎖国と決別し、開国・
通商路線を採択したこと、国内では旧幕藩体制に変えて廃藩置県
を導入し、中央集権国家の歩みを開始したことなどについてお話
をしました。
今回は、わが国の軍事制度についてお話します。
▼軍事制度の改革
新たな世界情勢に対応するため、わが国の近代化、国力養成を
進めるための政治体制が構想され、模索された。とくに国力養成
の観点から軍事制度の改革は急務であった。
以下、軍事制度の改革の概要を時系列で述べることにする。
1868年1月(慶応3年12月)の王政復古により摂政・関
白が廃止され、新政府に総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職が
置かれ、新体制がスタートした。
1868年2月10日(慶応4年・明治元年1月17日)、三職
七科制(総裁・議定・参与,神祇事務科・内国事務科・外国事務
科・海陸軍事務科・会計事務科・刑法事務科・制度寮)が採用さ
れ、ここに海陸軍の部署として海陸軍事務科が置かれた。
議定のなかから、海陸軍務総督(小松宮彰人親王、岩倉具視、
島津忠義)が、参与のなかから海陸軍務掛(広沢真臣、西郷隆盛、
土倉正彦、林通顕、吉井友実)が就任し、練兵・守衛・軍務を担
当した。
1868年2月25日、三職七科制を改めて三職八局(総裁・
議定・参与,総裁局、神祇事務局・内国事務局・外国事務局・
軍防事務局・会計事務局・刑法事務局・制度事務局)として、
海陸軍事務科は軍防事務局となった。
1868年6月11日、三職八局の体制を太政官七官(議政
官、神祇官、行政官、会計官、軍務官、外国官、刑法官)として、
ここに新たに軍務官が置かれた。
1969年6月17日の版籍奉還を経て、8月15日(明治2
年7月8日)、官制が大改正され、新たに2官6省(神祇官・太
政官、民部省・兵部省・外務省・大蔵省・宮内省・刑部省)が置
かれ、軍務官は兵部省(ひょうぶしょう)に再編された。すなわ
ち、中央政府が兵部省を通じて陸海両軍に対する軍令・軍政を司
る体制が確立した。
1870年(明治3)10月、新政府は陸軍の兵式にフランス
式を採用することを定め、71年2月に薩・長・土三藩が貢献し
た兵をもって御親兵(のちの近衛兵)を設置し、はじめて政府直
属の軍隊をもった。この兵力を背景として7月に廃藩置県を断行
して中央集権国家を成立させた。
つまり、明治初期の軍事制度の草分けは、天皇および御所の護
衛を目的とする御親兵(ごしんぺい)の設置に始まる。これは1
868年の鳥羽伏見の戦い後の軍事的緊張に対応するために設置
されたのである。
そして、廃藩置県後の軍事体制は国内の内乱対処を想定し、御
親兵に代わり鎮台を設置することになる。1871年には4鎮台
(東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台))を設置したが、7
3年に名古屋、広島を加えて6鎮台に拡充した。
1872年2月、兵部省は陸軍省、海軍省に分かれた。この際
の陸軍省の行政長官である陸軍卿は欠員であり、次官たる陸軍大
輔(たゆう)は文官の山縣有朋(やまがたありとも、1838~1922年)
であった。
同年3月に山縣は武官職である近衛都督(近衛兵の総司令官)
に就任し陸軍中将に任じ、行政官庁の次官(長官代理)を武官が
兼任する先例が成立した。
他方、海軍卿も最初は欠員であり、同年5月に勝海舟/安芳(か
つ かいしゅう/やすよし、1823~1899年)が文官として海軍大輔
に任命された。
山縣は1872年7月に近衛都督を辞任したが、陸軍中将の身
分はそのままであり、73年6月に行政長官である陸軍卿に就任
した。なお、欧米巡遊中の岩倉使節団に副使として加わっていた
参議の木戸孝允は、武官の身分を保持する山縣が行政長官に就任
することに強く反対した。しかし、在外中であったのでその意見
は通らなかった。
それでもシビリアン・コントロールを維持しようとする試みは
行なわれた。
1874年の佐賀の乱(1874年2月1日~3月1日)が起
きると、同年2月、内務卿の大久保利通(おおくぼ としみち、18
30~1878年)が九州に派遣された。文官である大久保に軍事指揮
権があたえられ、陸軍卿の山縣は武官であったために閣議にも参
加できなかった。
大いに不満であった山縣は、そのため陸軍卿を辞任して近衛都
督兼陸軍省第6局(73年4月施行、後述)に就任し、陸軍卿の事
務は陸軍大輔である西郷従道に任せた。組織上は、山縣が格下で
ある西郷の部下となったが、山縣には軍事作戦を指導する第6局
を牛耳る狙いがあった(後述)。
佐賀の乱以降も、国内の治安は安定しなかった。熊本の神風連
の乱(しんぷうれんのらん、1876年10月24日~10月25日)、萩の
乱(1876年10月28日~12月8日)、福岡の秋月の乱(1876年10月
27日~11月14日)などが起こり、そして1877年には西南戦争
が起った。
反乱軍の首将は当時の日本でただ一人の陸軍大将西郷隆盛(さ
いごうたかもり、1828~1877年)であった。政府軍(参軍)の実
質的な指揮官には、すでに陸軍卿に復活していた山縣有朋(陸軍
中将)と海軍大輔の川村純義(すみよし、海軍中将)が就任した。
西南戦争の終了をもって、もはや国内対処は新政府にとって軍
事の最重要課題ではなくなった。他方、清国、ロシアに対する脅
威感が増大した。このため鎮台から機動本位の師団編成への編成
替えの必要性が生じた。
当時、海軍はイギリス、陸軍はフランスをモデルに軍整備を推
進しており、たとえば陸軍の教範である1971年の歩兵操典も
フランス式であった。
陸軍においては、従前どおりのフランスか、それともプロシア
に変更するかが検討された。結局、普墺戦争(1866年)でオース
トリアに勝利し、普仏戦争(1870~71年)でフランスに勝利した
プロシアを参考に陸軍の編成替を行なうことに決した。この背景
には、桂太郎などのプロシア留学組が影響力を及ぼしたことはい
うまでもない。
かくして1882年、陸軍はフランス式の兵制からドイツ式に
切り替え、編制・用兵を外征型に改め、ドイツ式の教範整備など
を推進するに至ったのである。
1883年、陸軍卿の大山巌(おおやま いわお、1842~1916年)
は渡欧し、参謀将校の日本派遣とその人選を依頼した。その結果
85年には、プロシアからメッケル少佐が来日し、陸軍大学で講
義することになった。つまり、陸軍はメッケル少佐から、モルト
ケ時代のプロシアの参謀本部制度を導入するとともに、88年に
師団編成への転換を成就したのである。
▼参謀本部の沿革
次に、戦争を指導する組織である参謀本部についてみておこう。
1871年(明治4年)7月、兵部省に陸軍参謀局が設置された。
局長(都督)には兵部大輔(たゆう)の山縣有朋が充てられた。
1872年2月に兵部省が陸軍省と海軍省に分割されたことに
ともない、陸軍参謀局は陸軍省参謀局(以下、参謀局)に改編さ
れた。
1873年3月、陸軍省條例が発せられ、参謀局は第6局に改
称された(4月1日施行)。
佐賀の乱の最中の1974年2月8日、上述のように山縣が陸
軍第6局の局長に就任した。しかし、すぐに(同年2月19日)、
山縣は第6局を廃止し、ふたたび参謀局に改めた。そして山縣は
第6局長から参謀局長になった。
参謀局から参謀本部への改編においては長州出身の桂太郎(か
つらたろう、1848~1913年)が活躍した。桂は1870年(明治
3年)8月、プロシアに留学した。1873年10月半ば、プロ
シア留学から帰国した桂に対し、木戸孝允/桂小五郎 (きどたか
よし/かつら こごろう、1833~1877年)は、当時の陸軍卿である
山縣に依頼し、桂を陸軍に入れて大尉に任命した。
1874年、桂はプロシア留学の成果を踏まえ陸軍省から参謀
局を分離独立させることを建議した。その甲斐があって、78年
(明治11年)に陸軍省から分離独立して参謀本部が設置された。
初代の参謀本部長には山縣が就任した。
以降、陸軍においては、軍政は陸軍省が担任し、軍令は参謀本
部が担任する、軍政・軍令の二元化が確立されたのであった。
1886年(明治19年)、参謀本部条例が大幅に改正され、
陸軍省と海軍省が軍政機関として並立し、陸海軍の統合参謀部門
として参謀本部が設立された。これにより、参謀本部が軍令機関
として、参謀本部陸軍部と参謀本部海軍部を経由して両軍を統括
することになった。
1888年、参謀本部条例が廃止され、参軍官制が制定された。
これにともない参軍(天皇の軍隊、有栖川宮熾仁親王)の元に、
陸軍参謀本部と海軍参謀本部が設置された。
1889年に参軍官制、陸軍参謀本部条例、海軍参謀本部条例が廃
止され、参謀総長を設けた参謀本部条例が制定された。これによ
り、陸軍参謀本部は参謀本部となり陸軍の軍令を担当し、海軍参
謀本部が海軍の軍令を担当することになった。当初は、参謀本部
が海軍の軍令も管轄するものとみられていたが、海軍の強い反発
により、参謀本部と海軍参謀本部が並列となったのである。
日清戦争の前年にあたる1893年の参謀本部条例の改正によ
り、戦時大本営条例が制定された。これにより参謀総長が陸軍と
海軍の軍令を担当することになった。在外公館付武官を統括する
任務も参謀総長に与えられた。
日清戦争前の参謀本部の編成は、副官部、第一局、第二局、編
纂課であり、第一局が動員計画・運輸計画を担任、第二局の第一
課が作戦計画を、第二課が外国情報などを担任した。
日清戦争後の1896年(明治29年)5月、参謀本部はそれま
での局制を廃止し、部制をとり、副官部、第一部、第二部、第三
部、第四部、編纂部の六部編制となった。人員は100名を越える規
模になった。
1899年の改正では副官部が総務部、編纂部が第4部に改編
され、この体制で日露戦争を迎えることになるのである。
▼参謀本部におけるインテリジェンス機能
参謀本部の機能について、インテリジェンスの側面から考察を
加えておこう。
1871年に設置された参謀局の任務は、兵用地誌の作成、政
誌の編纂、間諜(スパイ)の運用など、作戦機能よりも情報(イ
ンテリジェス)機能の方が強かった。
しかし、征韓論および征台論が高まるにともない、軍部は当面
の海外出師(派遣)のため、作戦機能を強化する狙いで参謀局の
改編に着手することになった。
その結果、1878年に陸軍省から分離独立して設置された最
初の参謀本部は、参謀本部長および参謀本部次長の下に、総務課、
管東局、管西局、地図課、編纂課、翻訳課、測量課、文庫課から
構成された。
管東局、管西局がこの組織の中心であり、両局は兵用地誌の作成、
政誌の編纂、諜報を担当した。管東局が1・2軍管ならびに北海道・
樺太・満州を、管西局が3・4・5・6軍管ならびに朝鮮、清国沿
海を担当した。
要するに、最初の参謀本部の機能は地域分担制であり、作戦組
織と情報組織は未分化であった。言いかえれば、インテリジェン
スを司る情報組織は作戦組織のなかに埋没状態にあった。
しかし、1885年7月、朝鮮半島をめぐる日・清の紛糾のさ
なかに、参謀本部は大改正され、管東局・管西局は廃止され、第
1局と第2局になった。これにより、第1局が作戦を、第2局が
情報を担当することとなり、作戦と情報(インテリジェンス)が
分化されることになった。
この際、第2局の事務は「外国軍の調査、外国地理の調査及び
その地図の編集」とされ、第2局の第1課が国外の兵制・地理・
政誌の収集及び分析を、第2課が運輸法及び全国の地理・政誌の
収集及び分析を、第3課が諸条規の調査などを担任した。
諜報(ヒューミント情報)については参謀本部条例第12条で
「諜報のことは第2局長これを主任す」と定められ、第2局長(大
佐)が自ら扱ったものとみられる。
日清戦争後の1896年5月の6部編制では、「外国の軍事及
び地理、諜報、軍事統計」を所掌することになったのが第3部で
ある。1885年の改編と96年の改編により、作戦と情報の分
化は定着されたかにみえた。
しかし、日露関係の雲行きがあやしくなる1899年、川上操
六(かわかみ そうろく、1848~1899年)参謀総長は作戦部門と情
報部門が合体させ、地域分担制に逆戻りさせてしまう。この理由
についてはドイツ参謀本部の影響を受けたとの見方もある。なお、
この改編で第1部が東京以北・ロシア・朝鮮・満州、第2部が名
古屋以南・台湾・清国の担当することにした。
ただし、いざ日露戦争が開始されると、陸軍首脳も作戦・情報
組織を地域別に混在させていては実戦に対応することができない
ことを悟ったようである。
大本営陸軍参謀本部、その機能の大部分を戦域に移動させた満
洲軍総司令部の編成では、地域分担制を廃止し、作戦部門(作戦
課)と情報部門(情報課)を臨時措置として分離・独立させた。
情報部が作戦部から独立しないことの弊害は、とかく作戦担当
者が、自ら策案した作戦に都合がいいような情報ばかりを選択し
て、その作戦の有効性を否定するような情報を無視しがちになる
ことである。すなわち作戦が情報を軽視した、主観的で独りよが
りなものになりがちな弊害を生むことである。
日露戦争における満洲軍司令部の編成において、こうした弊害
を認識して作戦部門と情報部門の分化を形式上・組織上は確保し
たものの、松川敏胤(まつかわとしたね、1859~1928年)大佐が
率いる作戦課が、福島安正(ふくしまやすまさ、1852~1919年)
少将の情報課を無視して、独自に情報収集に走るなど、実態は両
部門の分化が有機的に機能することはなかったのである。
次回は、明治のインテリジェンスに貢献した主要な人物を紹介す
ることとしよう。
(以下次号)
(うえだあつもり)
【著者紹介】
上田篤盛(うえだ・あつもり)
1960年広島県生まれ。元防衛省情報分析官。防衛大学校(国際関
係論)卒業後、1984年に陸上自衛隊に入隊。87年に陸上自衛隊調
査学校の語学課程に入校以降、情報関係職に従事。92年から95年
にかけて在バングラデシュ日本国大使館において警備官として勤
務し、危機管理、邦人安全対策などを担当。帰国後、調査学校教
官をへて戦略情報課程および総合情報課程を履修。その後、防衛
省情報分析官および陸上自衛隊情報教官などとして勤務。
2015年定年退官。現在、インテリジェンス研究家としてメルマガ
「軍事情報」に連載中。
著書に
『中国軍事用語事典(共著)』(蒼蒼社、2006年11月)、
『中国の軍事力 2020年の将来予測(共著)』
(蒼蒼社、2008年9月)、
『戦略的インテリジェンス入門―分析手法の手引き』
(並木書房、2016年1月)、
『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争―国家戦略に基づく分析』
(並木書房、2016年4月)、
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
(並木書房、2016年10月)
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
(並木書房、2018年4月)など。
『情報戦と女性スパイ─インテリジェンス秘史』
http://okigunnji.com/url/312/
※女性という斬り口から描き出す世界情報史
『中国戦略“悪”の教科書―兵法三十六計で読み解く対日工作』
http://okigunnji.com/url/161/
※兵法をインテリジェンスに活かす
『中国が仕掛けるインテリジェンス戦争』
http://okigunnji.com/url/93/
※インテリジェンス戦争に負けない心構えを築く
『戦略的インテリジェンス入門』
http://okigunnji.com/url/38/
※キーワードは「成果を出す、一般国民、教科書」
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